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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第十九章 帰還、駅のホーム

雨の音が聞こえた。


 次に、構内アナウンスの聞き慣れた女性の声。


 ホームの冷えた手すりに、左手が触れた。


 俺は目を開けた。


 駅のホームだった。


 雨の。あの夜の。


 黄色い線。


 線路。


 信号は、まだ青だった。


 時計を見上げた。


 二十二時三十二分。


 俺が辞表を出した日の、辞めた直後の時刻。


 あの夜、俺が背中を押される、十秒前。


 俺はゆっくりと振り返った。


 背後に、傘を畳んだ男が立っていた。


 黒いコート。


 濡れた前髪。


 狭間優生だった。


 あちらの世界で見たのと、同じ顔。


 でもこちらの狭間は、まだ料理長の狭間だった。


 まだ何も知らない、こちらの狭間。


 俺は彼の目を見た。


 彼はこちらを見て、ふと足を止めた。


 彼の手のひらが、少し上がりかけて、また下がった。


 彼は俺の目から、視線を外した。


「……冬野」


 彼の声は震えていた。


「お前、辞めるって、本気か」


「本気ですよ」


「なんで、最後に、こっちに来た」


「電車を待ってるだけです」


 狭間の手が、コートのポケットの中で握られているのが見えた。


 彼が何を考えていたのか、もうなんとなく分かった。


 彼は向こうの世界では、この夜のことをずっと覚えていた。


 こちらの狭間は、まだ迷っていた。


 迷っている人間の肩の傾き方を、俺は知っていた。


 地下の厨房で、新人のコミが初めて灰汁取りに失敗した夜の、あの肩の傾き方。


 料理長になりたての狭間が、初めて自分の手で大宴会のソースを失敗した夜の、あの肩の傾き方。


 肩の左半分が、ふっと内側に下がる。


 その傾きを、彼はいま、雨の駅のホームでしている。


 俺は十年、人の肩の傾きを見てきた。


 灰汁を取る人間は、いつも、隣の人間の肩を見ている。


 誰かが疲れたら、玉杓子を代わる。


 誰かが迷ったら、隣で火加減を合わせる。


 俺は彼に近づいた。


 彼の背の左側に立った。


 黄色い線の、外側に。


 彼の体が、こわばった。


「……何、すんだよ」


「狭間」


 俺は彼の方を見ずに、線路を見た。


「お前のせいじゃない」


 彼の肩が、ぴくり、と動いた。


「あの食中毒の件、ブイヨンじゃない」


「……は?」


「あの日、樋口さんがブイヨンを引いたあと、補助の若いコミが、別の鍋を冷蔵庫の中で隣に置いてた」


「……」


「魚の余り肉が漏れてた。それが、保健所が指摘してた本当の原因だ」


「……お前、知ってたのかよ」


「知ってた。でも、補助のコミは新人で、入って三ヶ月だった」


 俺は自分の声が、こんなに静かなことに、自分で驚いていた。


「あいつの履歴に、最初の三ヶ月で食中毒が乗ったら、業界には戻れない」


「だから、お前が被ったのか」


「うん」


 狭間の手が、震えていた。


「お前、なんで、それを俺に押し付けられて、黙ってたんだよ」


「俺は、被るのに慣れてただけだ」


「……」


「でも、これからは、慣れるのをやめる」


 俺は線路から、彼の方に視線を戻した。


「狭間、お前が表に出るのはいい」


「……」


「でも、地下の灰汁取りも、ちゃんと見ておけ」


「……」


「見てるか、見てないか、客には分かる」


 彼は長く、俺を見ていた。


 雨が、彼の前髪からぽたり、と落ちた。


「冬野」


「うん」


「お前、辞めんなよ」


「……」


「お前のフォンが無くなったら、うちのレストラン、終わるんだよ」


 彼の声は、震えていた。


 俺は長く、彼を見ていた。


 あちらの世界で寸胴の前で泣いていた狭間と、こちらの、まだ何も知らない狭間が、ゆっくりと重なっていった。


「狭間」


「うん」


「明日の朝、辞表、撤回しに行く」


「……ほんとか」


「でも、契約、変える」


「……」


「俺、これから自分の店、開く準備する」


「……いつから」


「半年後」


「……」


「半年、俺の手で後輩を二人、フォン取りに育てる」


「……」


「育てたら、俺、出るから」


 狭間は長く、俺を見ていた。


 彼の目に、何かが滲んでいた。


「冬野」


「うん」


「俺、お前のフォンに、ずっと嫉妬してた」


「知ってる」


「知ってた、のかよ」


「ああ」


「で、嫌いにならなかったのかよ」


「ならない」


 俺は線路の方を見た。


 遠くで、電車のヘッドライトが見えてきた。


「お前のSNSは、お前の仕事だ」


「……」


「俺の灰汁取りは、俺の仕事だ」


「……」


「同じ厨房で、両方、要る」


 狭間はしばらく、何も言わなかった。


