第七話 ―琥珀糖晶―
高地へ向かう道は、島の北側を縫うように続く細い山道だった。
すうっと息を吸うと、低地とは違う空気が肺いっぱいに満ちる。少し薄く、ひんやりとしていて、草の香りがいっそう濃かった。
登り始めてしばらくすると、視界が開ける。広い牧草地では、白い獣たちがのんびりと草を食んでいた。
雪乳獣だ。
牛よりひと回り小さく、体つきはポニーに近い。冬毛は雪のように白く、ゆるやかに後ろへ流れる角が午後の日差しを受けて淡く輝いている。
青灰色の瞳が、穏やかにこちらを見つめていた。
その向こうで、銀色にきらめくものが風に揺れた。
「あれよ」
アーシェは指を差した。
牧草地の端、小高くなった場所に、細長い葉を持つ植物が群生している。午後の光を受け、銀緑色の葉がしゃらりと揺れていた。近づくと、葉の表面には朝露にも似た細かな雫が宿り、一粒一粒が光を映して瞬いている。
「綺麗ね」
「でしょう」
ベルトがどこか誇らしげに頷いた。
「月明かりを浴びると、もっと青白く輝くんです。満月の夜には、この一帯が淡く光って見えるほどですよ」
アーシェはしゃがみ込み、一枚の葉へそっと指先を伸ばした。細く、しなやかで、銀糸のような手触り。ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐる。
気づけば、一頭の雪乳獣がすぐそばまで歩み寄ってきていた。青灰色の瞳で、じっとアーシェを見つめている。
「あら」
手を差し出すと、雪乳獣は鼻先を優しく押し当ててきた。温かく、柔らかな感触だった。
「この子たち、甘い香りが好きなのね」
「なるほど」
ベルトは手帳を開き、さらさらと書き留める。
「月密根を好むのも、同じ理由なのかもしれませんね」
厩番の老人に事情を話し、月密根を数本分けてもらった。老人は不思議そうに目を丸くしたが、快く頷いてくれる。
「こんなもん、家畜の餌ですよ。何に使うんで?」
「煮詰めてみようと思って」
老人はしばらくアーシェとベルトを見比べ、やがて肩をすくめた。
「……奇特なお方たちですねぇ」
「よく言われます」
ベルトが真顔で答えると、アーシェは思わず笑みをこぼした。
* * *
翌日、厨房に入った。
月密根をよく洗い、小さく刻む。刻んだ根を鍋へ移すと水を加え、ガストンが静かに火を入れた。やがて湯気が立ち始める。ほのかな甘い香りが、厨房いっぱいに広がった。
フィーゼの根のような青臭さはない。澄み切った、どこか静けさを感じる甘い香りだった。
――違う。
胸の奥で、小さく何かが震えた。
ガストンが火加減を見ながら、ゆっくりと煮詰めていく。鍋の中の液は次第に薄い琥珀色へと変わり、とろりと木べらに絡みついた。
「そろそろ濾しましょう」
用意していた布を鍋へ広げる。煮汁をゆっくり注ぐと、繊維だけが布に残り、透き通った琥珀色の液体が静かに落ちていった。
再び火にかける。
ガストンは焦がさぬよう丁寧に木べらを動かし、アーシェは固唾をのんで鍋を見つめ続けた。液は少しずつ色を深め、とろみを増していく。木べらを持ち上げると、細い糸がゆっくりと伸びた。
――糸を引いている。
前世の記憶が、静かによみがえる。
アーシェは石板へ薄く流し広げた。
あとは待つだけ。
息を潜めながら、ゆっくりと冷えていくのを見守る。
やがて表面が固まり始めた。
そっと端を爪で引っかく。
しゃり、と小さく乾いた音が響いた。
アーシェの鼓動が大きく跳ねる。
慎重に割ると、薄い琥珀色の断面が燭台の灯を受け、宝石のようにきらめいた。
