第15話『白銀の指輪』
「終わった……?」
私の口からふっと漏れた声は、まだ少し震えていた。
さっきまで荒れ狂っていた夢幻封界は、嘘みたいに静まり返っている。
紫がかった霧はゆっくり薄れ、朱色の月だけが、
静かに境内を照らしていた。
張りつめていた空気も、今はどこか穏やかだった。
隣では、ヒカリが肩で息をしながら、静かにこちらを見ている。
「犬神さん、大丈夫?」
「うん……なんとかね。でも……」
私はそろ〜っと前足を踏み出して、自分の身体を確かめる。
見た目は特に変わっていない。
でも、内側にはまだ、小さな熱が残っている気がした。
私は犬の姿のまま首をかしげ、
首元の首輪へそっと前足を触れる。
「これで……
“結びの印”って、ちゃんと繋がったのかなぁ?」
ヒカリが、ふっと優しく目を細めた。
「ええ。
犬神の首輪に印が刻まれたことで、神域の結界は繋ぎ直されたわ」
「……私、本当にやったんだ……」
そう口にした瞬間、ふわっと実感が込み上げてくる。
ヒカリと顔を見合わせ、私たちは小さく笑い合った。
――そのとき。
視界が、ぐにゃりと揺れた。
まるで世界そのものが歪んで、足元から崩れていくみたいな感覚。
「えっ……!?」
次の瞬間。
冷たい雨の音が、耳の奥へ流れ込んできた。
——ぽつ、ぽつ。
――ざあぁ……。
土を打つ雨粒。
濡れた草の匂い。
泥に混ざった、冷たい水の感触。
「この音……
なんだか、懐かしいような……?」
気づけば、私の視線は低かった。
見えているのは、泥だらけの地面と――小さな前足。
茶色い毛並みは雨でぐっしょり濡れていて、
息を切らしながら、私は暗い森の中を駆けていた。
まるで、大切な誰かを探すみたいに――。
「……っ、どこ……?
どこにいるの……!!?」
胸が苦しい。
雨が目に入って痛い。
足は重くて、何度も転びそうになる。
それでも、止まれなかった。
――探さなきゃ。
誰かを。
大切な誰かを。
でも、
その“誰か”が分からない。
記憶の輪郭だけがぼやけていて、
肝心なところだけ、霧みたいに掴めなかった。
「……私……
何を探してるの……?」
その瞬間。
ぐしゃっ――。
前足が泥に取られ、身体が大きく崩れた。
冷たい泥水が全身へ跳ねる。
「きゃうっ……!」
立ち上がろうとしても、うまく力が入らない。
雨は容赦なく降り続いていた。
視界がにじむ。
寒い。
怖い。
寂しい。
――でも。
そのとき。
ふわりと、あたたかな手が頭を撫でた。
やさしく。
大事なものに触れるみたいに。
「…………」
雨の冷たさとは違う、ほっとするぬくもり。
懐かしくて、胸がぎゅっと締めつけられる。
だけど、どうしても顔が見えない。
ぼやけた景色の向こうで、誰かが泣きそうな声で、
そっと呼んだ。
「……チップ……」
――あ。
その名前を、私は知っている。
“チップ”。
夢の中で、何度も呼ばれていた名前。
遠い記憶の奥で、
確かに私は――そう呼ばれていた。
耳の奥へ響いたその声は、
どうしてか胸が苦しくなるくらい懐かしくて。
忘れていたはずの記憶が、心の奥で静かに揺れた。
涙が、こぼれそうになった。
――そのとき。
遠くのほうで、誰かの声が聞こえた。
「……さん……
犬神さん!」
ヒカリの声だ。
その瞬間、揺らいでいた景色が一気に遠ざかっていく。
雨の音も、泥の感触も、
あのあたたかな手のぬくもりも――
すべてが、霧みたいにほどけて消えていった。
「――っ!」
気づけば私は、祠の前に座り込んでいた。
犬神神社の境内には、さっきまでの張りつめた空気が嘘みたいに、静かな風が流れている。
揺れる木々。
聞こえてくる虫の声。
夜の匂い。
現実へ戻ってきたんだと、遅れて実感が押し寄せてきた。
「はぁっ、び、びっくりしたぁ……」
私は荒くなった呼吸を、ゆっくり落ち着かせる。
――まるで、
長い夢の中を走り続けていたみたいだった。
