第一話 ―小花柄の便箋と、届けたい言葉―
やわらかな午後の陽が執務室の窓から斜めに差し込み、磨かれた机の上に、長い光の帯を引いていた。
セバルトが書類の端を揃えていると、廊下から小さな足音が近づいてくる。扉を叩く音は、トントン、と二度。いつもの規則正しい響きより、ほんの少しだけ弾んでいた。
「セバルト、いる?」
「おりますよ、お嬢様」
応じるより先に、重い扉がそっと開く。アーシェは小さな両手を背中で組み、靴の先で床をなぞるようにして立っていた。頼みごとがある時の、いつもの立ち方だ。
「お手紙を、書きたいの」
「お手紙、でございますか」
セバルトは書類を机に置き、背筋を正した。誰宛てかは尋ねない。背中で組んだ手をほどけずにいる様子と、まっすぐに見上げてくる瞳を見れば、ただの挨拶状でないことは知れた。
「あの日の……騎士さまに」
語尾が、恥ずかしそうに小さくなる。
厄災級魔獣が青い海を揺るがして現れたあの日、銀の光を纏い、島と人々を守ってくれた若き騎士。王弟殿下というお立場も、お名前も、アーシェは知っている。それでも口にする時は、いつだって「騎士さま」だった。
「今度いつハイセルにいらっしゃるか、教えていただきたくて。それと」
アーシェは人差し指を一本立て、こてりと首を傾げた。
「その日に、小さなお茶会をしたいの」
「小さな、お茶会」
「大勢だと、ヴェラキスが疲れてしまうでしょう。だから、騎士さまと……ヴェラキスだけ」
最後のひと言で、声がひときわ軽くなった。胸の前でぱちんと両手を合わせると、白い頬にほんのり赤みが差す。
「ヴェラキスも、来てくれるかしら」
「お嬢様のお招きですから。きっと、お喜びになるでしょう」
「そうだと、嬉しいな」
アーシェの視線が、宙の一点にふわりと留まった。群青の翼に、鱗の艶。思慮深げな金色の瞳。あの日この手で触れた幻獣のぬくもりは、思い出すだけで指先がくすぐったい。
――また、会えたらいいな。
「今度は、騎士さまとヴェラキスにも、召し上がっていただきたいの」
「パンケーキ、でございますね」
「はい。ようやく、ちゃんと作れるようになったの」
白泡石を使った生地は、ふっくらと膨らみ、焼き色もやわらかさも、最初の試作とは見違えるほどになった。あの日から重ねてきた厨房の時間を、ようやく誰かへ届けられる。そう思うと、話しているそばから気持ちが先へ駆けていく。
「では、お嬢様。まずはお手紙を仕上げましょうか」
「あ……そうだったわ」
アーシェは肩をすくめた。セバルトの声に、急かす響きはない。駆けていく気持ちを、手紙という形へ引き戻してくれるだけだ。
「どなたに、何を伝えたいのか。お嬢様ご自身の言葉で、整えてまいりましょう」
「はい」
小さくうなずいて、アーシェは書き物机の大きな椅子へ座り直した。
◇ ◇ ◇
机の上に、セバルトが文箱を置いた。蓋を開けると、羽ペンとインク壺の脇に、数枚の便箋が重ねてしまわれている。
アーシェは指先で、一枚ずつそっとめくっていった。どの紙の縁にも、白い小花が手描きされている。同じ花はひとつとしてなく、細い筆の跡が、乾いた絵の具のかすかな盛り上がりになって残っていた。
「これがいいと思うの」
小さな花が、縁をぐるりと囲むように咲いた一枚。
「よいお選びかと存じます」
セバルトは陶器のインク壺の蓋を開け、羽ペンの先を整えて、アーシェの手元へ滑らせた。そのまま一歩下がり、窓際に控える。
「書き損じたら、もったいないわね」
「焦らずとも、よろしいのですよ。まず、どなたをお招きするのか、書きましょうか」
「騎士さまと……ヴェラキスも」
羽ペンを取り、黒いインクにちょんと浸す。ペン先が紙に触れると、かりかり、と乾いた音が執務室に響いた。紙は厚みがあって、指の腹にしっとり吸いつくようだ。幼い文字は少し右へ傾いで、けれど一画ごとに力がこもっている。
数行書いては手を止め、眉を寄せる。それを何度か繰り返した。
「セバルト、次は……何て書けばいいのかしら」
「何を、なぜ伝えたいのか。そのままの言葉でよろしいのですよ」
アーシェはペンを浮かせたまま、宙を見上げた。窓の向こうで、庭のオリーブの葉がしゃらりと鳴る。
「あの日、助けてくださってありがとうございました、って書いたわ。それから、パンケーキを召し上がっていただきたいって」
「よろしいかと存じます」
うなずきをもらって、ペン先がまた紙の上を走り出す。インクの匂いが、ほのかに部屋の空気へ混ざった。
けれど、半ばまで書いたところで、小さな手がふっと止まる。
「……セバルト」
「はい」
「騎士さまのこと、何てお呼びすればいいのかしら。ジルヴァン様、とお書きするべきなのかもしれないけれど」
アーシェは言葉を探すように、ペンの軸を指先で転がした。
「まだ、そんな風にお呼びしたことがないの。勝手にお名前でお呼びするのは、失礼な気がして」
あの日、青い海の光の中で出会った時から、アーシェにとってそのお方は「騎士さま」だった。幼い自分が高貴なお名前を呼ぶのは、まだ早い。そんな遠慮が胸の隅にある。
「お嬢様のお気持ちを、そのままお書きになればよいでしょう」
セバルトの眉間の皺が、わずかに和らぐ。アーシェの肩から、すっと力が抜けた。
