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『犬神物語』〜転生少女と不思議な絆〜 《改稿版》  作者: 犬神 匠
第四章 闇を裂く絆

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第15話『白銀の指輪』

「終わった……?」


私の口からふっと漏れた声は、まだ少し震えていた。


さっきまで荒れ狂っていた夢幻封界は、嘘みたいに静まり返っている。


紫がかった霧はゆっくり薄れ、朱色の月だけが、

静かに境内を照らしていた。

張りつめていた空気も、今はどこか穏やかだった。


隣では、ヒカリが肩で息をしながら、静かにこちらを見ている。


「犬神さん、大丈夫?」


「うん……なんとかね。でも……」


私はそろ〜っと前足を踏み出して、自分の身体を確かめる。


見た目は特に変わっていない。

でも、内側にはまだ、小さな熱が残っている気がした。


私は犬の姿のまま首をかしげ、

首元の首輪へそっと前足を触れる。


「これで……

“結びの印”って、ちゃんと繋がったのかなぁ?」


ヒカリが、ふっと優しく目を細めた。


「ええ。

犬神の首輪に印が刻まれたことで、神域の結界は繋ぎ直されたわ」


「……私、本当にやったんだ……」


そう口にした瞬間、ふわっと実感が込み上げてくる。

ヒカリと顔を見合わせ、私たちは小さく笑い合った。


――そのとき。


視界が、ぐにゃりと揺れた。

まるで世界そのものが歪んで、足元から崩れていくみたいな感覚。


「えっ……!?」


次の瞬間。

冷たい雨の音が、耳の奥へ流れ込んできた。


——ぽつ、ぽつ。

――ざあぁ……。


土を打つ雨粒。

濡れた草の匂い。

泥に混ざった、冷たい水の感触。


「この音……

なんだか、懐かしいような……?」


気づけば、私の視線は低かった。

見えているのは、泥だらけの地面と――小さな前足。


茶色い毛並みは雨でぐっしょり濡れていて、

息を切らしながら、私は暗い森の中を駆けていた。


まるで、大切な誰かを探すみたいに――。


「……っ、どこ……?

