第五話 ―ベルトとの出会い―
研究棟への道は、屋敷の庭を抜けた先にあった。
元は書庫だった建物を、ベルトが引っ越してきてからそう呼ぶようになったのだと、アーシェは聞いていた。もっとも、屋敷の皆は今も「離れ」で通している。
石畳の小道は、手入れされた花壇の脇をくねくねと曲がりながら、木立の向こうへと続いている。踏むたびに靴の下でこつん、こつんと硬い音が鳴った。アーシェは父に連れられてその道を歩きながら、前を行くセバルトの背中を眺めていた。
「セバルト、ベルトさんはどんな方なの?」
「……一言で申し上げるなら」
セバルトは前を向いたまま答えた。
「変わった方です」
「どんな風に?」
「素材を前にすると、時間を忘れる方でして。先日も、干潟で何かを拾い集めておられて、気がつけば満潮になっていたと」
「まあ」
「ヴェルナルド様が、急ぎ小舟で兵をお送りになりました」
「……海に沈みかけたの?」
「本人は至って楽しそうでございました」
アーシェは思わず笑った。
――素材を前にすると時間を忘れる、か。その気持ち、少しだけわかる気がするわ。
◇ ◇ ◇
木立を抜けると、小さな石造りの離れが見えてきた。窓から光が漏れて、木の葉の影を淡く揺らしている。窓の外側には無数の植物が吊るされていた。乾燥させているのだろう。束になった草や根っこ、名前も知らない実が風に揺れ、かさかさと乾いた音を立てている。
扉の前には、土のついた長靴が脱ぎ捨てられていた。二足。向きはばらばらだった。
ヴェルナルドが扉を叩いた。返事はない。
もう一度、強く叩く。
「――っあ、はい! 今!」
中から何かが倒れる音がした。続いて、床をころころと転がる音。慌ただしい足音が近づいてきて、扉が勢いよく開いた。
現れたのは、四十がらみの男だった。
くしゃくしゃの薄茶色の髪。丸い眼鏡が鼻の先に引っかかっている。上着の前ボタンは一つずれていた。手には何かの根っこを握ったままで、指先は土ですっかり黒くなっている。
男はヴェルナルドを見つめ、それからアーシェに目をやり、最後に眼鏡を押し上げた。
「辺境伯様。これはまた、急に」
「急ではない。昨日、使いをやっただろう」
「ああ」
ベルトは頭を掻いた。
「そうでしたっけ」
セバルトの眉間の皺が、また一段深くなった。
◇ ◇ ◇
離れの中は、外からの想像を遥かに超えていた。足の踏み場が、ほとんどない。床には本や紙束、乾燥途中の植物の束が無造作に積み重なっている。隙間を選んで足を置かなければ、うっかり踏んでしまいそうだった。
「……足の踏み場がないわね」
アーシェはそろりと一歩を踏み出し、思わず呟いた。
壁際の棚という棚に、瓶が並んでいる。本来は書物を収めるためのものだろうが、今は液体や粉末、謎の乾燥物が詰まった瓶や草の束で埋め尽くされていた。机の上には書きかけの紙が山積みで、その脇に虫眼鏡と、見たことのない形の器具が転がっている。窓際の鉢植え、天井から吊るされた植物――部屋全体が、土と草と薬品の混ざり合った匂いに満ちていた。むわりとした、けれど不思議と不快ではない匂い。
アーシェはきょろきょろと見回した。
――前世の研究室みたいだわ。
「娘が、植物について聞きたいことがあるそうだ」
ヴェルナルドが切り出した。
ベルトはアーシェを改めて見つめた。眼鏡の奥の目が、子供を見る目から、珍しい標本を見つけた時の研究者の目へと変わる。
「お嬢さん、いくつで?」
「八つよ」
「八つ」
「八つの子が、植物の何を聞きたいんです?」
アーシェは真っ直ぐにベルトを見返した。
「甘みを持つ根っこを探しているの。煮詰めて結晶化できるくらいの甘みを持つものが、この島にあるかどうか知りたくて」
ベルトの動きが止まった。顎を撫でていた手が止まり、眼鏡の奥の目がじわじわと見開かれる。
「……結晶化」
「ええ」
「根っこを煮詰めて」
「そうよ。砂糖が高価で手に入らないから、似たものを自分で作ろうと思っているの」
ベルトはしばらくアーシェをまじまじと見つめた後、ヴェルナルドへ視線を向けた。
「辺境伯様」
「なんだ」
「このお嬢さん、八つですよね」
「ああ」
「本当に」
「私の娘だ」
