第1話『はじまりの春と、記憶のかけら』
「まだ、ここにいる気がするの」
そう呟いた女性は、静かに展望台の柵に手をかけた。
風が吹いた。髪がなびき、目を細める。
見慣れた町の向こうに、誰かの面影を追いかけるように。
「……あの子は、消えたわけじゃない。
きっと、今もどこかで――」
右手の薬指にきらめく白銀の指輪。彼女はそれを、そっと包み込んだ。
「もし、この声が届くなら……どうか、聞かせて。
あなたの――」
……その祈りは、遠く離れたひとりの少女の胸の奥に、確かに届いていた。
風が止まる。時が、少しだけ巻き戻った気がした。
* * *
……。
私はただ、走っていた。
この異質な空間を、全力で。
走るたびに、耳が風を拾う。
背中の後ろで揺れるしっぽの感覚も、今は不思議と気にならなかった。
ぐにゃりと歪んだ道路。
空に向かって続く階段。
宙に浮く校舎の欠片。
足がもつれそうになっても、胸が焼けるほど息が苦しくても、止まれなかった。
だって、あの子が――あの場所で、待っている気がしたから。
あの始まりの展望台に、私はもう一度、会いに行く。
この胸に残る、あの日のあたたかさを信じて。
「もう一度、ちゃんと……伝えたいことがあるんだよ、ヒカリ……!」
私は走る。
夢と現実のあわいを越えて、
あの子が最初に“こんにちは”って言ってくれた、あの場所へ。
日向公園の展望台。
その場所に彼女はいた。
風も吹かないはずなのに、髪がふわりと揺れていた。
うっすらと光をまとったような姿で、ただまっすぐに前を見つめている。
声をかけようとして、私は息をのんだ。
彼女の瞳は、こちらを見ていない。
まるで、時の狭間に取り残されたまま、何かをずっと待ち続けているように――。
「ヒカリ……来たよ……っ」
私はゆっくりと手を伸ばした。
会いたかった。伝えたかった。
たくさんの想いを胸に込めて、彼女に触れようと――
ほんの少しだけ、視線が合った――気がした。
その瞬間だった。
ぱぁっ、と。
光の粒が、ふわっと舞い上がった。
「っえ……?」
手が触れる直前、ヒカリの姿はふんわりと崩れ、
夜空の星くずのように、静かに、でも確かに消えていった。
残されたのは、ただの空っぽの風景。
でも、私は見た。
その空間が、音もなく裂けたのを。
空と地面のあわいから、ゆっくりと現れた黒い階段。
天へと伸びるように続くその先には、影と光が渦巻く“扉”。
あたりの世界が一瞬、息をひそめたようだった。
そして――
「犬神ノ最果」
夢と現の境界。
魂の記憶とすべての試練の最果て。
私が目指してきた旅の、ほんとうの終着点。
私は、ぎゅっと右手を胸に当てた。
ヒカリが残してくれたあたたかさが、
そこに確かに息づいている。
忘れない――あの瞬間の光も、声も、ぬくもりも。
すべてを抱きしめて、この胸に刻んだ。
そして今――
私の中で、何かが強く静かに光りはじめる。
――叫ぶように、言った。
「ここで終わらせない!