どこにいるの……!!?」


胸が苦しい。


雨が目に入って痛い。

足は重くて、何度も転びそうになる。


それでも、止まれなかった。


――探さなきゃ。


誰かを。

大切な誰かを。


でも、

その“誰か”が分からない。


記憶の輪郭だけがぼやけていて、

肝心なところだけ、霧みたいに掴めなかった。


「……私……

何を探してるの……?」


その瞬間。


ぐしゃっ――。


前足が泥に取られ、身体が大きく崩れた。

冷たい泥水が全身へ跳ねる。


「きゃうっ……!」


立ち上がろうとしても、うまく力が入らない。


雨は容赦なく降り続いていた。

視界がにじむ。


寒い。

怖い。

寂しい。


――でも。


そのとき。

ふわりと、あたたかな手が頭を撫でた。


やさしく。

大事なものに触れるみたいに。


「…………」


雨の冷たさとは違う、ほっとするぬくもり。


懐かしくて、胸がぎゅっと締めつけられる。

だけど、どうしても顔が見えない。


ぼやけた景色の向こうで、誰かが泣きそうな声で、

そっと呼んだ。


「……チップ……」


――あ。


その名前を、私は知っている。


“チップ”。


夢の中で、何度も呼ばれていた名前。


遠い記憶の奥で、

確かに私は――そう呼ばれていた。


耳の奥へ響いたその声は、

どうしてか胸が苦しくなるくらい懐かしくて。


忘れていたはずの記憶が、心の奥で静かに揺れた。


涙が、こぼれそうになった。


――そのとき。

遠くのほうで、誰かの声が聞こえた。


「……さん……

犬神さん!」


ヒカリの声だ。


その瞬間、揺らいでいた景色が一気に遠ざかっていく。


雨の音も、泥の感触も、

あのあたたかな手のぬくもりも――

すべてが、霧みたいにほどけて消えていった。


「――っ!」


気づけば私は、祠の前に座り込んでいた。


犬神神社の境内には、さっきまでの張りつめた空気が嘘みたいに、静かな風が流れている。


揺れる木々。

聞こえてくる虫の声。

夜の匂い。


現実へ戻ってきたんだと、遅れて実感が押し寄せてきた。


「はぁっ、び、びっくりしたぁ……」


私は荒くなった呼吸を、ゆっくり落ち着かせる。


――まるで、

長い夢の中を走り続けていたみたいだった。


でも。

あの感覚だけは、まだ身体のどこかに残っていた。


雨の冷たさ。

誰かの声。

“チップ”と呼ばれた記憶――。


「……今の、なんだったんだろ……」


思わずそう呟いたとき、ヒカリが心配そうに駆け寄ってきた。


「犬神さん、大丈夫?」


「……うん、大丈夫。でも、なんか……

変な感じがする……」


私はそっと、自分の身体を見下ろした。

右手に、小さな違和感を覚える。


「……え?」


薄暗い境内の中で、右手の薬指に嵌まった白銀の指輪が、静かに光を返していた。


「……これって……」


思わず息を呑む。

夢幻封界で首につけていた、あの“犬神の首輪”。

それが今は、指輪の姿へ変わっていた――。


『クク……ついに手にしたか。

犬神の継承者よ――その白銀の証《あかし》を』


「ひゃっ!?」


突然、頭の奥へ直接響いてきたシロの声に、私は思わず肩を跳ねさせた。


「シロ!? どこにいるの!?」


きょろきょろ辺りを見回す。

でも、境内のどこにもシロの姿はない。


『我は常に貴様の傍らに在る。

ただし、この声が届くのは“契約を結びし者”のみよ』


「えぇっ!? どういうこと!?」


『その指輪は、“犬神の力”に触れし者にしか視認できぬ。

人の理《ことわり》に生きるだけの者どもには、その存在すら見ることは叶わぬ』


「えっ、じゃあ普通の人には見えてないってこと!?

よ、良かったぁ……学校でこんなのつけてたら、

絶対先生に怒られる…… “アクセサリー禁止です”って言われるやつだよ〜っ!」


シロはそんな私に、

ふっと呆れたみたいに鼻を鳴らした。


『さらに“結びの印”を繋ぎ、封界との契約を深めよ。

さすれば、その指輪は真なる力を解放し、

我と貴様を結ぶ道も、より強固なものとなろう――』


「うぅ……なんか難しそうだけど、

とりあえず頑張れってことだよね……?」


私はうーっと唸りながら首をかしげる。

そんな私の横で、ヒカリがじっと右手を見つめ、小さく目を細めた。


「犬神さん、その指輪……」


「え?」


私はヒカリの視線を追う。

彼女は確かに、私の右手の薬指に嵌まった白銀の指輪を見つめていた。


「ヒカリ、見えるの? この指輪……」


「ええ、見えるわ。

だって、それは“犬神の力を宿すもの”だから」


その答えに、私はますます混乱する。


他の人には見えない。

なのに、ヒカリには見えている――。


それって、どういうことなの……?


『フ……当然だ。

貴様らの魂は、すでに“運命の縁《えにし》”で結ばれておるのだからな』


またしても、シロの声がしれっと頭の中へ割り込んできた。


「う、運命って……

なんか急にすごいこと言い出したんだけど〜っ!?」


思わず顔が熱くなる。


私は誤魔化すみたいに、そっと指輪を撫でた。

ひんやり冷たいはずなのに、どこか安心するような感覚が、指先へ静かに伝わってくる。


ふと私は、ずっと気になっていたことを思い出した。


「……ねえ、そういえばさ。犬神神社で見かけた白い影って……」


ヒカリは、あっさりと言う。


「それって、シロじゃない?」


「えぇぇぇ!? やっぱりぃぃぃ!!??」


ショックすぎて、思わず目が点になる。


『フ……ようやく気づいたか、犬神千陽よ。

――そう、あれは我だ』


どこか誇らしげな声とともに、白い光がふわりと揺らいだ。

淡い光の粒が、夕闇に溶けるみたいに境内へ広がっていく。


白い光がぱっと弾けたかと思うと、シロが“どうだ!”って顔で現れた。

しかも、めちゃくちゃ得意げ。


「えぇぇぇっ!? やっぱシロだったんだ!?

じゃあ、私がゲンキとお散歩してたときとか!? あの視線も!?」


『すべては、貴様を観察し、試すため――』


「ストーカーじゃんかーーーーっ!!」


私の叫び声が、夕暮れの境内へ思いっきり響き渡った。


ヒカリも「まぁ……確かに」と苦笑しながら頷く。


「シロ、それはもう完全にストーカーよね」


『否。

我はただ、貴様を“見守って”いただけだ』


「いやいやいや!