「……そうよね。騎士さまは、騎士さまだもの」
ペンを握り直した指先が、迷いなく動き出す。途中で何度か「ここはこれで合っているかしら」と尋ねながら、それでも最後まで、自分の言葉だけで書き上げた。
名前をひと文字ずつ丁寧に書き添えて、ペンを置く。
「……できたわ」
息を吐くと、乾きかけたインクの匂いが鼻先をくすぐった。便箋を両手で持ち上げ、窓の光にかざして眺める。誇らしさと、少しの照れくささが、頬の線に浮かんでいた。
「では、封をいたしましょう。蝋は熱いですので、少し離れてご覧ください」
セバルトが手紙を折りたたみ、小さな蝋燭の火で封蝋を溶かす。とろりと落ちた蝋の甘い匂いが立ちのぼり、家の印章が、ぐっと押し当てられた。
アーシェは机の端に両手をかけ、背伸びをして、その手元を息をつめて見守った。
◇ ◇ ◇
家族で夕食を囲んだあと、アーシェは封蝋の乾いた手紙を両手で抱え、ヴェルナルドの執務室を訪ねた。
「お父様」
「どうした、アーシェ」
羊皮紙の書類から顔を上げたヴェルナルドの前に、宝物を捧げるように手紙を持った娘が立っている。
「このお手紙を、騎士さまへ届けていただけないかしら」
「騎士さま……か」
穏やかな目元が、ふっとほころんだ。娘が変わらず「騎士さま」と呼び続けていることへの感慨が、そこにあったのかもしれない。けれど、余計な問いは重ねなかった。
「わかった。必ず届けよう」
「ありがとう、お父様」
大きな掌に、折りたたまれた手紙が小さく乗る。それをもう一度だけ見つめてから、アーシェはようやく、肩の荷を下ろしたように微笑んだ。
◇ ◇ ◇
遠く離れた王都、王立騎士団の執務室には、古い羊皮紙とインクの匂いが満ちていた。中庭のほうから、剣を打ち合わせる乾いた音が遠く届いてくる。
黙々と書類を片づけるジルヴァンのもとへ、副団長のボイドリュウが一通の手紙を手に、足音を殺して現れた。
「殿下、ハイセル領から届き物です」
「ハイセルから?」
ジルヴァンが銀の髪を揺らして顔を上げ、受け取った手紙の封蝋を割る。広げた紙の縁が、ボイドリュウの目に入った。
「……ずいぶん、凝った便箋ですね」
白い小花が、縁をぐるりと囲んで咲いている。どれも筆で描かれた一輪ずつで、軍の報告書や公文書が山をなす机の上では、ひどく浮いて見えた。
「これはまた、可愛らしいものですね。もしや殿下、恋文では?」
軽口には、隠しきれないからかいの色が混じる。ジルヴァンは文面へ目を落としたまま、口の端をかすかに上げた。
「私宛てではない」
「は?」
ボイドリュウは呆気にとられ、手紙と主の顔を交互に見比べた。
「では、どなたへ?」
「ヴェラキス宛だ」
「……幻獣殿宛の、お手紙、ですか」
「らしいな」
ジルヴァンは文面に目を通していく。お世辞にも整っているとは言えない、幼い文字。けれど一文字ごとに、心を込めて書かれたことが伝わってくる。
厄災の日、島を守ってくれたことへのお礼。次にハイセルを訪れる日を教えてほしいという願い。小さなお茶会に、騎士さまとヴェラキスだけを招きたいという、まっすぐな一文。
読み進めるうちに、硬質な横顔が、少しずつほどけていった。
「騎士さま、か」
自分をそう呼ぶ小さな声を思い出したのか、口元がまた静かに緩む。誰に見せるでもない、穏やかな笑みだった。
「次にハイセルへ向かう日程を、確認してくれるか」
「かしこまりました……いや、しかし殿下」
ボイドリュウは指示を受けながらも、机の上の小花の縁取りから目を離せずにいた。
「幻獣殿宛の招待状というのは、生まれて初めて見ました」
「私もだ」
短い返事に、ボイドリュウはとうとう降参して、声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
返事を待ちはじめて、数日が過ぎた。
潮風の通るハイセルの領主館で、アーシェは窓辺に立ち、茜に染まりはじめた海を眺めていた。木の窓枠に小さな頬杖をつくと、そのまま、波間の光を目で追ってしまう。
「まだ、お返事……来ないわよね」
「王都までは、少し時間がかかりますから」
傍らに控えるセバルトが、低く応じる。
「わかっているの。わかっているのだけれど」
騎士さまは、あのお手紙を喜んでくださっただろうか。背筋のすっと伸びた立ち姿を思い浮かべると、誇らしいような、くすぐったいような気持ちがこみ上げる。けれど、それ以上に――
「ヴェラキス、来てくれるかな」
呟きに、金色の瞳と、こてんと傾げられた首の仕草が重なった。距離をはかるような静かな近づき方も、ときどき見せる小さな甘えも、思い出すと自然に頬が緩む。
「幻獣は、気まぐれなものですから」
「でも、ヴェラキスは特別なの。きっと、来てくれるわ」
きっぱりと言い切って、アーシェは窓の外へ顔を戻した。
「いつ来てくださっても、一番おいしいのを焼けるように、練習を続けておくわ」
「では、料理長にも、そのようにお伝えしておきましょう」
セバルトの眉間の皺が、またひとつ、ゆるむ。
海は、いつのまにか黄金色に染まっていた。夕映えが、窓枠に置いた小さな手の甲まで、淡く照らしている。
――ヴェラキス、来てくれる。
その日を待つ時間さえ、もう楽しみのひとつだった。




