第17話『小さな命の居場所』
「常盤町〜、常盤町〜」
電車がゆっくり減速して、アナウンスが車内へ響いていく。
電車の扉が開くと、
ふわりと鼻先をくすぐったのは、どこか懐かしい風のにおいだった。
(……常盤町に来るのも、もう何度目だろ)
昔みたいに、“ふるさと”って呼ぶには少し違うのかもしれない。
それでも――ここは、私の原点なんだ。
この町は、日向町より少しにぎやかだ。
駅前にはいろんなお店が並んでいて、行き交う人たちの足取りも、なんだかせかせかしている。
でも――
そんな空気さえ、私にはどこか懐かしかった。
(引っ越す前は、毎日この景色が当たり前だったのにね〜……ふふ、変なの)
バス停へ向かう途中、
昔、友だちと待ち合わせしていた場所が目に入った。
「あっ……」
思わず足が止まりそうになる。
よく通っていたパン屋さんも、あの頃のままそこにあって、私は心の中で小さく拍手した。
(うわ〜、まだあったんだ……!)
なんだか少しだけ嬉しくなりながら、私はそのままバスへ乗り込む。
向かう先は――【ときわ動物愛護センター】。
窓の外を流れていく景色に合わせるみたいに、
気持ちも少しずつ“思い出モード”へ切り替わっていく。
昔よく通った道。
見覚えのある景色。
懐かしいはずなのに、
今日は少しだけ胸が落ち着かなかった。
やがて、バスは【ときわ動物愛護センター】前へ到着する。
私は小さく息を吐いてから、ゆっくり立ち上がった。
センターのエントランス前で、ふぅっと深呼吸。
少しだけ緊張してる。
でも――ちゃんと見たいって気持ちのほうが、今は強かった。
(……大丈夫。ちゃんと予約もしてるしっ)
そう心の中で言い聞かせながら、私は受付へ向かう。
自動ドアが開くと、すぐ目の前には受付カウンターがあり、奥ではスタッフさんたちが忙しそうに動き回っていた。
「こんにちは。見学の予約をしていた、犬神千陽ですっ」
声をかけると、受付のスタッフさんは優しく微笑みながら名簿を確認する。
「お待ちしていました。宮下副主任がご案内しますので、少々お待ちくださいね」
「はいっ、よろしくお願いします!」
私はそっと周囲を見渡した。
待合スペースの壁には、センターで保護されている犬や猫たちの写真が並んでいる。
そのひとつひとつに、名前とここへ来るまでの経緯が書かれていた。
『道路で衰弱していたところを保護』
『繁殖業者の劣悪な環境から救出』
『老犬になり、飼育が困難になったため保護』
そこまで読んだ瞬間、
胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
(こんなにもたくさんの命が、
理不尽な理由で居場所を失ってしまうんだ……)
ふと、待合スペースから見えるガラス越しの保護スペースへ目を向ける。
施設の一角では、ボランティアスタッフさんたちが静かに犬や猫たちの世話をしていた。
怯えた表情のまま隅で丸くなっている子。
優しく撫でられて、安心したみたいに身を預ける猫。
ケージの奥から、じっとこちらを見つめている子――。
みんな、それぞれ違う過去を抱えている。
それでも、懸命に今を生きていた。
その小さな瞳の奥には、“生きたい”って気持ちが、
静かに灯っている気がした。
(……ここにいる子たちの命も、ちゃんと輝いてる)
「お待たせしました」
柔らかな声に振り向くと、
そこには落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。
清潔感のある白いジャケットに、すっきりとしたショートカット。
胸元の名札には『宮下』と書かれている。
「初めまして。副主任の宮下です。
犬神さんですね?」
「はいっ! 初めまして、犬神千陽です。
今日はよろしくお願いします!」
少し緊張しながら頭を下げると、
宮下さんはふわっと優しく微笑んだ。
「こちらこそ。
今日は施設の案内をしながら、ここにいる動物たちのことも少しお話ししますね」
その声はやわらかくて、
なんだか自然と肩の力が抜ける。
「はいっ、お願いします」
宮下さんはやわらかく微笑みながら歩き出す。
私は気持ちを引き締めるように、その後を追いかけた。
宮下さんの案内を受けながら歩いていると、
奥で犬たちの世話をしている、別のスタッフさんの姿が目に入った。
静かで控えめそうな人だった。
でも、犬たちへ声をかけながら世話をしている姿がすごく自然で、見ているだけで安心する。
ケージの掃除をしながら、犬たちへそっと声をかけていて、その子たちも落ち着いた様子で大人しくしていた。
私が「こんにちは」って声をかけると、その人は手を止めて、やわらかく目を細めた。
「あら、こんにちは。見学に来たの?」
その声は不思議なくらい穏やかで、
聞いただけなのに、肩の力がふっと抜けた。
すぐにまた作業へ戻っていったけれど、
近くのケージで犬たちの世話をする姿は、自然と目で追ってしまうくらい穏やかだった。
改めて見ると、その人は六十代くらいだろうか。
穏やかな顔立ちに、長い時間を積み重ねてきたみたいな優しい眼差し。
犬たちを撫でる手つきも、まるで「大丈夫よ」って伝えてるみたいにやわらかい。
しばらくすると、ふとこちらへ視線が向けられた。
「ふふ……あなた、犬たちを見る目が、とってもやさしいのね」
「はいっ! 大好きですっ!
