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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第七章 三日三晩のフォン

厨房は、城の地下にあった。


 石造りの広い部屋で、火床が三つ。


 俺は、一番奥の、いちばん大きい銅鍋を選んだ。


 材料は、宮廷の納屋から運ばれてきた。


 仔牛の骨。


 羊の脛骨。


 猟師が朝に獲った野鳥。


 香味野菜は、玉ねぎ、人参、セロリ、長ネギに似た葉野菜。


 材料を見て、俺は少しほっとした。


 地球と、根本のところは同じだった。


 骨を、まず軽く湯通しした。


 血と臭みを抜いて、冷水で洗った。


 香味野菜は、皮をむかず、土だけを丁寧に落とした。


 皮には、香りが詰まっている。


 水を張り、骨を入れ、火をつけた。


 最初の三十分は、火を強くしすぎないように、じっと見ていた。


 ぐらぐら煮立てると、油分が乳化して、白く濁る。


 濁ったフォンは、もう澄まない。


 どれだけ時間をかけても、戻らない。


 石造りの厨房は、地球の調理場と造りが違った。


 火床の高さが、銅鍋の底に、ちょうど合うように、調整できる仕組みになっていた。


 石の積み方を、衛兵が一人、説明してくれた。


「両側の石を、二段ずつ抜くと、火が遠くなります」


「ありがとうございます」


「冬野殿、夜になれば、火床は冷えます」


「ええ、それも、計算しておきます」


 夜と昼で、火の温度は、変わる。


 その変化を、薪の量と、石の高さで、相殺する。


 地球で、深夜の地下厨房で、俺がずっとやってきた、地味な調整。


 道具が変わっても、原理は、変わらなかった。


 厨房の入口で、衛兵が二人、立っていた。


 彼らは初日、俺が一晩中、椅子に座らないことを見て、目を丸くしていた。


 二日目、一人が交代の時間に「あいつ、寝てないぞ」と仲間に囁いていた。


 三日目、二人とも、無言になっていた。


 灰汁は、最初の六時間で、いちばん多く出た。


 次の十二時間で、量は減ったが、細かく出続けた。


 二日目の夜、灰汁の出方が変わった。


 灰色の塊から、薄い膜状になった。


 膜の取り方は、玉杓子の縁を、表面に「触れさせる」程度。


 吸い取る、ではなく、触れさせる。


 俺は十年、この感覚を指で覚えてきた。


 誰にも見られず、誰にも褒められず、ただ、覚えてきた。


 厨房の入り口に、ロザリエ王女が、何度か顔を出した。


 彼女は何も言わずに、ただ立っていた。


 俺の手元を見ていた。


 二日目の夜、ロザリエ王女は、自分で銀盆を運んできた。


 盆の上には、温かいパンと、薄切りの肉が、乗っていた。


「冬野殿、これを」


「ありがとうございます。あとで、いただきます」


「いま、食べてください」


「灰汁の出方が、変わる時間なので、手が離せません」


「では、私が」


 彼女は、銀盆をテーブルに置き、自分の手で、パンを千切った。


 その小さな塊を、俺の口元に、差し出した。


 俺は、玉杓子を握ったまま、ためらった。


 王女が、料理人の口に、自らパンを運ぶ、というのは、たぶん、この世界の作法から、いくつも、外れていた。


「冬野殿、口を開けてください」


「……はい」


 俺は、口を、開けた。


 パンが、口に入った。


 甘い、ライ麦のパンだった。


 彼女は、満足そうに、一度、頷いた。


「もうひとつ」


「いただきます」


 二口、三口で、パンは、消えた。


 俺は、玉杓子を、握ったまま、頭を下げた。


「ありがとうございます」


「いえ」


 彼女は、銀盆を、テーブルに、残した。


「あとは、自分の手で、食べてください」


「はい」


「冬野殿が、倒れたら、私たちは、もう、誰も、頼る人が、いなくなります」


「……はい」


「だから、これは、私のためでも、あるのです」


