第三話 ―木苺の果実蜜―
草をかじった翌日、アーシェは厨房へ向かった。
扉を押すと、朝の厨房は湯気と油の匂いに満ちていた。竈の炎がぱちぱちと爆ぜる音に混じって、鍋の蓋がことりと揺れる音がする。
「ガストン」
料理長は大きな鍋をかき混ぜていた手を止めずに、横目だけをよこした。
「お嬢様。朝食はもう少しかかります」
「朝食じゃないの」
アーシェは籠を持ち上げてみせた。昨日の夕方、野原で摘んできた木苺が、赤くぎっしりと詰まっていた。ほのかに甘酸っぱい香りが、厨房の匂いに混じって漂う。
――本当は、最後まで自分の手でやってみたかったのだけど。大きな鍋を火にかけたまま、煮詰まるまでずっとかき混ぜ続けるだけの力は、今のこの小さな身体にはない。火だって、危ない。頭ではよくわかっている。わかっているからこそ、諦めるのが少しだけ悔しかった。
「これを煮詰めてみたいのだけど、火の扱いを手伝っていただけるかしら」
ガストンは鍋をかき混ぜる手を、ようやく止めた。
籠を見た。アーシェを見た。また籠を見た。料理長らしく律儀に確認したところで、状況が変わるわけでもなかった。
「……何を作るおつもりですか」
「砂糖を作ってみようと思って」
「……木苺から」
鍋の湯気が、二人の間をゆっくりと通り過ぎていった。
「煮詰めれば甘みが凝縮されるはずなの。そこからうまく結晶化できれば」
ガストンは長い沈黙のあと、厨房の隅の小さな竈へ視線をやった。竈の奥で、薪がひとつ、小さく爆ぜる。
「……火は、私が見ましょう。お嬢様に触らせるわけには参りません」
「そうね、お願いするわ」
思いのほか素直な返事に、ガストンのほうが一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
「お怪我のないよう……いえ、火のそばには近づかぬよう」
言い直したところに、料理長なりの本気が滲んでいた。
小さな竈の前で、ガストンが鍋に木苺を入れた。水を少し足し、火にかける。
ガストンが厨房の隅から踏み台を運んできて、竈の少し離れた位置に据えた。
「……これに乗れば、中は見えるかと」
火のそばには近づけない。それでも、鍋の中の様子だけは、自分の目で見ておきたかった。ちょうどいい高さの踏み台に、アーシェは素直に礼を言って乗った。
つま先立ちにならなくても、鍋の縁がちょうど目の高さに来た。
「もう少し強めの火で大丈夫よ」
「……かしこまりました」
ぐつぐつと煮立ってくると、甘酸っぱい香りが厨房に広がった。それはそれで悪くない匂いだった。赤い実が、少しずつ形を崩していく。
「そのまま、煮詰めて」
木べらを構えたガストンが、言われるがまま鍋をかき混ぜる。大柄な料理長が、踏み台の上の小さな指揮官の号令ひとつで手を動かす様子は、なかなか奇妙な光景だったろう。
アーシェは鍋の中を、じっと見つめ続けていた。色が少しずつ濃くなっていく。とろみが増していく。その変化を、ひとつも見逃したくなかった。
「もう少し」
「まだ、ですか」
「まだ、色が薄いもの」
湯気の向こうで、ガストンの眉が、わずかに上がった。
「……まだ煮詰めるのですか」
「もう少し、もう少しだけよ、ガストン」
三度目の「もう少し」に、ガストンは何かを言いかけて、やめた。料理長として鍋を見れば十分煮えている。しかし今日の料理長は、どうやら助手らしかった。
水分が飛んで、鍋の中身がどろりとしてきた。ガストンが木べらで掬うと、赤い糸を引いた。
――甘みが、凝縮されている。でも。
「少し味見をさせてもらえるかしら」
ガストンが棚から小さな匙を取り出し、鍋からひとすくいして渡してくれた。アーシェはそれを、そっと舌先につけてみた。
甘い。確かに甘い。しかし酸味が強くて、それから木苺独特の青っぽい風味が前に出てきて、砂糖の純粋な甘さとは、やはり遠かった。