ワンちゃんって、見てるだけで元気もらえるし、なんだか心がほっとするんです」
思わず勢いよく答えると、その人は目を細めて、やわらかく微笑んだ。
「そう……それは、とても素敵なことね」
そっと柴犬の頭を撫でる手つきは、
まるで安心を分け与えているみたいに穏やかだった。
「犬はね、人に寄り添って生きる生き物なの。だから、向けられた気持ちをちゃんと覚えているのよ」
その声は静かで、
長い時間を犬たちと過ごしてきた人だけが持つ、あたたかさが滲んでいた。
撫でられている柴犬の子も、
安心しきったみたいに身体を預けている。
(……この子、この人のこと、ちゃんと信じてるんだ)
「この子もね、最初はすごく怯えていたのよ」
やわらかく目を細めながら、その人は静かに続けた。
「人が近づくだけで震えてしまって……ご飯も、なかなか食べられなかったの。でも、時間をかけて優しく接してあげたら、少しずつ心を開いてくれるようになったのよ」
「……時間をかけて?」
私が聞き返すと、その人は静かに頷く。
「ええ。動物たちは、人の気持ちにとても敏感だから。急に近づけば怖がってしまうけれど、ちゃんと寄り添ってあげれば、少しずつ信頼を返してくれるの」
そして、ふっとこちらへ視線を向けた。
「あなたは、どんな犬が好き?」
「えっ? えーっと……うーん……全部、かなっ!」
思わず笑ってしまう。
「元気な子も、のんびりした子も、それぞれ違ってて……みんな可愛いなぁって!」
その答えに、その人は優しく目を細めた。
「ふふ……あなた、きっとワンちゃんたちに好かれるタイプね」
「えっ、わ、分かります!?」
「ええ。なんとなくね」
(……なんだろう。このあたたかい感じ)
ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが小さく引っかかった気がして、視線がその人から離せなくなった。
まるで、私の前世の記憶へ触れかけたみたいに。
でも、その瞬間――
「犬神さん」
宮下さんの明るい声が聞こえて、
私の意識はそちらへ引き戻される。
「あなたを見てるとね、なんだか昔を思い出すの」
宮下さんは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「うちにも、あなたくらいの娘がいるのよ。昔から放っておけない子でね。怪我した動物を見つけると、いつも抱えて帰ってきちゃうの」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。あの子の影響かしらね。私も、困ってる動物を見ると放っておけなくなっちゃって」
ふふっと優しく笑う宮下さんに、
私は少し照れくさくなりながら笑い返した。
すると宮下さんは、どこか確かめるみたいに私を見つめて、静かに言った。
「犬との縁が深い人って、一目で分かるの。
あなたには、そういう空気があるのかもしれないわね」
私は思わず目を瞬かせた。
自分ではそんなこと、意識したこともなかった。
でも、そう言われると胸の奥がくすぐったくなるみたいで、少し照れくさかった。
「私が若かった頃もね、ワンちゃんに支えられたことが何度もあったの」
宮下さんは、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「だからかな。あなたを見てると、つい昔を思い出しちゃってね」
その眼差しはやさしくて、
でも、ほんの少しだけ――何かを知っているみたいにも感じた。
だけど次の瞬間、宮下さんは空気を切り替えるみたいに、ぱっと明るく笑う。
「さぁて、それじゃ続きを案内しましょうか!」
「はいっ!」
私も慌てて笑顔で返事をする。
宮下さんに案内されながら、私は施設の奥へ足を進めた。
そこには、たくさんの犬や猫たちが、
新しい家族を待ちながら暮らしていた。
でも――
そこにあったのは、明るい景色ばかりじゃなかった。
狭いケージの中で、じっと動かない犬。
毛並みがぼろぼろに痩せ細った猫。
怪我をしたまま保護され、治療を受けながらも、不安そうな目でこちらを見つめる子たち。
奥の一角には、
人を怖がるみたいに、小さく身体を丸めて震えている犬もいた。
「この子は、ずっと繋がれたままで散歩にも行けなかったんです」
スタッフさんが、小さな声で教えてくれる。
「だから今でも、リードをつけると動けなくなってしまうんですよ」
その言葉に、思わず息が詰まりそうになる。
宮下さんも、静かにその子を見つめながら言う。
「この子は、元の飼い主から虐待を受けていたの。
今もまだ、人が近づくと怖がってしまうのよ」
犬は隅で身体を縮こませながら、
そっとこちらを窺っていた。
(……私、こんな現実……ちゃんと知らなかった)
壁へ貼られた“保護期限”の文字が、
まるで命の残り時間を数えているみたいで――
私は思わず、ぎゅっと手を握りしめた。
(こんなのって、絶対おかしい……)
でも。
ただ落ち込むだけじゃ、きっとダメなんだ。
(……私にできること、ある)
動画だって作れる。
編集だってできる。
少しでも伝えられたら――。
そんな気持ちが、胸の奥で静かに灯り始めていた。
見学が終わるころには、
私の中に、小さな決意がしっかり芽生えていた。
「今日は来てくれてありがとう」
宮下さんがそう微笑む。
「また、いつでも来てね。あなたなら、きっと何かできることが見つかると思うわ」
「……はいっ。ありがとうございました。
今日は来て、本当によかったです」
私は小さく頷いた。
宮下さんに見送られながら、私は施設をあとにする。
外へ出ると、ひんやりした夕方の風が頬を撫でた。
見上げた空は、どこまでも広くて――。
(……私、ちゃんと伝えたい)
動物たちの命のこと。
ここで生きている子たちのこと。
みんなに、ちゃんと知ってもらいたい。
そのときだった。
不意に――
心の奥の引き出しが、ふわりと開いた気がした。
(……光希)
みっちゃん。
私にとって、一番の親友。
負けず嫌いで、
いつもまっすぐで、
どんなときも笑っていた子。
(でも――)
もう、あの頃みたいに、
一緒に笑い合うことはできない。
それでも。
みっちゃんと過ごした時間は――
今でも全部、私の宝物だった。




