第五章 ゴブリンのテリーヌ
翌朝、村の自警団から「冒険者ギルドに登録しないと王都の街に入れない」と言われた。
この世界には、流れの料理人にも一応の身分証が要るらしかった。
最寄りの町まで馬車で半日。
俺はその馬車に揺られながら、セルナと並んで座っていた。
「セルナさん、聞いていいですか」
「はい、なんでしょう」
「『フォン』って、この世界の言葉ですか」
セルナは少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「古代語です」
「意味は」
「『土台』、『根源』、それから――『出汁』」
俺は、玉杓子の柄を握った。
「同じ意味なんですか」
「同じ綴りで、同じ意味です」
セルナの青い目が、俺の手元を見ていた。
「この世界の魔素は、千年前から『フォン』と呼ばれてきました。地から湧き、骨を煮ることで澄み、ものを生かす力です」
「……骨を煮ると魔素が出るんですか」
「正しい手順で、長い時間をかければ」
俺は、しばらく黙った。
馬車の振動の中で、自分が十年やってきたことが、急に別の形を持ち始めた気がした。
地球で「フォン(Fond)」と呼ばれていた、フランス料理の出汁。
その単語は、もともと「土台」「基礎」を意味するフランス語だった。
料理の世界で「フォンを引く」と言うとき、それは、料理の土台そのものを、作る、という意味になる。
地球と、この世界で、同じ単語が、同じ意味を持っていた。
偶然、ではなかったのかもしれない、と俺は思った。
千年前、地球とこの世界の間に、何か、繋がりがあった可能性。
誰か――たぶん、名もない料理人が――両方の世界を、行き来していた可能性。
その仮説を、俺は、声に出さずに、自分の中で、握っていた。
町に着いた。
冒険者ギルドの建物は、石造りの三階建てだった。
一階の受付に、若い女性の職員が座っていた。
「あの、新規登録を」
俺は窓口で、用件を伝えた。
受付嬢は微笑んで書類を出しかけ、ふと俺の腰の包丁ロールに目を留めた。
「料理人さんですか?」
「はい」
「珍しいですね、料理人さんがギルド登録するの」
「移動するのに必要だと聞いて」
受付嬢が書類を進めている間に、ギルドの掲示板の前で、若い冒険者たちが大声を出していた。
「またゴブリンの群れか」
「あいつらの肉、毒だから埋めるしかねえし」
「でも依頼料は出るぜ」
俺は何気なく振り返った。
「ゴブリンの肉、捨てるんですか」
冒険者の一人が、大柄な男が、振り向いた。
「あぁ? あれ呪われてるんだよ、食えるわけねえだろ」
「血抜きと内臓処理をすれば、たぶん食べられますよ」
冒険者たちの動きが、止まった。
受付嬢の手も、止まった。
ギルドの中の空気が、ふっと吸い込まれた。
「……いま、なんつった、お前」
俺は、しまった、と思った。
地球での癖で、つい、無料の食材の話をしてしまった。
「いえ、もし血抜きと低温調理が可能なら、肝臓と腿肉は食材として使えます。あとは煮こごりが取れますね、骨からは、たぶんいいフォンが」
「待て待て待て」
大柄な冒険者は、手のひらをこちらに向けた。
「お前、何言ってんだ」
「……すみません、職業病で」
「いや、あの、もしお前の言ってることがほんとなら――」
受付嬢が、立ち上がっていた。
「肉一頭分から、いくらの食材になりますか」
「下処理に半日いただければ、たぶん、いま依頼料の三倍は出せます」
ギルドの中が、ざわついた。
ざわつき始めた、と気づいたときには、もう遅かった。
その日の午後、俺はギルドの調理場を借りて、運ばれてきたゴブリンの死体を一頭、処理して見せることになった。
血抜き、内臓除去、皮剥ぎ、部位ごとの切り分け。
