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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第一章 灰色のフォン

午前二時。ホテル地下二階の厨房は、地上の喧騒から遮断された別の国だった。


 俺は寸胴の前に立っていた。


 直径六十センチ、深さ五十センチの大寸胴。中で揺れる琥珀色の液面に、灰色の膜がゆっくりと浮き上がってくる。


 玉杓子で、撫でるように剥がす。


 舐めるように、剥がす。


 もう何時間こうしているのか、自分でもわからなくなっていた。


 窓のないこの部屋では、時間というものは寸胴の中の灰汁の量だけで計られる。


 灰汁が落ち着いてきたら朝が近い。


 灰汁が暴れているうちはまだ夜だ。


 今夜の灰汁は、よく出る。


 二時間前にゲンコツの仔牛骨を一度湯がいて、湯を捨てて、もう一度水から焚き直した。


 六時間。あと二時間は煮込む。


「冬野ぉ、まだやってんのかよ」


 通路の奥から声がした。


 深夜の見回りに来た衛生管理の主任だった。


 彼は厨房を覗き、寸胴の前で背中を丸めている俺を見て、肩をすくめた。


「お前、本当にそれしかやらないよな」


「……ええ」


「上は冷凍ブイヨンに切り替えたいんだろ? もうやる意味ないって」


 俺は黙って灰汁を取り続けた。


 主任は溜め息をひとつ落として、扉の向こうに消えた。


 灰汁は、急いで取ろうとすると一緒に旨味も持っていく。


 力を入れると、底のゼラチン層が舞い上がって濁る。


 寸胴の前では、人間は急いではいけない。


 それを十年、誰にも見られずに繰り返してきた。


 頭上から微かに音楽が漏れてくる。


 地上の宴会場で、何かの祝賀パーティが開かれているらしい。


 俺はその音楽を、何度も、聞いてきた。


 ホテルの宴会場では、毎週末、誰かの結婚式や、誰かの会社の周年式典や、誰かの大臣の就任祝いが、開かれている。


 地上では、シャンパンが抜かれ、ナイフがフォアグラのテリーヌに入る。


 地下では、灰汁が、出続ける。


 地上と地下の温度差は、たぶん、十度以上ある。


 地下の方が、寒い。


 地下の方が、人間が少ない。


 地下の方が、嘘が、少ない。


 俺は、玉杓子を、もう一度、表面に触れさせた。


 寸胴の中の灰汁は、最初の三十分でいちばん多く出る。


 次の二時間で、出方が落ち着く。


 四時間目から、灰汁は塊ではなく、薄い膜状になる。


 膜状になった灰汁は、玉杓子で吸い取ろうとしたら、絶対に、駄目だ。


 吸い取った瞬間、底のゼラチン層が、じわっと、舞い上がる。


 舞い上がったゼラチンは、もう、戻せない。


 戻せないと、フォンは濁る。


 濁ったフォンは、客に、出せない。


 客に出せないフォンは、捨てるしかない。


 六時間かけて、捨てるしかない。


 その「捨てる」を、何回、見てきたか。


 見てきたぶん、俺の手は、覚えてきた。


 たぶん、俺の手だけが、覚えていた。


 他のシェフは、最初の二時間で寸胴の前を離れる。


 あとは、若いコミか、機械式のスキマーに、任せる。


 俺は、そうしなかった。


 六時間、ずっと、隣にいた。


 誰にも頼まれていなかった。


 誰にも、見られていなかった。


 今夜の主役は、たぶん狭間だ。


 同期の狭間優生。三十歳。半年前、最年少で料理長に昇格した男。


 料理雑誌の表紙、テレビの料理コーナー、SNSのフォロワー数。あいつは料理の世界で「目立つ」ということに関しては、間違いなく天才だった。


 俺は十年、こいつだ。


 灰汁を取る男だ。


 ふと、後ろから足音がした。


 古参の先輩シェフ、樋口さんだった。


 来週で定年退職する人だ。


 この厨房で唯一、俺の仕事を「見ている」人だった。


「冬野」


 彼は寸胴の縁に手をかけ、湯気越しにこちらを見た。


「お前のフォンは、命だ」


 俺は手を止めなかった。


「……なんすか急に」


「俺が知ってる中で、お前ほど真っ直ぐ煮る奴はいない」


 樋口さんは少し笑った。


「真っ直ぐ煮る奴は、真っ直ぐ生きる奴と決まっとる」


「適当言わないでください」


「適当じゃない」


 彼の目は、いつもより強かった。


「来週、俺が辞めたあとな。お前、自分のフォンを信じてやれよ」


 俺は何も答えなかった。


 答えられなかった。


 信じる、なんて言葉は、料理の世界では一番遠い場所にある気がした。


 樋口さんは、しばらく、寸胴の表面を、見ていた。


 彼は、自分の腰のポケットから、古い銅の温度計を、取り出した。


 黒ずんだ革のケースに、収まった、小さな金属の温度計。


「これ、お前にやる」


「……いいんですか」


「俺の親父が、若い頃に、闇市で、買ったやつだ」


 彼は、温度計を、俺の手のひらに、押し付けた。


「親父も、ずっと、フォンばっかり、引いてた」


「……」


「親父が死ぬ前に、俺に渡してきた」


「……」


「俺は、もう、フォンを引かなくなるから、お前に、渡す」


 俺は、その温度計を、両手で、受け取った。


 ケースの革が、長年の手汗で、深い色に、染まっていた。


「いいんですか、本当に」


「いいんだ」


「……ありがとうございます」


「うん」


 樋口さんは、満足そうに、頷いた。


 料理の世界で生き残るのは、「数字」だ。


 原価率、回転率、フォロワー数、テレビ露出。


 寸胴の中の灰汁の重さを信じている奴は、誰もいない。


 樋口さんが立ち去ったあと、俺はまた一人になった。


 ポケットの携帯が震えた。


 妹だった。


 画面を見ただけで、用件が分かる。


 父の入院費。家賃の滞納。実家への仕送り。


 俺は通話ボタンを押さずに、ポケットに戻した。


 いま電話に出たら、自分の声がどう響くか、想像がついてしまったからだ。


 たぶん、父の入院費の金額は、もう、月給を超えている。


 たぶん、妹は、それを、知った上で、俺に、頭を下げに来ようとしている。


 でも、いま、俺の声には、その金額に応えるだけの強さが、残っていない。


 寸胴の前で、十年。


 誰にも見られない夜の作業を、続けてきた俺の声には、家族に届けるだけの厚みが、たぶん、残っていない。


 あとで、かけ直す。


 そう、自分に、言い聞かせた。


 寸胴の中の液面が、ようやく澄んでいた。


 琥珀色のはずの液体が、その夜、ほんの一瞬だけ、深い金色に光ったように見えた。


 目の錯覚だ、と思った。


 そう、思いたかった。


 翌朝、出勤してすぐに、衛生主任から呼び出された。


「冬野、すぐ会議室来い」


 主任の顔色が、ひどく悪かった。


 地下から二階の会議室へ上がる階段で、すでに、空気の冷たさが、違っていた。


 階段の途中で、樋口さんと、すれ違った。


 樋口さんは、何も言わずに、こちらを、長く見た。


 彼は、何か、気づいているらしかった。


 でも、彼は、声を、かけてこなかった。


 代わりに、俺の肩を、一度だけ、強く、叩いた。


 その叩き方が、いつもより、強かった。


 俺は、頷いて、階段を、上がった。


 会議室の扉の前で、深く、息を吸った。


 扉を、開けた。

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