第四章 アクを取る男
麓の村は、丸太と漆喰の家が二十軒ほど寄り添う、小さな集落だった。
石畳の道は途中で土になり、その先で水路に変わった。
水路には水車が一つ、ゆっくりと回っていた。
空気は薄いが、澄んでいた。
俺がセルナを背負って村に入ると、村人たちはこちらを見て、次に倒した獣の毛皮を見て、目を丸くした。
「黒狼を……一人で?」
「あの森の主だぞ」
「冒険者かい? えらい若いな」
俺は曖昧に首を振った。
「料理人です」
その一言で、村は一瞬、沈黙した。
料理人、という単語が、ここではなにか別の重みを持っているらしかった。
通りの両側で、村人たちが、互いの顔を、見合わせていた。
声を低くして、何か囁き合っていた。
俺は、その囁きの中から、いくつかの単語を拾った。
「フォン……取り、なのか」
「まさか、こんなに若い……」
「でも、あの狼を一人で、というのは、たぶん」
俺は、自分の腰の玉杓子を、見た。
地球の厨房から持ち出した、ただの古い玉杓子。
でも、こちらの村人にとっては、それは、何か別の意味を持つ道具らしかった。
セルナは宿屋の女将――マリエルという四十代の恰幅のいい女性――に預けられた。
マリエルさんは、セルナの顔を見るなり、はっと息を呑んだ。
「あんた……知った顔だね」
「はい」とセルナは微笑んだ。「ただ今は、ふつうの娘です」
女将は何か言いかけて、結局首を振った。
彼女は俺の方に向き直った。
「あんた、料理ができるって本当かい?」
「……ええ、まあ」
「うちの竈、貸してやろうか」
提案の理由は、すぐにわかった。
宿屋の隣の調理場では、女将の旦那が痩せた鶏二羽を前に、途方に暮れていた。
「明日の領主さまへの献上品でね、どうしても香り高いスープが要るんだ」
「あいにくうちには、いいスープを引ける腕がないんだよ」
俺は、少し考えた。
手元には、出刃と牛刀。
厨房から持ち出した玉杓子。
樋口さんの温度計。
全部、地球の道具だった。
でも、引くものは、たぶん、同じだ。
「鍋を、貸してください」
女将は喜んで、銅の大鍋を出してきた。
俺は鶏二羽を捌き、骨だけを取り出して、軽く湯通しをした。
湯通しした骨を冷水で洗い、血合いと脂を、一片ずつ丁寧に取り除いた。
その作業を見ていたマリエルさんが、目を見開いた。
「……あんた、なんでそんなに丁寧に洗うんだい」
「血が残ると、雑味になるので」
「ざつ……み?」
「いらない味です」
女将は、口を半開きにしたまま、しばらく動かなかった。
水を張り、骨を入れた銅鍋を竈にかけた。
火加減は、ぐらぐら煮立てない。
表面が、ふつ、ふつ、と動くか動かないかの境目。
俺はその火加減を、十年、目で覚えてきた。
六時間。
俺は椅子に座らずに、ずっと立っていた。
灰汁が浮くたびに、玉杓子で撫でるように剥がした。
舐めるように、剥がした。
マリエルさんは最初、自分の仕事をしていた。
が、二時間目から、隣でずっと俺の手元を見ていた。
四時間目、彼女は厨房の入口で、村人を一人、また一人と呼び寄せていた。
六時間目、銅鍋の中の液面は、薄黄色から透き通った金色に変わっていた。
俺はその一杯を、白い陶器の椀に注いだ。
マリエルさんに、差し出した。
彼女は、両手で椀を受け取った。
手が、震えていた。
彼女は一口、含んだ。
飲み込んだ。
もう一口、含んだ。
涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちた。
大柄な女性が、子供のように泣いていた。
「うそだろ……」
彼女の旦那が、椀を覗き込んで、言葉を失った。
「これ、骨と水、だけ……?」
「香味野菜は、入っていませんから」