ギルドの調理場は、地球の精肉作業場と、造りが似ていた。
大きな作業台と、水場と、吊るしの金具。
料理人としての作業の流れは、地球と、ほぼ同じだった。
俺は、最初に、ゴブリンの首から血を抜いた。
血を、地面の溝に、流した。
ギルドの職員が、その光景を、息を止めて、見ていた。
彼らは、これまで、ゴブリンの血を、大地に流した経験が、なかった。
ゴブリンの血は呪われている、と、誰もが、信じていた。
でも、流した血は、ふつうの溝に、ふつうに、吸い込まれていった。
何の異変も、起きなかった。
次に、内臓を取り出した。
胆嚢を、傷つけないように、慎重に、外した。
胆嚢の中身は、苦い。
地球のジビエと、同じだった。
胆汁が肉に触れると、その肉は、もう、食えない。
ゴブリンの肉が「呪われている」と思われていたのは、たぶん、これだった。
彼らは、胆嚢を傷つけたまま、肉を切り分けて、苦味を「呪い」と呼んでいた。
俺は、その仕組みを、声に出さずに、自分の中で、確認した。
一通り終わって、肝臓を香草と一緒に低温で煮て、骨は別の鍋でフォンを引き始めた。
四時間後。
俺は、薄切りにした肝臓のテリーヌを切り分け、フォンを煮詰めて作ったジュレを上にのせた。
ギルドマスターが、一切れ、口に運んだ。
彼は、しばらく動かなかった。
彼の目が、ゆっくりと、見開かれていった。
ギルドマスターは、傭兵上がりの、五十代の男だった。
戦場で何度も、人の血を見てきた、無骨な顔つきの人物だった。
その彼の頬が、薄く、紅潮していた。
「これは……魔物の肉だぞ」
「はい」
「これが、魔物の肉、なんだぞ」
「血抜きと、低温調理の温度管理を守れば、肉は、ただの蛋白質です」
「蛋白……?」
「呪いではなく、内臓に溜まった毒性物質と、血液に残る雑味が、原因でした」
「お前」
ギルドマスターは、ナイフをテーブルに置いた。
「お前、本当に、料理人なのか」
「料理人です」
「料理人なのに、なんで、毒性物質の話を、するんだ」
「日本の料理人は、衛生の勉強を、必ずしています」
「日本……?」
俺は、しまった、と、また、思った。
でも、もう、訂正のしようがなかった。
次に、隣にいたベテランの冒険者に、皿を回した。
冒険者は、震える手でフォークを持った。
大柄な男は、最後に皿を受け取り、一切れを口に入れたきり、頭を抱えた。
「俺たちは、何百匹、ゴブリンを埋めてきた」
彼は、こめかみを押さえていた。
「……埋めてきた量を、考えたくねえ」
ギルドマスターが、立ち上がった。
「冬野殿、王都に上申書を書く。あなたの登録は最高ランク扱いに変更させてもらう」
「いえ、俺は、料理人ですから」
「最高ランクの料理人だ」
受付嬢は、登録証を両手で押し頂くようにして、俺に差し出した。
彼女の手は、震えていた。
彼女は、登録証の脇に、特別な紋様の判子を、押した。
その紋様は、ギルドの中で、たった三人だけに与えられる、特別な扱いの印だった。
俺は、その紋様の意味を、知らずに、登録証を、受け取った。
あとで聞いた話では、その紋様を持っているのは、大陸全土で、これまで二人だけ、だったらしい。
一人は、引退した伝説の冒険者。
もう一人は、どこかの国の元・宮廷魔導師。
その三人目に、俺の名前が、加わった。
ギルドの掲示板の前で、新しい依頼を眺めていた冒険者たちが、ざわついた。
「あの紋様……俺、初めて見た」
「あれ、本当にあるんだ……」
「料理人なのに、なんで……」
俺は、彼らの視線を背に受けながら、ギルドを、出た。
外の空気が、不思議と、薄く、澄んでいた。
風が、いつもより、軽い気がした。
たぶん、気のせいだった。
でも、たぶん、気のせいでは、なかった。