でも。
あの感覚だけは、まだ身体のどこかに残っていた。
雨の冷たさ。
誰かの声。
“チップ”と呼ばれた記憶――。
「……今の、なんだったんだろ……」
思わずそう呟いたとき、ヒカリが心配そうに駆け寄ってきた。
「犬神さん、大丈夫?」
「……うん、大丈夫。でも、なんか……
変な感じがする……」
私はそっと、自分の身体を見下ろした。
右手に、小さな違和感を覚える。
「……え?」
薄暗い境内の中で、右手の薬指に嵌まった白銀の指輪が、静かに光を返していた。
「……これって……」
思わず息を呑む。
夢幻封界で首につけていた、あの“犬神の首輪”。
それが今は、指輪の姿へ変わっていた――。
『クク……ついに手にしたか。
犬神の継承者よ――その白銀の証を』
「ひゃっ!?」
突然、頭の奥へ直接響いてきたシロの声に、私は思わず肩を跳ねさせた。
「シロ!? どこにいるの!?」
きょろきょろ辺りを見回す。
でも、境内のどこにもシロの姿はない。
『我は常に貴様の傍らに在る。
ただし、この声が届くのは“契約を結びし者”のみよ』
「えぇっ!? どういうこと!?」
『その指輪は、“犬神の力”に触れし者にしか視認できぬ。
人の理に生きるだけの者どもには、その存在すら見ることは叶わぬ』
「えっ、じゃあ普通の人には見えてないってこと!?
よ、良かったぁ……学校でこんなのつけてたら、
絶対先生に怒られる…… “アクセサリー禁止です”って言われるやつだよ〜っ!」
シロはそんな私に、
ふっと呆れたみたいに鼻を鳴らした。
『さらに“結びの印”を繋ぎ、封界との契約を深めよ。
さすれば、その指輪は真なる力を解放し、
我と貴様を結ぶ道も、より強固なものとなろう――』
「うぅ……なんか難しそうだけど、
とりあえず頑張れってことだよね……?」
私はうーっと唸りながら首をかしげる。
そんな私の横で、ヒカリがじっと右手を見つめ、小さく目を細めた。
「犬神さん、その指輪……」
「え?」
私はヒカリの視線を追う。
彼女は確かに、私の右手の薬指に嵌まった白銀の指輪を見つめていた。
「ヒカリ、見えるの? この指輪……」
「ええ、見えるわ。
だって、それは“犬神の力を宿すもの”だから」
その答えに、私はますます混乱する。
他の人には見えない。
なのに、ヒカリには見えている――。
それって、どういうことなの……?
『フ……当然だ。
貴様らの魂は、すでに“運命の縁”で結ばれておるのだからな』
またしても、シロの声がしれっと頭の中へ割り込んできた。
「う、運命って……
なんか急にすごいこと言い出したんだけど〜っ!?」
思わず顔が熱くなる。
私は誤魔化すみたいに、そっと指輪を撫でた。
ひんやり冷たいはずなのに、どこか安心するような感覚が、指先へ静かに伝わってくる。
ふと私は、ずっと気になっていたことを思い出した。
「……ねえ、そういえばさ。犬神神社で見かけた白い影って……」
ヒカリは、あっさりと言う。
「それって、シロじゃない?」
「えぇぇぇ!? やっぱりぃぃぃ!!??」
ショックすぎて、思わず目が点になる。
『フ……ようやく気づいたか、犬神千陽よ。
――そう、あれは我だ』
どこか誇らしげな声とともに、白い光がふわりと揺らいだ。
淡い光の粒が、夕闇に溶けるみたいに境内へ広がっていく。
白い光がぱっと弾けたかと思うと、シロが“どうだ!”って顔で現れた。
しかも、めちゃくちゃ得意げ。
「えぇぇぇっ!? やっぱシロだったんだ!?
じゃあ、私がゲンキとお散歩してたときとか!? あの視線も!?」
『すべては、貴様を観察し、試すため――』
「ストーカーじゃんかーーーーっ!!」
私の叫び声が、夕暮れの境内へ思いっきり響き渡った。
ヒカリも「まぁ……確かに」と苦笑しながら頷く。
「シロ、それはもう完全にストーカーよね」
『否。
我はただ、貴様を“見守って”いただけだ』
「いやいやいや!
