第十八章 別れの晩餐
その夜、王都の城の大広間に、長机が一本置かれた。
長机の上には、一人につき、白い陶器の椀がひとつだけ。
椀の中には、最後に引いたフォンが、ひと匙ずつ入っていた。
集まったのは、寸胴の縁に立った主要な焚き手たち。
ロザリエ王女、クラウス、聖職者の長老、見習いの少女、貴族の若者、宿屋のマリエルさん、村の長老、そして狭間と、セルナ。
大広間の天井には、長い鉄製のシャンデリアが下がっていた。
千年前から王宮で使われてきた、古い燭台。
そのすべての蝋燭に、今夜は火が灯されていた。
長机の中央には、白い、小さな花が一輪置かれていた。
花の名前を、俺は知らなかった。
マリエルさんが村の自分の宿の庭から摘んできた花、ということだけを、俺は聞いていた。
セルナは車椅子で、長机の中央に着いていた。
ロザリエ王女が、最初に口を開いた。
「冬野殿、これは祝賀ではありません」
「はい」
「送別です」
俺は長く、テーブルを見ていた。
大広間の高い窓から、月の光が差し込んでいた。
月の光は、地球で見る月と形がまったく同じだった。
「セルナさんから、お話があるのでしょう」
「はい」
セルナが車椅子の中で、俺の方を見た。
「冬野さん。今夜、私の力がだいぶ戻ってきました」
「……はい」
「もう、あなたを元の世界にお返しできます」
長机の周りで、誰も言葉を発しなかった。
マリエルさんが、口元を押さえていた。
ロザリエ王女が、俯いていた。
クラウスが、目を閉じていた。
俺は椀の中の、フォンの表面を見ていた。
金色の液面に、自分の顔がぼんやりと映っていた。
「俺は、戻れるんですか」
「戻れます」
「戻らない、選択もできますか」
「できます」
「……」
「でも」
セルナの声が、少し震えていた。
「あなたの世界に、まだ終わっていない仕事があります」
俺は玉杓子を握り直した。
駅のホームの雨音が、頭の中でゆっくりと戻ってきた。
「……あの背中を、もう一度、立て直してこい、ってことですか」
「ええ」
俺は長く頷いた。
マリエルさんが、ハンカチで目を押さえながら立ち上がった。
「冬野さん、これ、持っていってよ」
彼女は小さな麻の袋を、俺の手に押し付けた。
「香味野菜の種だよ。あんたの世界でも、たぶん育つ」
「……ありがとうございます」
「あんたが最初にうちで引いたフォンは、私の母さんが死ぬ前に、飲ませたかったやつだったよ」
彼女の目から、涙がぽろぽろと落ちた。
「ありがとう」
俺は頭を下げた。
言葉が出てこなかった。
マリエルさんは、自分の前掛けで目元を何度も拭いた。
彼女は俺の手を、両手で握った。
「あんた、向こうで店、開きな」
「……」
「絶対、開きな」
「……はい」
「うちの宿、あんたがいつ来てもいいように、いちばん日当たりのいい部屋を空けとくよ」
「……」
「いつでも、戻ってきな」
「ありがとうございます」
彼女は涙を浮かべたまま、ふっと笑った。
「ばあちゃんに、伝えとくよ」
「……何を、ですか」
「あんたが、来てくれたって」
俺は頭を深く下げた。
次に、村の長老が立ち上がった。
「冬野殿の引いたフォンは、私たちの村に十年分の力を与えてくださった」
「……」
「お元気で」
クラウスが、立ち上がった。
「お主に、二番手をやらせてもらった夜のことは、生涯忘れぬ」
彼は深く頭を下げた。
弟子たちと共に、四人の二番手の弟子が、自分の前掛けをたたんで長机の上に置いた。
「お主の弟子になれず、惜しかった」
「……俺、そんな器じゃないですよ」
「お主の十年は、人の三十年と等しい、と最初に言うた」
「……」
「変わりはない」
クラウスは自分の腰から、使い込んだ銅の玉杓子を外した。
三十年、彼が使ってきた、たぶん世界でいちばん古い玉杓子。
彼はそれを、両手で俺に差し出した。
「これは、わしの三十年だ」
「……いただけません」
「お主の十年に、足してくれ」