わたしは――この想いを、必ず紡ぐ!」
風が動いた。
光と闇が交錯する扉が、音もなくゆっくりと開いていく。
もう迷わない。
この胸に託された想いと、
一歩ごとに積み重ねてきた日々を信じて――
夢幻の奥、その最果てへ。
すべてを終わらせるために。
必ず取り戻すために――
大切なものを。
その瞬間、時の針が静かに回りはじめた。
忘れかけていた記憶の奥から、あの物語はふたたび息を吹き返す。
かつて結ばれ、やがて失われた“なにか”が、再び動き出そうとしていた。
それは、まだ名前すら持たない、ひとつの奇跡。
そのはじまりは――遠い記憶の中にあった。
やがて、記憶の扉が静かにひらかれる。
* * *
転生前の私――
私は一匹の犬として、ご主人様を守りたかった。
大好きなあの人のために、何ができるだろうと必死に考えていた。
病にかかり、思うように動かない体――それでも守ろうと、走り続けていた。
――ただ、その人のそばにいたくて。
呼吸は荒く、視界はぼやけていく。
「ワン……」と鳴いても、誰の耳にも届かない。
「ワン……ワン!」
力を振り絞って吠えても、身体はもう動かない。
ただ――最後にもう一度、あのあたたかな手に触れたくて。
命の灯が消えていく中、ただひとつの想いだけが残っていた。
「ご主人様……会いたかったよ……」
あのぬくもりが、私の最後の記憶だった。
そして――
次に目を覚ましたとき、私は赤ん坊になっていた。
小さな体。柔らかな布。身を包む温かい空気。
手も足も思うように動かせないけれど、
心の中には、どこか懐かしい温もりが広がっていた。
「よかった。……元気に生まれてきてくれて」
おそらく、生まれて初めて聞いた母の声。はっきりとは見えなくても、その優しさが心に染みわたった。
「可愛いな……ちょっと似てるかも。
ほら、見てごらん」
続いて聞こえたのは父の声。私の小さな体を包むように、安心感が広がっていく。
ふたりの温もりが、私をこの世界に迎え入れてくれていた。
「あなたの名前は、もう決まってるのよ。
千陽――元気に育ってね」
その言葉を聞いた瞬間、やわらかな温もりが広がった。
不思議だった。
初めて聞くはずの名前なのに、理由もなく、心に触れる響きだった。
名前そのものじゃない。
ただ――誰かに呼ばれていた感覚だけが、確かに残っていた。
――そうして始まった、新しい世界。
人間として生まれ変わった私は、
すべてが初めてで、すべてが眩しかった。
色とりどりの光。あたたかい手のひらの感触。やさしい声。流れる風。
そのすべてが、まるでプレゼントのように私に降り注いでいた。
小さな体は、見るもの聞くものすべてに興味津々だった。世界は広くて、未知に満ちていて、飽きることなんてなかった。
初めての匂い。初めての音。初めての景色。 すべてが、私の心をくすぐり続けていた。
私の名前は――犬神千陽。
初めて授かった新しい名前。
けれど、理由もなく心に触れる響きだった。
それが、私と“過去”を繋いでいるような気がしてならなかった。
やがて、いくつもの季節が巡り、再び春が訪れ――
私は高校二年生になった。
1年前の春、とある事情でこの日向町に引っ越してきた。
けれど、まったく知らない町というわけでもなかった。
小さいころから、犬神神社を守っていた祖父に会いに、何度も訪れていた馴染みのある場所だった。
春になると、日向町はいつもよりちょっとだけ華やかになる。
通りには桜が咲きそろい、春風に花びらが舞って、
空気まで、ほんのり甘くて、あたたかい。
名前のとおり、太陽の光が似合うこの町は、
自然と人の暮らしがほどよく調和していて、
桜並木も、川沿いの緑も、道を歩く人たちの表情も、
どこか優しく見えていた。
そんな空気の中にいると、自然と心がほぐれていく。
ここでの暮らしにもすっかり慣れて、
私は今、この町がとても大好きだ。
「ふぅ〜っ! 今日もいい天気っ♪」
思わず深呼吸して、空気をいっぱいに吸い込む。
ん〜〜っ……気持ちいいっ♪
……ふと通学カバンに目をやると、
カバンのファスナーに付けた、小さなキーホルダーが、ちょこんと揺れていた。
白い犬の形をしたその子は、いつからか、毎日持ち歩くのが当たり前になっていて。
見るだけで、なんだかほっとするんだ〜。
(うん、今日も一緒だね、ユキちゃん♪)
そのまま、空に向かって ぐぅ〜んと背伸び!