 彼は俺の方を見ずに、ホームの屋根の下から雨の落ちる音を聞いていた。


 彼の表情が、ゆっくりとゆるんでいった。


 張り詰めていたものが、どこか抜けていく感じだった。


 彼は自分のコートのポケットから、手帳を取り出した。


 黒革の、見覚えのある手帳。


 地下の厨房で、何度も見た手帳。


 彼が効率化のための仕入れ表を、書き込んでいた手帳だった。


 彼はその手帳を、線路の脇のごみ箱にぽい、と放った。


 手帳が宙を舞い、ごみ箱の縁に当たって、中に落ちた。


「もう、要らない」


 彼は一言、言った。


 電車が、ホームに入ってきた。


 風が、強く吹いた。


 俺たちは二人とも、ホームの内側にゆっくりと半歩、下がった。


 ドアが、開いた。


 俺は乗り込まなかった。


 狭間も、乗らなかった。


 ドアが、閉まった。


 電車は、走り去った。


 ホームに、二人だけが残った。


「狭間」


「うん」


「飲みに、行くか」


「……ああ」


「お前、おごれよ。料理長だろ」


「……ああ」


 彼はようやく、少し笑った。


 俺たちは駅の階段を、並んで上がっていった。


 雨は、まだ降っていた。


 でも、俺の背中はもう押されなかった。


 駅の外の傘立てから、忘れていた俺の傘を一本引き抜いた。


 黒いビニール傘。


 半年前からずっと、そこに置いていたものだった。


 骨が一本、折れていた。


 俺はその傘を開いた。


 骨の折れた側を、狭間の方に傾けた。


 雨が骨の折れた側に、わずかにこぼれた。


 でも、構わなかった。


 二人が一本の傘の下で、駅の前のロータリーを歩いた。


 近所の居酒屋の赤提灯が、雨の中で揺れていた。


 二人はその提灯の下をくぐった。


 カウンターの隅に、並んで座った。


 狭間が瓶ビールを、二本頼んだ。


 俺たちは長く、何も話さなかった。


 ただビールを、ゆっくり飲んだ。


 カウンターの向こうの店主が、無言でおでんを煮ていた。


 大根、卵、ちくわ、こんにゃく。


 寸胴の中の薄い茶色の汁が、ふつ、ふつ、と揺れていた。


 俺はその汁の表面の、灰汁の出方を見ていた。


 店主は時々、玉杓子で表面を撫でていた。


 慣れた手つきだった。


 俺はその手元を、長く見ていた。


 灰汁を取る人間は、業界に、たぶんまだいる。


 地下の厨房だけではなく、街角の居酒屋にもいる。


 俺はそのことに、初めて気づいた。


 灰汁を取る人間はみんな、見えないところで、たぶん世界の根をわずかに支えている。


 その夜、俺は自宅のキッチンで小さな鍋を出した。


 半年前からずっと、棚の奥にしまい込んでいた片手鍋。


 水を張り、冷蔵庫の中の鶏のガラを入れた。


 火をつけた。


 ふつ、ふつ、と表面が動き始めた。


 俺は玉杓子を握った。


 樋口さんからもらった温度計を、隣に置いた。


 灰汁が、浮き始めた。


 舐めるように剥がした。


 窓の外で、雨の音が続いていた。


 俺の手は震えなかった。


 深夜。


 誰も見ていない。


 でも、もう、俺は、自分が見ていた。


 鍋の中の液面が、ゆっくりと澄んでいった。


 琥珀色から、わずかに金色がかった色に変わっていった。


 あちらの世界で最後に五百人で焚いた寸胴の色には、まだ遠い。


 でも、確かに、俺の手はその色の方向に向かっていた。


 俺は寸胴の前で、長く息を吐いた。


 明日、辞表を撤回する。


 半年後、自分の店を開く。


 そのために、まずは、深夜のひと寸胴。


 灰汁を、舐めるように剥がす。


 それが、俺の出発点だった。


 翌朝、俺は辞表を撤回しに、ホテルに戻った。


 地下の控え室で、樋口さんが、自分のロッカーの片付けをしていた。


 樋口さんは俺の顔を見て、ふっと笑った。


「冬野」


「はい」


「お前、辞表、撤回しに来たな」


「……はい」


「うん」


 樋口さんは、ロッカーから取り出した古い前掛けを、丁寧にたたんだ。


「お前のフォン、半年後に店、開くんだろ」


「……どうしてわかるんですか」


「お前が、自分のフォンを信じる気になったって顔してるから」


「……」


「半年、ホテルで後輩、育ててから出ろ」


「はい」


「店、開いたら、最初の客、俺だぞ」


「ぜひ、お願いします」


「俺の女房も、連れてく」


「……はい」


「あいつ、お前のフォンの噂、ずっと聞いてた」


「俺、樋口さんに、噂、されてたんですか」


「お前のフォンの話だけは、家で毎晩してた」


 樋口さんはロッカーの扉を、ぱたん、と閉めた。


「うん。じゃあ、半年後、楽しみにしてるからな」


「はい」


 彼は俺の肩を、もう一度強く叩いた。


 その叩き方が十年前、新人だった俺の肩を初めて叩いたときと、同じ強さだった。

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