第八章 偽聖女の盃
国王の回復は、その日のうちに王都中に広まった。
城下の鐘が三度、鳴った。
夕方、ロザリエ王女が、俺を中庭に呼んだ。
白い大理石のベンチに腰を下ろし、彼女は「祝賀の儀」のことを切り出した。
「明日、世界中の貴族と聖職者を集めて、世界規模の祭儀を行います」
彼女の声は、まだ少し震えていた。
「祭壇に大寸胴を据えます。あなたに、世界全体に向けて、フォンを引いてほしい」
俺は、王女の言葉を頭の中で繰り返した。
世界全体に向けて、出汁を引く。
料理用語と政治用語が、ひとつの文章の中で、ぴったり噛み合っていた。
ぞっとするような感覚があった。
「俺一人で、ですか」
「あなたしかいません」
「正直に言うと、俺、世界の規模で煮たことないです」
「分かっています。でも、誰よりも『澄ませる』のが、あなたです」
彼女の青い目には、もう涙はなかった。
代わりに、何か、信じきっている光があった。
その光は、料理の世界では、いちばん怖い種類の光だった。
翌朝、王都中央広場に、大寸胴が運び込まれた。
直径、二人の身長分。
深さ、人の背丈ほど。
寸胴の周りに、聖職者たちが立ち、香炉を振っていた。
貴族たちは桟敷席で、ワインを傾けていた。
俺は、その中央で、玉杓子を構えていた。
樋口さんに見せたかったな、と、ふと思った。
樋口さんなら、たぶん、こちらの寸胴の大きさを見て、笑うだろう。
『お前、これは寸胴じゃなくて、井戸だぞ』
そう言って、肩を一度、叩くだろう。
実際、その大きさは、井戸に近かった。
縁に立つと、首をのばしても、向こう側の人間の顔が、半分しか見えなかった。
俺は、長柄の玉杓子を握り、寸胴の縁を一周した。
火床の数を、数えた。
八つ。
火床の薪の組み方を、ひとつずつ、確認した。
八つの火が、均等に、寸胴の底を温めなければ、フォンは、片側だけが先に煮える。
片側だけが先に煮えると、灰汁の出方が、ばらつく。
ばらつくと、誰も、表面の灰汁を、追えない。
俺は、火床の脇に立つ薪係に、ひとつずつ、頷きを返した。
彼らは、緊張した顔で、頷きを、返してきた。
火が入った。
薪が、何百本と組まれた。
骨と香味野菜、漉した一番フォンが、巨大な寸胴に入れられた。
最初の三十分、俺は火床を回って、薪の角度を調整した。
火が偏ると、寸胴の片側だけが煮立って、すべてが台無しになる。
次の二時間、灰汁を取り続けた。
寸胴が大きい分、灰汁の出る量も桁違いだった。
俺は専用の長柄の玉杓子を使い、表面を、撫でるように、舐めるように、剥がし続けた。
やがて、寸胴の縁から、淡い金色の蒸気が立ち上り始めた。
観衆がざわついた。
桟敷の貴族の一人が、ワイングラスを取り落とした。
空気が、変わったのだ。
王都全体の空気が、ふっ、と澄んだ。
吸う息が、軽くなった。
長く咳をしていた老人が、なぜか黙り、目を開いた。
病室で寝たきりだった子供が、自分でカーテンを開けた。
市場の商人が、ふと、自分の足で立ち止まった。
彼らは、その時、自分の身体の中に、何かが、戻ってきたのを、感じた。
その「何か」が、何なのかは、分からなかった。
ただ、ずっと薄められ続けてきた、生きる力の根のようなものが、この瞬間、わずかに、補充された、ような感覚。
それを、王都中の人間が、同時に、感じた。
河岸では、洗濯をしていた女が、ふと、空を見上げた。
牛舎では、乳の出が止まっていた老牛が、ゆっくりと、立ち上がった。
神殿では、祈祷中の聖職者が、自分が祈っている対象が、本当に、そこに「ある」と、生まれて初めて、確信した。
報告は、儀式の最中にも続々と中央広場に届けられた。
聖職者の一人が、寸胴の前で泣き崩れていた。
「これは……これが、本来のフォンか……」
彼は、両手で顔を覆って、しばらく、声を出して泣いた。
彼が泣いた理由を、俺は、あとで、知った。
彼は、千年の歴史の中で、文献にだけ残っていた「真のフォン」の記述を、ずっと、信じてきた聖職者だった。
「真のフォンは、空気を澄ませ、病を癒し、世界の根を、ゆっくりと、補う」
その記述を信じて、彼は、五十年、神殿で祈り続けてきた。
でも、誰も、それを再現できなかった。
どこにも、それを引ける料理人が、いなかった。
彼は、それを「神話」だと、みんなから笑われてきた。
その彼が、今夜、寸胴の前で、文献の記述が、神話ではなかったことを、確認した。
彼の祈りは、無駄ではなかった。
その確認が、彼を、子供のように、泣かせていた。
ロザリエ王女が、玉座から立ち上がり、俺の方を見ていた。
彼女は、両手を組んでいた。
彼女もまた、信じきっていた。
偽りの勝利の合図は、その夜、来た。
夜中、城の物見櫓の鐘が乱打された。
俺はちょうど、寸胴の見張りを兵に任せ、一時間だけ仮眠を取ろうとしたところだった。
ロザリエ王女が、自ら俺の客室に駆け込んできた。
「冬野殿、北方からです」
「北方、なんですか」
「黒い湯気の柱が、上がっています」
俺は跳ね起きた。
城の物見台に上ると、北の地平線に、黒い、奇妙に粘った雲のようなものが立ち上っていた。
あれは、煙ではなかった。
あれは、明らかに、何かの「フォン」だった。
黒く、濁った、毒のフォン。
「インスタント・フォンの……巨大な発信源です」
セルナが、震える声で言った。
「魔王軍の、新しい指揮官が、動き始めました」
彼女は、寒さを感じているように、両腕を、自分の胴に、巻きつけていた。
夜風の中で、彼女の銀色の髪が、揺れていた。
「これまでの魔王軍は、効率化、なんて言葉、使わなかったのに」
「そう、なんですか」
「今度の指揮官は、これまでとは、明らかに、違います」
「……」
「世界の根を、もっと、急いで濁らせる方法を、知っている、ような動きです」
俺は、北の地平線を、見ていた。
黒い柱は、ゆっくりと、太くなっていた。
俺は、自分が一日かけて澄ませたばかりの空気が、もう、北の方から濁り始めているのを感じていた。
寸胴の前で、初めて、間に合わない、という言葉が、頭をよぎった。




