第四話 ―父への相談―
ヴェルナルドの執務室は、屋敷の中で一番窓が多い部屋だった。
午後の光が、三つの窓から柔らかく差し込んでいる。書類の山と、広げられた地図と、インク壺に立てられた羽根ペン。辺境伯の仕事というのは、剣を握ることより書き物の方がずっと多いのだと、アーシェはこの部屋に来るたびに思う。
窓辺では、光の筋の中を埃がきらきらと舞っていた。それまでこの部屋を満たしていたのは、羽根ペンの先が紙をこする、さらさらという音だけだった。
「アーシェ、どうした」
書類から顔を上げたヴェルナルドが、娘の顔を見て表情をほぐした。執務中であっても、娘が来ると決まってこの顔になる。
――お父様のこの顔、好き。
密かにそう思いながら、アーシェは部屋の中へ入った。
部屋の隅では、セバルトが静かに控えていた。
いつもそうだ。父の執務室には、必ずセバルトがいる。いつ来ても、まるで部屋の調度品のように、しかし確かな存在感で、そこにいる。それでいて、アーシェの側にも自然といる不思議な存在でもあった。
「お父様、聞いてもいいかしら」
「もちろんだ。座りなさい」
アーシェはこくんと頷いてから、父の机の前の椅子に、すっと優雅に腰を下ろした。膝の上で両手を重ねる。行儀よく、けれど心なしか、いつもより少しだけ力がこもっていた。
「砂糖のことなのだけど」
ヴェルナルドの表情が、かすかに動いた。羽根ペンを置く手が、一瞬だけ止まる。
「砂糖」
「ええ。私、砂糖が欲しいの。でも、この島では見たことがなくて。どこから来るものなのかしら」
父と娘の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
ヴェルナルドは羽根ペンを置いて、少し考えるように窓の外へ目をやった。春の光が、その横顔を温かく照らしている。
「砂糖はな、アーシェ」
落ち着いた声で、言った。
「サトウキビという植物から作られる。南の、遠い土地でしか育たない植物だ」
「南の、遠い土地……」
アーシェは、息を呑んだ。
「この島にはないのね……王都にはあるのかしら」
「王都でも、そうそう手に入るものではない。金と同じ重さで売られることもある」
「金と……」
それほどのものなのか。
――前世の記憶の中では、砂糖はもっと身近なものだった。袋いっぱいに詰められて、棚に当たり前のように並んでいた。手を伸ばせば届く場所に、いつでもあった。
この世界では、砂糖はそれほどまでに、遠いものだった。
「……そうなのね」
声が、少し沈んだ。
窓の外で、鳥が鳴いた。のどかな声だった。それとは対照的に、アーシェの膝の上の手は、いつのまにか、きゅっと握られていた。
アーシェはしばらく、その手を見つめていた。
――遠い。でも。
甘みは、植物から生まれる。砂糖だけが、甘みではないはずだもの。
顔を上げた。握られていた手が、ふっとほどける。
「ならば、砂糖に似たものを自分で作れないかと思っているの。甘みを持つ植物が、この島にもあるはずだから」
ヴェルナルドは、娘の顔をまじまじと見た。
八歳の子どもの言葉ではない、とわかっていた。それでも、その真剣な目を見ていると、父親として胸が動かされる。
「……既に試しているのか」
「草と、木苺を試したわ」
「草を」
ヴェルナルドの眉が、わずかに上がる。
「かじってみたの。三日間」
部屋の隅で、セバルトの眉間に、いつもの皺がそっと寄った。
「――して、味は」
「苦いか渋いか、そのどちらかだったわ。全部」
あっさりと言い切るアーシェに、ヴェルナルドは笑いをこらえた。真剣な顔を保とうとしても、口元がわずかに緩む。
「木苺は――」
言いかけて、アーシェは一瞬、口をつぐんだ。
――ジャムになった、って言いかけたわ。だめだめ、この世界にまだない言葉だもの。
「……果実蜜、というものになってしまって」
「果実蜜?」
「甘く煮詰めた果実、みたいなものなの。ガストンが名付けてくれたのよ」
少し早口になった。ヴェルナルドは特に気に留めた様子もなく頷いたが、部屋の隅のセバルトが、ほんのわずかに片眉を上げた。
「それで、次はどうするつもりだ」
「根っこはどうかと思っているの。果実より根の方が、甘みが強いものがあるはずだから」
「根っこ、か」
ヴェルナルドは顎に手をやり、思案する仕草を見せた。窓の外の風が、また少し強くなった。
「植物に詳しい者に、話を聞いてみたいのだけれど」
「――それなら、ちょうどいい男がいる」
「まあ、どなたかしら」
「ベルトという学者だ。少し前に話しただろう。辺境の素材を調べたいという学者を、離れに住まわせることにしたと」
「まあ、あの方が……」
アーシェの声が、ぱっと明るくなった。膝の上の手が、思わず小さく動く。
「植物やら鉱物やら、この辺境に転がっているものを片っ端から調べているような変わり者でな。話を聞くだけなら、紹介できるぞ」
「会ってみたいわ」
「……根っこを煮詰めようとするお嬢様を連れて行っても、驚かれないといいのですが」
セバルトが、部屋の隅からそっと言った。眉間の皺は、まだ解けていなかった。
ヴェルナルドが、ようやく声を立てて笑った。
その笑い声に誘われるように、アーシェもつられて笑った。窓の外では相変わらず風が葉を揺らし、部屋の中には、久しぶりに軽やかな空気が満ちていた。
* * *
その夜。
ヴェルナルドは一人、執務室に残っていた。燭台の灯りが、書類の上をゆらゆらと照らしている。しかし彼の目は、そこにはなかった。
砂糖に似たものを、自分で作る。
八歳の娘が、そう言った。草を三日間かじって、木苺を煮詰めて、それでも諦めずに次を考えている。
この子は、何かを取り戻している。熱が引いた朝に見た、あの目の光。それが今日、もっと静かで、確かなものになっていた。
沈んだ声で「そうなのね」と言った次の瞬間、顔を上げて「ならば自分で作る」と言えるこの子が。頼もしくて、愛しくて、少し切ない。
窓の外では、春の夜の風が、木の葉を揺らしている。しゃらりと、かすかな音がした。
お前が何を目指しているのか、まだわからない。でも、お前がその目をしているなら。
ヴェルナルドは、羽根ペンを取り直した。
父にできることは、全てしよう。




