第二話 ―草かじり―
目が覚めた翌朝から、アーシェは動いていた。
熱が引いて三日。まだ少しふらつく足で庭へ出た。止めようとするセバルトを、「大丈夫よ」の一言で振り切って。
春の朝の庭は、光に満ちていた。息を吸えば、土と草、そして遠くの潮の匂いが混じり合って胸の奥まで届く。石畳の隙間から顔を出した雑草が朝露をまとってきらきらと光り、どこかで鳥が短く鳴けば、庭木の葉がさわさわと風に揺れた。
――甘いもの。甘くなるもの。
前世の記憶の中には、確かにある。砂糖というものが存在して、それがあれば、あの美しいお菓子が作れる。しかし八年間生きてきて、砂糖というものを、私は一度も見たことがない。誕生日の蜂蜜の揚げ菓子でさえ、お父様が特別に蜂蜜を手配して、ガストンが腕によりをかけて作ったもの。甘みというのはそれほどに、この世界では貴重なものらしい。
――ならば砂糖は、ここにはないのかもしれない。
――でも。
甘いものは、植物から生まれる。根から、茎から、果実から。どこかに必ず、甘みを持つものがあるはず。あの白い結晶も、元はといえば植物の命から生まれたものなのだから。
――ならば。自分で、探すしかない。
アーシェはしゃがみ込むと、足元の草を一本引き抜いた。細い茎。小さな葉。研究者のような真剣な目で、まずはじっくりと観察する。
……もっとも、観察したところで味が分かるはずもない。だが、アーシェは大真面目だった。
しゃりっ。
「……」
苦い。
「これは違うわね」
風が髪をひとふさ揺らしていった。次の草を引き抜き、また、しゃりっ。
「……」
渋い。
「……これは、甘くないわ」
また次。
「……なんか、変な味」
頭上で雲がひとつ、ゆっくりと陽を遮っては通り過ぎていく。光が陰り、また戻った。
また次。
「無味ね」
ある意味、一番個性がなかった。
また次。
「……やっぱり苦い」
一周して苦味に戻ってきたらしい。
また次、また次、また次。気がつけば石畳の上に、かじりかけの草が小さな山を作っていた。品評会でも開いているかのような真剣な顔と、その散らかりようの落差が凄まじい。口の中は草と土の味で満ちていた。これが砂糖の甘さとは、天と地ほどの差がある。
「……お嬢様」
声がした。
顔を上げると、セバルトが立っていた。ハイセル家に長く仕えるこの家令は、四十がらみの生真面目な男だ。どんな時も背筋が伸びており、着崩れひとつない。しかし眉間の皺だけは、どうにもならないようだった。アーシェが何かするたびにその皺は深くなる。今も見事に深くなっていた。
「何をしておられますか」
「草を調べているの」
「……かじることで、何が分かりますか」
「甘いかどうか、確かめているのよ」
至極まっとうな顔で返されると、セバルトとしても頭ごなしには否定しづらい。彼は一瞬、救いを求めるように空を見上げた。何かを堪えるような長いためらいの後――
「……お嬢様。お口をこちらでお拭きください」
差し出された白いハンカチには、ハイセル家の紋章が刺繍されていた。こんな時のためのものではないだろうに、とセバルト自身も内心思っていたに違いない。
アーシェは素直に口を拭いた。ハンカチに、草の緑がべったりと移る。
セバルトの眉間の皺が、また一段深くなった。
「セバルト」
「はい」
セバルトが姿勢を正して答える。庭木の影が、二人の足元でゆらりと動いた。
「甘い草って、知っている?」
「……存じません」
「そうなのね」
残念そうな声だった。セバルトは一瞬、庭に生えている草という草を疑いの目で見渡しそうになったが、なんとか思いとどまった。
アーシェは立ち上がり、裾についた土を払った。
「もう少し、探してみるわ」
「……かしこまりました」
セバルトは深々と一礼した。長年仕えてきた家令として、主の娘の無茶には慣れているつもりだった。しかし草をかじるお嬢様というのは、さすがに想定の外である。教育係としてどこまで止めるべきか、どこから見守るべきか。その線引きに関する新しい葛藤がひとつ増えた朝だった。
立ち去るその背中は、心なしか疲れているように見えた。
* * *
その日の午後、セバルトは厨房のガストンを訪ねた。
厨房には、煮込み鍋の湯気と薪の爆ぜる匂いが満ちている。火にかけられた鍋から、ことことと小さな音が絶え間なく響いていた。
「ガストン。お嬢様が庭で草をかじっておられた」
包丁を握ったまま、ガストンの手が止まった。まな板の上には、刻みかけの野菜が中途半端に残されている。
「……雑草を?」
「雑草です」
沈黙が落ちた。
竈の薪がぱちりと爆ぜ、鍋の中で何かがことりと沈む音がした。
「熱のせいか」
「医師は完治と申しておりましたが」
石畳の上に積まれた、かじりかけの草の山。
ガストンは包丁を置き、布で手を拭った。その仕草は、いつもよりわずかに緩慢だった。
二人はしばらく無言で向き合っていた。厨房の湯気だけが、二人の間をゆっくりと漂っていく。
二人の脳裏に、同じ光景が浮かんでいた。
石畳の上に積まれた、かじりかけの草の山が……。




