第二十章 透き通ったフォン
半年が、経った。
俺はホテルを正式に辞めた。
退職金と貯金のすべてを頭金にして、駅から十五分の路地裏に小さな店を借りた。
カウンター八席だけの店。
看板はない。
扉に小さな文字で、「冬野」とだけ書いた。
店の内装は、ほとんど自分でやった。
業者には、寸胴の据え付けと配管だけ頼んだ。
壁の漆喰は、自分で塗った。
テーブルとカウンターは、知り合いの大工に安く作ってもらった。
窓は、小さなものをひとつ。
日中は外光がちょうど、調理場の手元に届くように位置を決めた。
夜は低い間接照明だけで、寸胴の縁がぼんやり照らされる程度に抑えた。
誰かに見せるための店ではなかった。
誰かがたまたま見つけて、入ってくる店だった。
開店初日の客は、樋口さんとその奥さんだった。
樋口さんは開店祝いに、自分の使い込んだ玉杓子を一本置いていった。
「冬野」
「はい」
「お前、本当に自分のフォンを信じる気になったか」
「……ええ、まあ」
「言葉が弱い」
「……信じます」
「うん」
樋口さんは、満足げに頷いた。
彼の奥さんが、出されたフォンの一杯を両手で受け取った。
彼女は一口含み、目を閉じた。
「ああ……」
長い溜め息をついた。
「これ、引退記念に、毎日、飲みたいやつね」
樋口さんは、奥さんの肩をぽん、と叩いた。
二人はその夜、長く店にいた。
二人が帰ったあと、俺は樋口さんの置いていった玉杓子を、店の壁の棚に立てかけた。
棚の隣には、もうひとつ別の玉杓子があった。
あちらの世界でクラウスが俺に渡した、銅製の玉杓子。
二本の玉杓子が、店の小さな棚の上で並んでいた。
地球と、あちらの世界。
四十年の重み。
俺が毎晩、灰汁を取るときに一度、視界の端に入る場所だった。
不思議なことに、二本の玉杓子は形がほとんど同じだった。
長さも、握りの太さも、縁の角度も、ほぼ同じ。
異なる世界の、それぞれ違う鍛冶屋が、それぞれの三十年と十年の間に辿り着いた形がほぼ同じ、ということが、俺には不思議だった。
でも、よく考えれば、当たり前だった。
灰汁を舐めるように剥がす道具の、いちばん効率の良い形は、たぶん世界が違っても、一つに収束する。
効率、という単語が、こうして別の意味でここで使われていた。
ハザムの「効率」と、玉杓子の「効率」。
形は同じでも、中身はまったく違う。
俺は寸胴の前で、もう孤独ではなかった。
誰も見ていない、ということに、もうこだわらなくなっていた。
半月後、狭間が夜遅くに店に来た。
彼はホテルの料理長を、まだ続けていた。
でも、SNSの更新を減らしていた。
代わりに、地下の厨房で灰汁取りの当番に、自ら入っているらしかった。
「冬野」
「うん」
「俺の店で、お前のフォン、出してもいいか」
「……何の話だ」
「お前のフォンを、ホテルで再現したい」
「無理だろ」
「無理だな」
彼は、苦笑した。
「だから、お前のとこから、毎朝買う」
「……俺、商売、苦手だぞ」
「俺が計算する」
「……」
「お前は煮るだけ、でいい」
俺は玉杓子の柄を握り直した。
「歩留まりは」
「お前の言い値で買う」
「……」
「俺が、表で売る」
「狭間」
「うん」
「お前、効率、好きだったよな」
「うん」
「これは、効率、いいのか」
「最悪だ」
彼は笑った。
「でも、俺が選んだ」
俺は長く、彼を見ていた。
あちらの世界で寸胴の前で泣いていた狭間と、こちらの狭間は、もう別の人間だった。
別の人間として、お互いに選び直した。
それでいい、と思った。
契約書には、二人の名前が並んだ。
契約書のいちばん下に、樋口さんが立会人として署名してくれた。
樋口さんは署名のあと、こちらを見て、ふっと笑った。
「お前ら、最初から、こうすればよかったんだ」
「……はい」
「もったいない十年だった、ということじゃない」
「……」
「十年あったから、こういう契約が書ける」
樋口さんは、署名のペンを自分のポケットにしまった。
「ペン、もらってくぞ」
「あ、はい」
「うん」
樋口さんは、店を出て行った。
扉の閉まる音が、いつもの低い音だった。
その夜、俺は店を閉めたあと、地下の小さな厨房に降りた。
寸胴は、業務用のものに入れ替えていた。
火を入れた。
午前二時。
いつもの時刻。
灰汁が、浮いてきた。
玉杓子で、撫でるように剥がした。
舐めるように、剥がした。
厨房の片隅で、若いコミが俺の手元を見ていた。
二十二歳。三ヶ月前に入った新人だった。
彼は料理学校を出たばかりで、まだどこにも馴染めていなかった。
俺の店に来た最初の日、彼は緊張のあまり、自分の名前を二度言い間違えた。
「店長」
「うん」
「灰汁、もっと急いだ方が、効率いいんじゃないですか」
俺は玉杓子を止めた。
若いコミの方を振り向いた。
俺の口元が、ふっと緩んだ。
あちらの世界でロザリエ王女に教えたときと、同じ言葉を言った。
「灰汁は、急ぐな」
「……はい?」
「吸い取らない。撫でる。舐める」
「は、はい」
俺は玉杓子を、彼に渡した。
「やってみろ」
若いコミは玉杓子を握った。
