第二章 押された背中
「冬野さん、これあなたの管轄ですよね」
会議室の長机の向こう側で、狭間優生が紙束を滑らせてきた。
冷えた蛍光灯の下で、彼の指先は綺麗にネイルケアされていた。
保健所の調査報告書だった。
昨夜のパーティで、客に食中毒の症状が複数出たという内容。
俺は紙束に手を伸ばさず、表紙だけを見た。
「俺の出した料理じゃないですよ」
「いやでもさあ、原因はソースのベースになったブイヨンだろうって話で」
狭間は両手を肩のあたりまで上げて、困ったように笑った。
彼の笑顔には、人を腹立たせる何かがあった。
たぶん、心の底で困っていないからだ。
「ブイヨンは樋口さんが昼に作ったやつです」
「それを冷蔵庫から出して下処理したのは?」
「……俺ですけど」
「ほら、管轄じゃん」
狭間は両手を机に置いた。
「冬野ぉ、頼むよ。俺が表に出てる以上、こっちの厨房もイメージ大事なのよ」
「……」
「ちょっとだけ、責任の線、こっちに引かせてくれない?」
会議室の蛍光灯が、ジ、と鳴った。
俺はそのとき、不思議と腹も立たなかった。
怒りは出てこなかった。
ただ、ああ、これがこの十年だったんだな、と思った。
目立つ奴は表に出る。
地味な奴は責任を被る。
その線が、いま、目の前に引かれた。
俺は、紙束を手に取った。
責任者欄の空欄に、自分の名前を書いた。
ペン先が紙を擦る音が、自分の心臓の音より小さく聞こえた。
狭間は満足そうに頷き、紙束を抱えて部屋を出ていった。
扉の向こうで、彼の靴音が遠ざかっていく。
残された俺は、しばらく動けなかった。
動く意味が、見つけられなかった。
会議室の窓の外で、雨が、降り始めていた。
ガラスを、細い線が、無数に、伝って落ちていた。
俺はその線の数を、なんとなく、数えていた。
数えながら、自分が、いま、何を考えているのか、確かめようとしていた。
怒りは、なかった。
悔しさも、思ったよりは、少なかった。
代わりに、「ああ、ここまでだったな」という感覚だけが、胸の真ん中に、座っていた。
十年。
十年のうち、俺の名前で出した皿は、たぶん、ない。
でも、十年のうち、俺の引いたフォンが、入っていない皿も、ない。
その「俺の引いた」という痕跡を、誰も、評価する仕組みは、持っていなかった。
評価する仕組みを、誰も、作ろうとしなかった。
灰汁取りには、賞が、ない。
灰汁取りには、星が、つかない。
灰汁取りは、たぶん、始まりからずっと、誰にも、見せるためのものでは、なかった。
その日の夕方、辞表を出した。
誰も引き留めなかった。
ロッカーの私物を、エコバッグに詰めた。
古い前掛けと、自分の包丁ロール。
樋口さんが新人の頃にくれた、小さな金属の温度計。
それだけだった。
料理長の狭間は、自分の事務机から、こちらを、ちらり、と見た。
彼は、何も言わなかった。
でも、彼の表情には、わずかな、安堵の色があった。
俺の存在が、消えれば、彼の手の安っぽさを、誰も、もう、指摘しない。
彼は、たぶん、その安心を、噛みしめていた。
俺は、そのことに、気づいていた。
でも、何も、言わなかった。
言葉に、する気力が、もう、なかった。
樋口さんは、廊下で俺の肩を一度だけ叩いた。
何も言わずに、ただ叩いた。
外は雨だった。
地下から地上に出ると、街の音が一気に押し寄せてきた。
車の音、人の声、ネオンサインの低い唸り。
駅のホームで、俺はぼんやりと黄色い線の上を見ていた。
線路の向こうで、信号が赤に変わるのを見ていた。
遠くで電車のヘッドライトが見えた。
どんどん近づいてくる、白い光。
その光が、不思議と、自分が今夜煮ていた寸胴の中の金色の光と重なった。
地下の厨房と、駅のホーム。
全然違う場所のはずなのに、両方の景色の真ん中に、ひとつの光があった。
俺は、その光を、追っていた。
足元のホームの黄色い線が、ふっと、視界から、消えていた。
あとで考えれば、そのとき、もう、俺の体は、半分、ホームから、滑り出していた。
でも、俺は、自分の足元を、見ていなかった。
白い光だけを、見ていた。
ふと、背中に手のひらが触れた気がした。
強くではない。
ただ、ぽん、と乗った重さ。
その重さが、ゆっくりと俺の体を前に押した。
体勢が崩れる感覚。
雨の音と、構内アナウンスと、自分の心臓の音が、急に同じ大きさになった。
視界の端で、誰かのコートが翻った。
黒い、長いコート。
誰だ、と思った。
線路に落ちる、と思った。
最後の意識で、誰かの声を聞いた。
「フォンを澄ませろ」
樋口さんの声に、似ていた。
でも、樋口さんの声では、なかった。
もっと、もっと、遠い場所からの声だった。




