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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第三章 森の朝

苔の匂いがした。


 次に、生木の燃えるような光が、瞼の裏に染みた。


 腰の下が、湿っていた。


 俺はゆっくりと目を開けた。


 頭上に、見たこともない大きさの広葉樹がそびえていた。


 葉の隙間から、強い朝日が斜めに差し込み、空気の中の細かい埃を金色に光らせていた。


 雨は、降っていなかった。


 駅の音もしなかった。


 代わりに、聞いたことのない鳥の声がした。


 高い、長い、笛のような声。


 それが、遠くで、二度、鳴いた。


 肺の中の空気が、地球で吸い慣れたものと、違っていた。


 日本の都心の空気には、いつも、自動車の排気と、エアコンの室外機の匂いが、薄く溶けていた。


 ここの空気には、それが、なかった。


 代わりに、湿った苔と、樹液と、土の中の何かが、複雑に、混じっていた。


 その匂いを、俺は、なぜか、知っていた。


 厨房で、香味野菜の根を、土ごとひっくり返したときの匂いと、似ていた。


 起き上がろうとして、右手のひらが土に触れた。


 爪の間に、黒い土。


 指先に、湿った苔の感触。


 明らかに、駅のホームの感触ではなかった。


「……夢か」


 声を出してみて、自分の声に違和感があることに気づいた。


 空気が薄い。標高が高い。


 肺の奥がひりひりする。


 俺は立ち上がった。


 着ているのは、辞表を出した日の白いコックコートのままだった。


 腰のエプロンに、なぜか厨房から持ち出した玉杓子が一本だけ差さっていた。


 左手にはエコバッグ。包丁ロールと、樋口さんの温度計が入っていた。


 夢にしては、装備が現実的すぎた。


 遠くで、女の子の悲鳴が聞こえた。


 考えるより先に体が動いた。


 声のした方に走った。


 走りながら、自分の呼吸が乱れることに腹が立った。


 厨房を出て十年、走るような場面なんて何ひとつなかった。


 大木の根の向こうに、開けた場所があった。


 灰色の毛皮の獣が三頭、地面に倒れている銀髪の少女に向かって、低く唸っていた。


 獣たちの大きさは、大型犬の倍ほどあった。


 目が、四つあった。


 俺はその時点で、ここがもう、地球ではないことを理解した。


 少女は、銀色の長い髪をしていた。


 肌は紙のように白く、青い目に涙が浮かんでいた。


 獣の一頭が、跳びかかろうと身を低くした。


 俺は反射的に、エコバッグから一番大きな出刃包丁を抜いた。


 料理人の包丁の構え方は、戦闘の構えではない。


 でも、骨を断つ訓練だけは、十年やってきていた。


 仔牛のすね骨を、毎晩、一頭分ずつ。


 関節の角度、刃の入る位置、力の方向。


 その全てを、地下の厨房で、誰にも見られずに、繰り返してきた。


 獣が跳んだ瞬間、俺は半歩横にずれた。


 地面に着地した獣の首の付け根――頸動脈の上――に、刃を素早く沈めた。


 仔牛の解体と、要領は同じだった。


 獣は声も上げずに崩れ落ちた。


 残りの二頭が、明らかに動揺していた。


 獣の血の匂いを嗅ぎ、こちらの距離感を測り直していた。


 彼らは、たぶん、これまで、人間に襲いかかって、こんな速さで倒される経験を、したことがなかった。


 冒険者の戦闘は、彼らの目から見れば、もっと、派手で、無駄な動きが多かったはずだ。


 俺の動きは、料理人の動きで、無駄が、なかった。


 俺はしゃがんで、倒した個体の血抜きの位置を確認していた。


 厨房の癖だった。


 その姿が、二頭の獣には不気味に映ったらしい。


 二頭は唸りながら後退り、やがて藪の中に消えていった。


 森が、急に静かになった。


 俺は包丁の血を、葉で拭った。


 血の付いた葉を、地面に落とした。


 葉が地面に触れた音が、不思議と、はっきり聞こえた。


 風が、止まっていた。


 倒した獣の体に、ふと、目を戻した。


 灰色の毛皮の獣。


 ふつうの狼より、二回りほど、大きかった。


 目が四つ。爪は、長く、内側に湾曲していた。


 地球の生物の常識から、ずれていた。


 でも、解体の手順を考えると、地球の動物と、そう変わらなかった。


 俺はしゃがんで、獣の首の付け根に、もう一度、刃を入れた。


 血抜きの位置の確認。


 厨房の癖で、つい、やっていた。


 今は、別に、食材を作っている訳ではないのに。


 でも、十年やってきた手は、勝手に動いた。


 血が、地面に、流れた。


 地面が、血を吸った。


 血を吸った地面の色が、わずかに、金色に、光った気がした。


 目の錯覚だ、と、思った。


 あの夜の、寸胴の中の液面と、同じ色だった。


「……あの……」


 倒れていた少女が、起き上がっていた。


 彼女は俺をまっすぐに見ていた。


 その目に、見たことのない種類の光があった。


「あなた、もしかして……」


 声は震えていた。


「フォンを引ける人ですか」


 俺は、瞬きをした。


 料理用語が、なぜこの森の少女の口から出てくるのか。


 答えに困っていると、少女は両手を胸の前で組んだ。


「私はセルナと言います。麓の村まで、私を連れていってくれませんか」


 俺は、自分でも理由がわからないまま、頷いていた。


 頷いた瞬間、少女の周りの空気が、ふっと、明るくなった気がした。


 彼女の銀色の髪が、朝日の中で、光った。


 肌の白さが、紙ではなく、明け方の雪のような白さに、変わって見えた。


 彼女の青い目には、もう、涙はなかった。


 代わりに、何か、確信に近い光が、戻っていた。


 俺は、彼女に、そっと、手を差し伸べた。


 彼女は、その手を、両手で、握った。


 握られた手のひらから、不思議な暖かさが、俺の腕の中に、ゆっくりと、広がった。


 寒い朝の厨房で、沸かしたばかりのスープを、両手で受け取ったときの、あの暖かさ。


 ずっと忘れていた感覚が、ふっと、戻ってきた。


 少女の組んだ手の隙間から、淡い金色の光が漏れていた。


 あの夜、寸胴の表面で見たのと、同じ色の光だった。

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