言い方変えてもアウトだからねっ!?」
私は腕を組み、じとーっとシロを睨みつける。
でもシロはまったく気にしていない。
『フ……犬神たるもの、選ばれし者を見守るのは当然の義務。
我が貴様を影から支えしこと、誇りに思うがよい』
「うわ〜〜〜開き直ったぁ〜っ!?
もうこうなったら……」
私は勢いよくシロへ飛び込んだ。
そのまま、首元のもふもふをわしゃわしゃ攻撃!!
『ぬぅっ!? な、なんだこの術は……!!』
耳がぴくぴく動き、尻尾までぶわっと逆立っている。
「これはモフモフの刑だよっ!!
ずーっとつけ回してた罪、今ここで償ってもらいます!!」
『や、やめろぉ!
我の神狼たる威厳がぁぁ……!!』
「ふふふ〜♪
シロってこんなにフワフワだったんだね〜」
私は頭から背中、お腹まで、遠慮なくモフり倒していく。
すると、その様子を見ていたゲンキが、
「ワンッ!」って元気よく飛びついてきた。
「あっ、ゲンキ!?」
ぐいぐい鼻先を押しつけながら、
“ボクも〜!”って感じで尻尾をぶんぶん振っている。
「ふふっ、はいはい♪
ゲンキもなでなでだね〜」
私はそのまま、ゲンキの頭もわしゃわしゃ撫で回した。
『ぬぅぅっ……
こ、この屈辱……覚えていろよ、犬神千陽……!!』
その様子を見て、ヒカリがくすくす笑った。
「犬神さんって、シロに対して容赦ないわね」
「だって〜、完全にストーカーしてたじゃん!?
当然の報いっ!」
そう言い返したあと、私は少しだけ顔を伏せた。
「……怖かったんだからね」
その一言に、ヒカリの表情がふっとやわらぐ。
シロもしばらく黙っていたけれど、
やがて小さく尻尾を揺らしながら、ぽつりと呟いた。
『貴様を守ることも、我の務めだ。
だからこそ……目を離すわけにはいかなかった』
その声は、さっきまでより少しだけ優しかった。
私は一瞬きょとんとしたあと、
なんだか照れくさくなって、ふっと笑う。
「だったら、最初からそう言ってよね」
私はもう一度、シロのもふもふを優しく撫でた。
『試練は、まだ終わってはおらぬ。
残る三つの結びの印が繋がる時――
夢幻封界は、再び理の均衡を取り戻すであろう』
「はぁ〜〜……やっと終わったと思ったのにぃ〜……」
思わず空を見上げる。
でも。
次があるなら、きっと進まなきゃいけない。
私はそっと、ゲンキへ視線を向けた。
夢幻封界では、私はずっと“ゲンキの姿”を借りていた。
走って、転んで、怖がって、必死になって戦って――。
「ゲンキ……今日は、いろいろごめんね」
しゃがみ込み、私はゲンキの頭をそっと撫でる。
するとゲンキは、小さく首をかしげたあと――
「ワン!」
いつもの元気な声で鳴いてくれた。
たぶん本人は、何のことか全然わかってない。
でも、その無邪気な声が、なんだかすごくゲンキらしくて。
「……ありがと」
私は、ぎゅっとゲンキを抱きしめる。
そのぬくもりが、まだ残っていたざわつきを、
ゆっくり溶かしてくれた。
『さて、第一の“結びの印”は繋がれた。
次なる試練へ備えるがよい』
再び響いたシロの声に、私は右手の白銀の指輪を見つめる。
静かに深呼吸した。
「……次の試練も、やるしかないね!」
ヒカリが隣で、やさしく微笑む。
「ええ。一緒に乗り越えていきましょう」
私たちは顔を見合わせ、軽く拳をこつんと合わせた。
新しい力を手にして、第一の“結びの印”を繋いだ。
でも――これはまだ、始まりの一歩にすぎない。
まさか私が、こんな世界へ関わることになるなんて。
ほんの少し前まで、ただの普通の女の子だったのに。
だけど、もう戻れない。
この手に宿った力が、静かにそう告げている。
――次なる試練が、静かにその時を待っている。
私の知らない“運命”が、
また少しだけ、その姿を見せ始めていた。
――第五章へ続く。