最初の一回は力みすぎて、底のゼラチン層が舞った。
二回目は、力が抜けすぎて灰汁を逃した。
三回目で、彼はようやく灰汁の膜だけを剥がした。
俺は頷いた。
「上出来だ」
「あ、ありがとう、ございます」
彼の手はまだ、少し震えていた。
でも、十年経てば、震えなくなる。
たぶん二十年経てば、世界の根を支えられる。
俺は彼に玉杓子を預けたまま、自分は寸胴の縁を一周した。
火加減を確認した。
水の量を確認した。
骨の浮き方を確認した。
すべて、問題なかった。
彼が、灰汁を取り続けていた。
ふと、彼の動きが止まった。
「店長」
「うん」
「これ、ずっと続けるんですか」
「うん」
「俺、いまの動き、ちゃんとできるようになりますかね」
「なる」
「いつ」
「十年」
彼は、笑った。
「長いっすね」
「俺は十年、これを誰にも見られずにやってきた」
「……」
「お前は見られているから、たぶんもっと早い」
「……」
「俺の隣で、やる気だろ」
「はい」
彼は頷いて、また玉杓子を握り直した。
扉の方で、足音がした。
顔を上げると、狭間が降りてきていた。
白いコックコート。
彼はホテルから直接来たらしかった。
俺はもう一本の玉杓子を、彼に差し出した。
彼は、無言で受け取った。
寸胴の縁に立った。
俺の対角線の位置に。
二人で、四隅から灰汁を取り始めた。
四隅、と言ったが、実際は対角線の二点だ。
でも、二人で取ると、寸胴の四方の灰汁がすべて、均等に取れる。
不思議な話だが、二人で立っている人間の手は、表面の四隅まで目が届く。
一人だと、どうしても、玉杓子の届かない死角ができる。
二人だと、それが消える。
あちらの世界でロザリエ王女と並んで取ったときも、同じだった。
樋口さんと並んで取ったときも、同じだった。
灰汁取りは、本来、二人組の作業だった。
俺は十年、一人で取らされていた。
今夜から、二人で取れる。
寸胴の中の液面に、二人の顔が並んで映っていた。
あちらの世界の最後の場面と、ほとんど同じ構図だった。
でもこちらでは、地下の厨房の蛍光灯の下に、ふたつの影が並んでいた。
深い金色の液面に、二人の顔が揺れずに映っていた。
遠くから、雨の音が聞こえた気がした。
たぶん、こちらの世界の雨。
でも、俺はもう駅のホームに立っていなかった。
寸胴の前に立っていた。
樋口さんの温度計が、棚の上からこちらを見ていた。
マリエルさんの香味野菜の種は、店の裏の小さな鉢で芽を出していた。
クラウスの銅の玉杓子は、棚に丁寧に立てかけられていた。
あちらの世界の九人の顔は、いま、店のどこにもいない。
でも、俺の手の動きの中に、九人の動きがたぶん薄く混じっている。
ロザリエ王女の薪の組み方。
マリエルさんの、香味野菜の土の落とし方。
クラウスの、玉杓子の表面の触れさせ方。
九人それぞれの動きの一部が、いま、俺の手に残っている。
動きは、人を覚えている。
覚えた動きはたぶん、消えない。
俺は玉杓子を表面に触れさせた。
舐めるように、剥がした。
誰も見ていない、深夜のいつもの作業。
でも、その作業の向こう側で、五百人の手がたぶん、まだ灰汁を取っていた。
あちらの世界でもロザリエ王女とクラウスと見習いの少女たちが、毎晩、寸胴の前に立っているはずだった。
二つの世界の寸胴が、いま、同時に動いていた。
たぶん、それで世界はまわっている。
俺の十年は、無駄じゃなかった。
俺はそれを、自分で頷いた。
寸胴の中の液面が、ゆっくりと澄んでいった。
琥珀色から、深い金色へ。
いつかの夜、目の錯覚だと思ったあの色に。
今夜は、はっきりとそれがある。
灰汁は、急がない。
撫でるように、舐めるように、剥がす。
それだけで、いい。
それだけで、世界の何かはたぶん、まだまわっている。
寸胴の縁の対角線の向こう側に、狭間が立っていた。
俺の左隣には、若いコミが立っていた。
三人で、四隅から灰汁を取り続けていた。
扉の方で、もう一つ足音がした。
顔を上げると、樋口さんが降りてきていた。
彼は退職した身だった。
でも、店の合鍵を、俺は開店初日に渡していた。
「いつでも、来てください」と。
樋口さんは降りてきて、寸胴の前に立った。
俺は無言で、もう一本玉杓子を差し出した。
樋口さんはそれを、両手で受け取った。
四人で、寸胴の縁に立った。
地下の蛍光灯の下で、四つの影が、寸胴の表面に並んで映っていた。
四人の手がそれぞれ、灰汁の膜を撫でるように、舐めるように、剥がした。
寸胴の中の液面が、深い、深い金色に染まっていった。
窓のない、地下の店。
誰もここを覗かない。
誰も、撮影しない。
誰も、SNSに書かない。
でも、四人の手がいま、確かに世界の根を、ひと匙ずつ澄ませていた。
俺の十年は、無駄じゃなかった。
俺の十年は、これからもう誰の十年でもなかった。
俺たちみんなの、十年だった。
灰汁は、急がない。
撫でるように、舐めるように、剥がす。
地味な手の動きが、たぶん世界の根をまだ支えている。
誰にも見られない夜にも。
誰にも見られない夜にこそ。
それだけで、いい。
了