指先が雲に届きそうな気がして、なんだかちょっぴりうれしくなる。
やっぱり、こういう瞬間って大事だなぁって思うんだよねっ。
そう言いながら、私はぴょんっ♪と足を弾ませて、軽く駆け足で坂を登っていく。
風がスカートをふわっと揺らして、なんだか冒険してるみたいな気分!
うん、やっぱり体を動かすのって気持ちいい〜っ♪
私の通う日向高等学校は、町の高台、山のふもとにあるんだ〜。
朝の登校は、ちょっとした坂道を登らなきゃいけないけど――
「ま、朝の運動にはちょうどいいかな!」
なんて、自分に言い聞かせるように笑って、私はトトトッと軽く駆け足で坂を登っていく。
うん、朝から動くと、なんだかエネルギーが湧いてくる気がするっ♪
新しいクラスにも少しずつ慣れてきて、友達もできて、充実した毎日を過ごしてる……けど、やっぱり私にとって一番大事なのは――
「元気でいること!」
健康はすべての基本。最近は動画でもっと深掘りしてて、食事、睡眠、運動、ストレッチ、呼吸法にお風呂の入り方まで――毎日“人体のふしぎ”にワクワクが止まらない!
うん、今日も元気に登校っ♪
……だったはず、なんだけどなぁ。
気づいたら、机に突っ伏して夢の中。
頭の中にいろんなことが浮かんできて、疲れがたまってたのかも。気づけば、スーッと夢の世界へ落ちていた。
「犬神、起きなさい!」
耳元にビシッと響く先生の声。
ビクッとなって目を開けた瞬間、教室中の視線がこちらに向いていた。
「わふっ⁉ あ、あわわっ……す、すみませんっ!!」
つい出た犬っぽい声に、自分で笑いそうになっちゃった……けど、そんな場合じゃないってば〜っ!
や、やばいっ、今の私、ちょっとワンコ感強めだったかも……!?
眠気の残る頭をぶんぶんって振って、私は慌てて姿勢を正す。できるだけ自然にっ! ……いやいやいや、今の絶対バレてるよねっ!?
……って、無理だったぁ〜〜〜!!
クスクス、って周りのクラスメートたちの笑い声が耳に入ってくる。
うぅ〜、聞かれてた〜〜! 完全に聞かれてたよぉ〜!
でも……でもっ!ちょっぴりウケてたなら、まぁ……まぁいっかっ!(汗)
「チハル、また気持ちよさそうに寝てたよね〜?」
前の席の河田 亜沙美が、くるっと振り返って、ニコニコしながら囁いてきた。
(も〜っ、亜沙美ってば〜っ!
そんな笑顔でこっそり言われたら、なんか照れちゃうじゃん〜〜っ!)
……って、平静装ってるけど、内心はわたわたモード全開ですっ!!
ぱっつん前髪のストレートヘアに、気さくで距離の近い話し方が特徴の、明るくて親しみやすいクラスメイト。
――高校に入ってから、最初にできた私の友達のひとり。
席が近かったこともあって、いつの間にか自然に話すようになって……
今では、からかってきたり支えてくれたりする、大事な存在なんだ。
――あの頃の亜沙美からは、ちょっと想像できないくらいに、明るくなっていて。
なんだか、ちょっと嬉しくなる。
「す、すみません!先生。ちょっと疲れちゃって……」
「無理はするなよ。ただし、授業中はほどほどにな」
その声に、どこか安心したように空気がゆるむ。
「またか〜。でもチハルが寝てると、平和って感じするよね」
どこかから聞こえてきた、クラスメイトのゆる〜いツッコミに、クラス中がくすくすっと笑いに包まれて、私はなんとなく救われた気分になった。
……よかったぁ〜、変な空気にならなくて……ホント、ひやひやした〜〜っ!