「いや、そうじゃない、そういうことを聞いているんじゃない」
女将は両手で口を覆い、声を震わせた。
「これは、うちの母さんが死ぬ前に飲ませてやりたかったスープだ」
俺は何も答えられなかった。
料理人になって十年、こういう反応をされたことが、一度もなかったからだ。
マリエルさんは、しばらく、両手で口を覆ったまま、動かなかった。
彼女は、自分の前掛けで、目元を、何度も、拭った。
拭っても、拭っても、涙は、止まらなかった。
「ごめんよ、料理人さん」
彼女は、ようやく、声を出した。
「うちの母さんはね、二十年前に死んだんだ」
「……」
「死ぬ前の三日間、何も、口に入らなくなって、最後にね、『お母さんの引いたスープが、飲みたい』って、つぶやいたんだ」
「……」
「うちの母さんも、若い頃、フォン取りだったんだ」
「……」
「でも、私は、ばあちゃんのスープの作り方を、ちゃんと、教わってなかった」
「……」
「最後の三日間、私が引いたスープを、母さんは、飲まなかった」
「……」
「あんたのこのスープは、たぶん、ばあちゃんの味だ」
彼女は、また、両手で、口を覆った。
「二十年経って、母さんに、飲ませてあげたかった味が、いま、私の前に、ある」
俺は、玉杓子を、握ったまま、何も、言えなかった。
日本の客は、フォンの上にかかった派手なソースを褒めた。
フォンそのものを褒める客は、いなかった。
たまに、料理に詳しい老紳士が、「ソースの土台がいいね」と言ってくれることが、年に数回、あった。
でも、そう言ってくれる老紳士のほとんどは、亡くなったか、もう、店に来なかった。
残りの客は、見た目と、SNS映えと、価格に対する量を、語った。
俺の灰汁取りに、興味を持つ客は、ほとんど、いなかった。
ところが、この村では、違った。
マリエルさんの旦那が、椀を覗き込んだまま、震える声で、呟いた。
「これ、母さんの味だ……」
「お父さんの……?」
「俺のじゃない。俺の母さんの、母さんの味だ」
彼の目から、涙が、ぽろぽろと落ちた。
「俺、子供の頃、ばあちゃんの引いたスープを、毎晩、飲んでた。ばあちゃんが死んでから、もう、誰も、こういうスープを引けなくなった」
俺は、何も、言えなかった。
厨房の入口の方で、村人が、十数人、集まっていた。
誰も、入ってこなかった。
ただ、入口の縁から、こちらの椀の中身を、覗き込んでいた。
子供が、母親の手を引っ張っていた。
「かあちゃん、あれ、なに」
「あれは、たぶんね……」
母親は、口を、押さえた。
「あれは、私たちの、世界の、本当の出汁の味、だと思うよ」
俺は、椀をもうひとつ、出して、村人に、回した。
二十人ほどが、ひと口ずつ、飲んだ。
二十人、全員が、泣いた。
夕方、村の長老が宿屋に来た。
白い顎髭の、痩せた老人だった。
彼は俺の引いたフォンを一口飲み、しばらく目を閉じて、ようやく口を開いた。
「冬野殿、この村だけに収めておくべき腕ではない」
「いえ、俺は通りすがりで」
「明日、王都への使いを出します」
老人の声は、穏やかだが、有無を言わさなかった。
「あなたの澄んだ出汁が、たぶん、私たちの世界に、いま、いちばん必要なものです」
長老は、自分の白い顎髭を、ゆっくりと、撫でた。
「私が若い頃、東の山で、一人だけ、こういう出汁を引く人がいた」
「……」
「その方は、もう、五十年前に、亡くなっている」
「……」
「以来、私は、こういう澄み方の出汁を、飲んだことがなかった」
「……」
「五十年ぶりに、また、飲める日が、来るとは思わなかった」
彼の目に、涙が、浮かんでいた。
俺は、長老の言葉を、何も、返せずに、ただ、頭を下げた。