ベルトは再びアーシェに向き直った。
「何か、試してみたことはありますか」
「三日間、草をかじったわ。全部苦いか渋いかだったけれど」
「……草を、かじった?」
「ええ。それから、木苺を煮詰めたら……果実の蜜のようになってしまって」
「……なるほど」
* * *
「根っこに甘みを持つもの、か」
ベルトは呟きながら棚の奥から分厚い本を引っ張り出してきた。表紙には細かい文字がびっしりと書き込まれている。ぱらり、ぱらりとページをめくる音が部屋に響く。
「この辺境で自生するものに限るとすると……」
「ベルトさん」
「なんです」
「その本、全部ご自身で書いたの?」
ベルトは手を止め、アーシェを見た。
「そうですよ。この十二年かけて」
「素晴らしいわ」
ベルトは一瞬きょとんとした。それから照れたように頭を掻き、その拍子に眼鏡がずり落ちた。
「……まあ、好きでやってることですから」
「好きなことを十二年続けられるなんて、尊敬するわ」
部屋の隅で、セバルトがかすかに目を細めた。主の娘が社交辞令ではなく、本心からそう口にしていると分かったからだ。ヴェルナルドも黙って静かに目を細めている。
「これですね」
しばらくして、ベルトがページの一点を指さした。アーシェは身を乗り出す。そこには細かい解説文と、緻密な手描きのスケッチがあった。
「フィーゼの根。この島の北側の丘、日当たりのいい斜面に多く自生しています。生育期は春から初夏。土が乾きすぎると育ちが悪くなる。根の太さは、大体三年目あたりで食用に適した太さになります。噛むと、確かにほんのり甘みがある。ただし――」
ベルトは眼鏡を押し上げた。
「同時に、独特の青臭さも出る。この青臭さは根が古くなるほど強く出る傾向があって、収穫の時期を誤ると甘みより青臭さの方が勝ってしまう。加えて煮詰めた場合――試したことはありませんが、理論上、水分が飛ぶ分糖度は上がるはずです。ですが同時に、青臭さの成分も凝縮されるでしょうね」
アーシェは説明を頭の中で整理した。
「つまり……旬の時期に採れば甘いけれど、煮詰めると青臭さも一緒に濃くなっちゃうかもしれない、ってことね?」
ベルトは「え」と意表を突かれた顔をした。
「……はい。その通りです」
「先にそう要約してくれたら早かったのに」
「言いましたが」
「ふふっ、長かったわ」
セバルトの眉間の皺が、さらに深くなった。
「それでも、試してみてもいいかしら」
「どうぞ」
ベルトは肩をすくめた。
「私も結果が気になりますから、試したら教えてください」
アーシェは本のページをじっと見つめた。
――これじゃないかもしれない。でも、試す価値はあるわ。
「ベルトさん」
「なんです」
「他にも甘みを持つ可能性のある植物があったら、教えてもらえるかしら。これからも相談に来ていい?」
ベルトは眼鏡を押し上げた。またあの目になっている。未知のものを見つけた時の、純粋な好奇心に満ちた目だ。
「……面白いお嬢さんだ」
独り言のように呟き、深く頷いた。
「いいですよ。私も、誰かが実際に試してくれた方が研究が進みますから」
「ありがとう、ベルトさん」
アーシェが微笑むと、窓から差し込む光が揺れ、埃っぽい部屋を一瞬だけ明るく照らした。
ベルトは照れくさそうに視線を外し、手の中の根っこを無意味に握り直した。
◇ ◇ ◇
扉を出る際、アーシェは振り返った。
「ベルトさん、その手に持っている根っこは何なの?」
「ああ、これですか」
ベルトは嬉しそうに掲げた。
「今朝、崖の下で見つけた珍しい種類で――」
「ベルト殿」
セバルトが静かに遮った。
「お嬢様はまだ八つでございます」
「あ、そうか」
ベルトは残念そうに根っこを下ろした。
「また今度にしましょう」
「ええ、ぜひ」
アーシェは笑って、石畳の小道を歩き始めた。こつん、こつんと靴音が響く。木立を抜ける風が、乾いた草の匂いをかすかに運んできた。
背後で、ベルトがヴェルナルドに小声で囁くのが聞こえた。
「辺境伯様、あのお嬢さん、本当に八つですか」
「ああ」
「……なんといいますか」
「なんだ」
「目が、大人ですね」
ヴェルナルドは答えず、ただ静かに微笑んでいた。