そのとき――
「ふふっ……犬神さんの“わふっ”って声、ほんとに可愛かったです〜」
やわらかな声が、後ろの方からふわりと届いた。
振り向くと、窓際の席で、金色のふわふわ髪を揺らしながら微笑むクラスメイト――
月城 愛衣が、
頬杖をついたまま、やさしく目を細めていた。
制服の上からでも目を引くその髪色は、太陽の光でやわらかく輝いていて、
どこか異国の雰囲気をまとった、不思議な空気を持つ子。
「……つい、耳がぴこって反応しちゃいそうでした。
わたし、動物の鳴き声にちょっと敏感なんです〜♪」
え……“耳がぴこ”…?
なんだろう……その言い方に、少しだけ引っかかるような違和感があって――
「え、えぇっ!? ちょ、ちょっと〜、やめてよ〜〜……っ」
私はあわてて手をぶんぶん振る。
「そ、そんなの、ふわふわな愛衣ちゃんに言われたら……なんか余計に恥ずかしいしっ!」
「ふふっ……そうですかぁ? でも、本当にかわいかったですよ〜」
愛衣ちゃんのほわっとした笑みに、
なんだかくすぐったくなるような、あったかい感じが広がって――
「も、も〜〜〜〜っ……愛衣ちゃんったらぁ〜っ!」
私は顔をカバンで覆って、思わず机に突っ伏してしまった。
*
授業が終わった後、教室の隅で荷物をごそごそまとめながら――ずっと聞こうか迷ってたけど、やっぱり気になっちゃって。
そっと声をひそめながら、ちらっと亜沙美に目を向けた。
「ねえ亜沙美……もしかして、あの健康動画の“犬神チップ”、わたしだって……最初からバレてた?」
亜沙美はニヤっと笑って、こくんとうなずいた。
「うん。あの健康チャンネルのやつ。最初に声聞いた瞬間、“これ、絶対チハルじゃん”って思ったもん」
「うわぁぁ、やっぱ声でバレてた〜!?///」
思わずカバンで顔を隠しそうになっちゃった。
亜沙美が、いたずらっぽく微笑んでくる。
苦笑いで返しながら、心の中で悶絶っ。
うぅ〜、もう〜っ、そういう顔する〜!?
完全に見透かされてる感……ぐぬぬ、さすが亜沙美……!
「あれ、キャラだけでやってたのに……声とかでバレるとは思わなかったな〜」
「だって完全に、チハルだったもん。もう聞き分けできるレベル」
「……ほんと、秘密にしててよ? “犬神チップ”って名前でやってるの、わたし的にはちょっと恥ずかしいんだから」
「わかってるって〜。……むしろクラスの子にも宣伝してあげよっか?」
「ちょっ、やめて〜っ!? 恥ずかしいからホントにいいってば〜っ!」
「え〜? あんなに分かりやすく“健康大好き!”って語ってるのに〜? すっごくチハルっぽくて可愛いのに〜♪」
「だ、だから余計に恥ずかしいのっ……! もう〜っ、亜沙美〜〜っ!」
「……でもさ、なんで“チップ”って名前にしたの?」
「えっ?」
「いや、気になってたんだよね。なんか意味あるの?」
「うーん……なんとなく?」
「……なんとなく〜?(じーっ)」
「だ、だから深い意味とかはないのっ! はい、終了〜っ!」
私は顔をぷいっとそらして、カバンで口元を隠した。
でも――(ホントはちょっと、秘密にしてる“理由”があるんだ)
頬をふくらませて抗議してると、
亜沙美は、ふっとやさしく笑った。
……その顔見たら、なんだか胸の奥がじんわりあったかくなってきて――
「でも……私の動画。見つけてくれて、ありがとね」
小さな声でそう言ったら、亜沙美は何も言わずに、ぽんっと私の頭をなでてくれた。
軽くため息をつきながらも、どこか嬉しくて、つい笑ってしまった。
……な〜んかもう、ほんとにズルいよ、亜沙美は。
心の中でそっと、そうつぶやきながら、私はカバンを持って教室を出た。
開いた窓から差し込んできた春の風が、ふわりと髪を撫でて――
なんだか、背中をそっと押してくれるような気がした。