まだ粗い。
まだ理想には遠い。
それでも――。
一片を口へ運ぶ。
甘い。
フィーゼの根の青臭さもない。木苺の酸味もない。蜂蜜の濃い香りもない。ただ、澄み切った甘さだけが、静かに舌へ広がっていく。
「ベルトさん」
「はい」
「食べてみて」
ベルトは小さな欠片を受け取り、ゆっくり口へ運んだ。しばらく黙ったまま味わい、静かに息をつく。
「……甘い」
「ええ」
「本当に……純粋な甘さです」
「ええ」
二人は鍋を挟んで顔を見合わせた。
ベルトは眼鏡を押し上げる。
「お嬢さん」
「なあに」
「これは、大変な発見ですよ」
アーシェは石板を見つめた。薄い琥珀色の欠片が、燭台の灯を受けて静かに輝いている。白い砂糖には、まだ遠い。それでも確かに、甘さが結晶となった。
まるで小さな琥珀の宝石。
「……琥珀糖晶」
思わず、その名が口をついた。
いつか、この輝きが白銀へと姿を変える日が来る。
その第一歩だ。
はじまった。
ようやく、はじまった。
今度は声を上げることなく涙がこぼれた。雫は石板へ落ち、小さな染みを残す。ベルトは何も言わない。ただ静かに手帳を開き、その瞬間を書き留め始めた。
涙を拭って、アーシェは石板の上の欠片を見つめ直した。
美しい。けれど、このままでは。
――硬い。これでは、粉に挽くのがやっとだわ。舌の上でほろりと溶けるような、あの感覚には、まだ遠い。
――水を、ほんの少しだけ加える。手のひらで、押しては返し、押しては返し。それから、へらで切るように、細かく揉みほぐす。
そうして何度も繰り返し、糖蜜を取り除いていく。最後に残るのは、淡く、さらさらとした砂糖――
「ガストン」
「はい」
「まだ、続きがあるの。少しだけ、水を足してみてほしいわ」
ガストンは怪訝そうに眉を寄せたが、言われた通り、指先にほんの一滴分の水を含ませて、石板の上の琥珀糖晶へそっと落とした。
「そう、少しずつ。多すぎると、溶けてしまうから」
ガストンは頷き、大きな手で、そっと押しては返し、押しては返しを繰り返した。
「今度は、切るように。揉むというより、刻むように混ぜてみて」
言われるがまま、ガストンは木べらの角を使い、塊を細かく切り分けるように動かし始めた。
しゃり、しゃり、しゃり。
乾いた音が、少しずつ軽くなっていく。塊はほろほろと崩れ、粒はどんどん細かくなっていった。艶やかだった大きな結晶が、さらさらとした細かな砂状の粒へと姿を変えていく。
ひとつまみ、指先でつまんで口に運ぶ。
――違う。さっきよりずっと、軽い。
舌の上で、すっと溶けていく。残っていたはずのえぐみも、いつの間にか消えていた。
「……これだわ」
思わず、声が漏れた。
ガストンは自分の手のひらに残った、さらさらとした感触をじっと見つめていた。
「……このやり方は、どこで?」
「なんとなく。思いついたの」
ガストンは、それ以上は聞かなかった。ただ、もう一度、その手触りを確かめるように、指をこすり合わせていた。
* * *
その夜。
セバルトが厨房を訪れると、石板の上に並ぶ琥珀色の欠片へ目を留めた。
「……これは」
「月密根から作ったものです」
ガストンが静かに答える。
「今日、お嬢様が思いつかれましてな」
セバルトは一片をつまみ、口へ運んだ。広がるのは、ただ澄み切った甘さ。
「……ガストン」
「なんだ」
「私が間違っておりました」
「何がだ」
「お嬢様は熱で気が触れたのではございませんでした」
ガストンは磨いていた鍋から顔を上げる。
そして珍しく、声を立てて笑った。




