第一話 ―甘くない誕生日―
静月の三の月も終わりに近づき、庭では淡い黄色と白の小花が咲き始めていた。
アーシェリルリアが八つになった日、食堂にはその花が飾られていた。
窓から差し込む午後の光が、白いテーブルクロスを照らしていた。中央の陶器の花瓶には、庭から摘んできたらしい淡い黄色と白の小花が飾られている。風が通るたび、花びらがさらさらと揺れた。
骨付き肉の香ばしい匂い。野菜を煮込んだスープの湯気が細く一筋、天井へと昇っていく。焼きたてのパンが籠に山と積まれ、息を吸えば、肉とスープと焼きたてのパンの匂いが、いつもより少し濃く感じられた。
「アーシェ、今日は主役だぞ」
父ヴェルナルド・ハイセルが破顔した。辺境伯家の当主とは思えぬほど穏やかな笑顔だった。隣では母エルミラが淡い金と緑の溶け合う髪をさらりと揺らし、娘の頬にそっと手を添える。
「おめでとう、アーシェ。八つになったのね」
「ありがとう、お母様」
弟のフィルが向かいの椅子でそわそわしていた。まだ五つ。長い食事は退屈でならないはずなのに、今日は姉の誕生日だからと頑張って背筋を伸ばしている。フィルは背筋を伸ばしたまま、ちらちらと姉の顔を見ている。アーシェは思わず笑った。五歳なりに、今日は姉の誕生日を大切にしてくれているらしい。
食事は楽しかった。笑い声が絶えない。父は大袈裟な乾杯の言葉を述べ、母は娘の髪を撫でる。フィルは肉にかぶりついて、ソースを顎につけた。
「フィル、お顔が大変よ」
それを見て、みんなで笑った。
窓の外では西日がゆっくりと傾いていき、食堂の石壁をほんのりと橙色に染めていく。小花の白がその光をまとって、やわらかく輝いた。
――そして。
「さあ、とっておきだ」
父が合図をすると、扉の向こうから足音が近づいてきた。
運んできたのは料理長のガストンだった。いつも無口で、厨房以外ではめったに姿を見せない人が、今日は自ら皿を持って現れた。皺の刻まれた大きな手がそっとテーブルに置いたのは――
こんがりと揚げられた、小ぶりな菓子だった。表面には薄く蜂蜜が絡み、夕陽を受けてきらりと光っている。
「ガストンが腕によりをかけて作ってくれた」
父の声に、ガストンは無言でただ一度だけ頷いた。けれどその目は、心なしか穏やかだった。
アーシェの目が輝いた。
早く食べたい。そんな気持ちが、胸の中でどんどん大きくなっていった。
「いただきます」
そっと、口に運んだ。
――あ。
サクリ、という音。それだけだった。
甘くない。
蜂蜜の香りはある。揚げ油の風味もある。
でも。
甘さというには、あまりにも――甘くない。
その瞬間、頭の中に知らない景色がいくつも浮かんだ。
――砂糖のシロップが、鍋の中で泡立っている。温度計を差し込む指。百十八度。今だ。
――泡立て器が、ボウルの中を走る。白くなれ、もっと白く。角が立つまで。
――大きな舞台。審査員の目。積み上げてきた全部を、この一皿に。
誰かが、わたしの名を呼んでいる。
なんだ、これは。この映像は。この感触は。この確かな、手の記憶は。
知っている。わたしは、知っている。甘さというのは、こんなものじゃない――
「アーシェ?」
母の声が遠い。
「アーシェ!」
父の声も、遠くなっていく。
走馬灯のように、いや、洪水のように、知識が、映像が、感覚がどっと押し寄せた。八歳の身体では、受け止めきれないほどだった。
夕陽の橙が滲んだ。小花の白が、ぼやけた。
アーシェは、そのまま椅子から崩れ落ちた。
* * *
六日間、目が覚めなかった。
医師が来た。首を傾げ、首を振り、「原因がわからない」と繰り返すだけだった。熱は高い。けれど痙攣はなく、ただ眠り続けている。
ヴェルナルドは娘の傍から離れなかった。
エルミラは幾度も娘の額に手をかざした。魔力の流れを整える。それが治療師である自分にできる、ただ一つのことだったから。
けれど、指先に触れるものは何もない。
もとより、この子に魔力はない。何度も受け入れてきたはずの現実が、その日だけは残酷だった。
それでもエルミラは手を離せなかった。祈るように、ただ、そこにいた。
フィルは姉の手を握って泣いた。
厨房ではガストンが一人、磨く必要のない鍋を、それでも磨き続けていた。
◇ ◇ ◇
意識の中は、静かだった。嵐が過ぎたあとの海のように。
アーシェは、ゆっくりと浮かんでいるような感覚の中で、流れ込んできたものをひとつひとつ受け取っていった。
前世の、自分。
顔は見えない。名前も霧の中にある。どこに住んでいたのか。家族がいたのか。それもわからない。
けれど。
手の記憶だけは、鮮明だった。
粉を量る指。生地をこねる掌。チョコレートを溶かす湯せんの温かさ。お客様が一口食べて、目を細める。その顔を見るために、全部やっていた。
あの大会は、まだ終わっていなかった。優勝まで、あと一歩だった。
――だから、今度は、ここで。
そう思った瞬間、熱がすっと引いた。
◇ ◇ ◇
まぶたが、わずかに震えた。
「……お父様」
細く、瞳が開く。
ヴェルナルドは声を上げそうになるのを必死でこらえた。涙をこらえるのは、もっと難しかった。
「……アーシェ。よかった、本当に……」
「心配、かけてごめんなさいね」
アーシェは微笑んだ。六日前とは、どこか違う笑顔で。
窓から差し込む朝の光が、娘のオリーブ色の髪をそっと照らしている。魔力がないと陰口を叩かれるその色が、今この瞬間だけは、静かに、美しく見えた。
「お父様。ひとつ、お願いがあるの」
「なんでも言いなさい」
「ここには……甘いお菓子が、ないの」
「甘い、お菓子……?」
「うん。もっと美味しいお菓子を、作ってみたいの」
「私、自分で材料を探すわ。道具も必要なら探す」
「でも……わからないことがあったら、お父様に助けてほしいの」
ヴェルナルドは一瞬きょとんとした。それから娘の瞳に宿る光を見て、深くうなずいた。
「――ああ。もちろんだ」
廊下の向こうで、誰かがそっと息をついた。 ガストンのようでもあり、屋敷そのものが安堵をこぼしたようでもあった。
アーシェリルリアが、自分の使命を知った日。
すべては、甘くない揚げ菓子と、六日間の熱。そして、誰も知らない前世の〈手の記憶〉から、始まった。