言い方変えてもアウトだからねっ!?」


私は腕を組み、じとーっとシロを睨みつける。

でもシロはまったく気にしていない。


『フ……犬神たるもの、選ばれし者を見守るのは当然の義務。

我が貴様を影から支えしこと、誇りに思うがよい』


「うわ〜〜〜開き直ったぁ〜っ!?

もうこうなったら……」


私は勢いよくシロへ飛び込んだ。

そのまま、首元のもふもふをわしゃわしゃ攻撃!!


『ぬぅっ!? な、なんだこの術は……!!』


耳がぴくぴく動き、尻尾までぶわっと逆立っている。


「これはモフモフの刑だよっ!!

ずーっとつけ回してた罪、今ここで償ってもらいます!!」


『や、やめろぉ!

我の神狼たる威厳がぁぁ……!!』


「ふふふ〜♪

シロってこんなにフワフワだったんだね〜」


私は頭から背中、お腹まで、遠慮なくモフり倒していく。


すると、その様子を見ていたゲンキが、

「ワンッ!」って元気よく飛びついてきた。


「あっ、ゲンキ!?」


ぐいぐい鼻先を押しつけながら、

“ボクも〜!”って感じで尻尾をぶんぶん振っている。


「ふふっ、はいはい♪

ゲンキもなでなでだね〜」


私はそのまま、ゲンキの頭もわしゃわしゃ撫で回した。


『ぬぅぅっ……

こ、この屈辱……覚えていろよ、犬神千陽……!!』


その様子を見て、ヒカリがくすくす笑った。


「犬神さんって、シロに対して容赦ないわね」


「だって〜、完全にストーカーしてたじゃん!?

当然の報いっ!」


そう言い返したあと、私は少しだけ顔を伏せた。


「……怖かったんだからね」


その一言に、ヒカリの表情がふっとやわらぐ。


シロもしばらく黙っていたけれど、

やがて小さく尻尾を揺らしながら、ぽつりと呟いた。


『貴様を守ることも、我の務めだ。

だからこそ……目を離すわけにはいかなかった』


その声は、さっきまでより少しだけ優しかった。


私は一瞬きょとんとしたあと、

なんだか照れくさくなって、ふっと笑う。


「だったら、最初からそう言ってよね」


私はもう一度、シロのもふもふを優しく撫でた。


『試練は、まだ終わってはおらぬ。

残る三つの結びの印が繋がる時――

夢幻封界は、再び理の均衡を取り戻すであろう』


「はぁ〜〜……やっと終わったと思ったのにぃ〜……」


思わず空を見上げる。


でも。

次があるなら、きっと進まなきゃいけない。


私はそっと、ゲンキへ視線を向けた。


夢幻封界では、私はずっと“ゲンキの姿”を借りていた。

走って、転んで、怖がって、必死になって戦って――。


「ゲンキ……今日は、いろいろごめんね」


しゃがみ込み、私はゲンキの頭をそっと撫でる。

するとゲンキは、小さく首をかしげたあと――


「ワン!」


いつもの元気な声で鳴いてくれた。


たぶん本人は、何のことか全然わかってない。

でも、その無邪気な声が、なんだかすごくゲンキらしくて。


「……ありがと」


私は、ぎゅっとゲンキを抱きしめる。

そのぬくもりが、まだ残っていたざわつきを、

ゆっくり溶かしてくれた。


『さて、第一の“結びの印”は繋がれた。

次なる試練へ備えるがよい』


再び響いたシロの声に、私は右手の白銀の指輪を見つめる。


静かに深呼吸した。


「……次の試練も、やるしかないね!」


ヒカリが隣で、やさしく微笑む。


「ええ。一緒に乗り越えていきましょう」


私たちは顔を見合わせ、軽く拳をこつんと合わせた。


新しい力を手にして、第一の“結びの印”を繋いだ。

でも――これはまだ、始まりの一歩にすぎない。


まさか私が、こんな世界へ関わることになるなんて。

ほんの少し前まで、ただの普通の女の子だったのに。


だけど、もう戻れない。


この手に宿った力が、静かにそう告げている。

――次なる試練が、静かにその時を待っている。


私の知らない“運命”が、

また少しだけ、その姿を見せ始めていた。



――第五章へ続く。

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