 彼女は、深く、頭を下げて、厨房を、出ていった。


 扉が閉まるとき、廊下で、彼女が、長く息を吐く音が、聞こえた。


 三日目の朝、空気の質が変わった。


 地下なのに、風が動いた。


 最初に気づいたのは、火床の脇に立っていた衛兵だった。


 彼は、ふっ、と顔を上げ、それから、何かに気づいたように、隣の衛兵を、肘でつついた。


 二人とも、深く、息を吸った。


 吸った息が、いつもの地下の、湿った石と煤の匂いと、違っていた。


 甘い、というのとも違う。


 澄んだ、というのが、いちばん近かった。


 空気そのものが、軽くなっていた。


 俺は、玉杓子を、いったん、止めた。


 寸胴の表面に、自分の顔を、近づけた。


 液面に、自分の顔が、はっきりと、映っていた。


 目の下の隈が、深かった。


 頬がこけていた。


 でも、目は、思ったより、澄んでいた。


 俺は、その顔を、しばらく、見つめていた。


 樋口さんに、見せたかった。


 樋口さんは、たぶん、何も言わずに、肩を一度叩くだけだろう。


 それでいい、と思った。


 その一回の肩の叩きが、十年分の、評価だった。


 銅鍋の中の液面が、それまでの琥珀色から、深い金色になった。


 寸胴の前で見たことのある色だった。


 あの夜、最後に見た、目の錯覚のはずだった金色。


 ここには、それが、はっきりと、ある。


 俺は火を止めた。


 漉し布を二枚重ねて、布越しに、小さな白い椀に、ひとさじだけ注いだ。


 他のものは、まだ冷ましてから漉す。


 この一杯だけが、いま、いちばん熱くて、いちばん澄んでいる。


 俺は、椀を持って、上の階に上がった。


 国王の寝室の扉が、開かれた。


 寝台の上で、国王の呼吸は、もう数えるほどしかなかった。


 ロザリエ王女が、椀を受け取り、震える手で、父の口元に運んだ。


 国王の唇が、わずかに動いた。


 一口。


 二口。


 国王は目を開けた。


 長く、長く、息を吸った。


 寝室の窓の外で、燭台ではない、自然な朝日が、ふっと差し込んだ。


 国王は、しばらく、天井を、見つめていた。


 彼の目に、ゆっくりと、光が、戻ってきた。


 何年も、白く濁っていた目が、わずかに、青味を、取り戻していた。


 彼は、自分の手のひらを、ゆっくりと、見た。


 指先を、一本ずつ、動かした。


 ずっと、自分の意志では動かなかった指が、彼の意志に、応えていた。


「……」


 国王は、何かを言いかけて、声が出ないことに気づき、もう一度、椀を、求めた。


 ロザリエ王女が、震える手で、もう一杯、注いだ。


 国王は、自分の手で、その椀を、両手で受けた。


 受けた手は、まだ、震えていた。


 でも、もう、自力で、椀を、口元まで、運んだ。


 二杯目を、ゆっくり、飲み干した。


 彼は、長く、息を、吐いた。


 その息は、半年ぶりに、深い息だった。


「……ありがとう」


 短く、それだけ、言った。


 ロザリエ王女が、俺の前で、膝をついた。


「冬野殿」


 彼女の声は、震えていた。


「あなたは、世界を救ってくださるかもしれません」


 俺は、何も言えなかった。


 俺は、ただ、いつもの灰汁を、いつもの手つきで取っただけだった。


 いつもの、ただの、十年だった。


 その夜、王宮では、内輪の祝賀が、ささやかに開かれた。


 俺は、その祝賀の場には、出なかった。


 地下の厨房で、自分の引いたフォンの残りを、ロザリエ王女と、宮廷医師の三人と、セルナと、合計六人で、静かに、分けて飲んだ。


 誰も、声を、上げなかった。


 誰も、乾杯を、しなかった。


 ただ、椀を、両手で、長く、温めて、ひと口ずつ、含んだ。


 その静けさが、何よりの祝賀だった。


 地上の宴会場で、シャンパンが抜かれる音が、遠くで、聞こえた。


 でも、地下の厨房の方が、明らかに、空気が、澄んでいた。

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