「結晶にできるか、試してみたいの。石の板に、薄く広げてもらえるかしら」
ガストンは鍋の中身を、慎重な手つきで石の板の上に薄く広げた。冷ますために、しばらくそのまま置いておいた。
少し固まった。しかし結晶にはならなかった。崩れて、赤く艶やかな、とろりとしたものができあがった。
「……」
窓の外で、風がひゅるりと音を立てて通り過ぎた。
アーシェは調理台の縁に手をかけ、背伸びをするようにして、石の板の上の赤い塊をじっと見つめた。まだ小さな身体では、卓の上をまともに覗き込むだけでも、ひと苦労だった。
――これ……絶対に、ジャムだわ。前世でよく見た、あの赤くて艶々したもの。
「ジャム……」
思わず口からこぼれ出た言葉に、隣に立っていたガストンが片眉を上げた。
「じゃむ、とは?」
いつの間にか隣に来ていたらしい。足音ひとつ立てずに現れるのは、この料理長の妙な特技のひとつだった。
「……その、独り言よ」
アーシェは慌てて誤魔化した。この世界に存在しないはずの言葉を、うっかり口にしてしまったらしい。
――そうだったわ。この世界には、まだ、ジャムというものが、ないのだったわ。
咳払いをひとつ挟んで、改めて赤い塊を見下ろす。
「……砂糖にはならなかったけど……果実のお蜜、みたい」
ガストンは鍋を覗き込んだ。赤く艶やかな、とろりとしたそれを、指ですくって匂いを嗅ぐ。真顔のまま、しばらく眺めている。
「……果実の、蜜、ですか」
「砂糖には、なりませんでしたね」
「……なりませんでした、ね」
ガストンはしばらく、赤い塊を眺めていた。それから、ひとつ頷いた。
「では、果実蜜と」
「果実蜜?」
「果実の、蜜。そのままでございますが」
言われてみれば、これ以上ないくらい、そのままの名前だった。アーシェはなんだか可笑しくなって、少しだけ笑った。
「果実蜜……素敵な名前ね」
――砂糖にはならなかったけれど、この世界に、新しい名前がひとつ増えたのね。
「パンに塗れば美味しゅうございます」
アーシェはしばらく、赤い果実蜜を見つめていた。
それから、ふっと息をついた。
「ガストン、パンをいただけるかしら」
「用意してございます」
厨房の隅のテーブルに、切り分けたパンが置いてあった。いつの間に用意していたのか。
アーシェは果実蜜をたっぷりと塗って、かぶりついた。
――甘い。酸っぱい。でも、美味しい。
砂糖ではない。目指すものとも違う。それでも、自分で煮詰めたものが美味しいというのは、不思議と胸が温かくなった。
「ガストン」
「はい」
「美味しいわ。ありがとう」
ガストンは無言で、一度だけ頷いた。
しかしその背を向けた瞬間、口元がかすかに動いたのを、アーシェは見逃さなかった。三十年、無表情を貫いてきた男の、貴重な綻びだった。
* * *
その日の夕方、またセバルトが厨房を訪ねてきた。
「ガストン。今日はいかがでしたか」
「木苺の果実蜜を作っておられた」
「……果実蜜?」
聞き慣れない言葉に、セバルトの眉間の皺が、いつもとは違う種類の困惑で深くなった。
「お嬢様が作られた。果実を煮詰めた、蜜のようなものだ」
「……砂糖ではなく」
「砂糖ではなく」
セバルトは眉間の皺を、いつもの位置まで深くし直した。積み重なる報告のたびに、その皺は確実に定着しつつあった。
「お嬢様は本当に砂糖を作るおつもりなのでしょうか」
ガストンは磨き終えた鍋を棚に戻しながら、しばらく答えなかった。夕方の光が、棚に並んだ鍋をぼんやりと橙色に照らしている。
「さあ」
「しかし」
「しかし?」
「果実蜜は、悪くない出来でしたよ」
セバルトはしばらく無言だった。
それから、ため息とも笑いともつかない息を、ひとつついた。厨房には、木苺の甘酸っぱい香りが、まだかすかに残っていた。