彼の声は、低く震えていた。
「わしの三十年と、お主の十年で、四十年だ」
「……」
「四十年あれば、世界の根は、もう濁らぬ」
俺はしばらく、その玉杓子を見ていた。
受け取らないわけには、いかなかった。
受け取ることが、彼の三十年を認める唯一の方法だった。
俺は両手で、それを受け取った。
「ありがとうございます」
「持って、帰れ」
「はい」
「お主の世界でも、灰汁は出るだろう」
「出ます」
「ならば、必要だ」
彼は深く頷いた。
彼の目に涙が浮かんでいるのを、俺は初めて見た。
大陸最強の料理長が、ただの一本の玉杓子のために、涙を流していた。
その涙の意味を、俺はたぶん十年後、もっと深く理解する。
ロザリエ王女が、立ち上がった。
彼女の手には、長柄の玉杓子が握られていた。
「冬野殿。これを、あなたにお返しします」
彼女は玉杓子を、俺の方に差し出した。
「私はもう、あなたの教えを覚えました」
「……」
「あなたがいなくても、私は灰汁を取れます」
彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「あなたの世界でも、灰汁を取り続けてください」
「はい」
「もしまた、世界が濁ったら」
「呼んでください」
「呼びません」
ロザリエ王女は、少し笑った。
「もう、私たちで煮ます」
俺は深く頭を下げた。
彼女は自分の指を、玉杓子の柄の跡に当てた。
彼女の手のひらにも、すでにわずかな跡がついていた。
六日と七日で、彼女の手のひらに跡がついていた。
俺の十年と、彼女の七日。
時間の量は違っていた。
でも、跡の深さはたぶん同じだった。
地味な作業を率先してやる人間の手のひらにだけ、つく跡。
それは十年でも七日でも、つく人にはつく跡だった。
俺はそのことを、もう知っていた。
最後に、狭間が立ち上がった。
彼は俺の方を、長く見ていた。
「冬野」
「うん」
「あの夜は、本当に悪かった」
「うん」
「俺、こっちに残るわ」
「……」
「効率の魔将ハザムだった俺の、罪滅ぼしの仕方を、こっちで考える」
「うん」
「お前のフォン、こっちでもう少し勉強する」
「クラウスさんに、頼んでみろよ」
「もう、頼んだ」
彼は少し笑った。
「片膝、ついた」
俺は深く頷いた。
「狭間」
「うん」
「灰汁は、急ぐな」
彼は声を出さずに笑った。
涙が、彼の頬を伝っていた。
最後に、セルナが車椅子から立ち上がろうとした。
俺は彼女の前にしゃがんで、目を合わせた。
「セルナさん、無理しないで」
「冬野さん」
「はい」
彼女は両手を伸ばした。
俺の額に、彼女の唇が触れた。
「あなたの寸胴は、こちらでもまだ煮えています」
「……はい」
「いつか、味見に戻ってきてください」
「はい」
彼女はしばらく、俺の顔を両手で包んでいた。
彼女の手のひらの温度が、最初に出会ったときと同じ、薄い暖かさに戻っていた。
森の中で、俺の手を握ったときの、あの寒い朝のスープの椀のような温度。
円が、もう一度閉じた。
「冬野さん」
「はい」
「あなたがこちらで残してくれたものは、私の中でずっと煮えています」
「……はい」
「だから、寂しくないです」
俺は頷いた。
頷くことしか、できなかった。
彼女は最後に、俺の額にもう一度、唇を触れさせた。
次の瞬間、彼女の手のひらから、淡い金色の光が漏れた。
光は俺の足元に、ゆっくりと広がっていった。
その光は、俺がこの世界に来た日、彼女が森で組んだ両手から漏れていた光と同じ色だった。
円が閉じる。
始まりの色と、終わりの色が揃う。
光が俺の体を、すうっ、と包んだ。
大広間の長机の周りで、九人の顔が、それぞれ笑っていた。
涙を浮かべながら、笑っていた。
マリエルさんが、ハンカチで目を覆っていた。
ロザリエ王女が、俺の方に玉杓子を、両手で捧げ持っていた。
クラウスが、深く頭を下げていた。
狭間が、寸胴の縁の方角を見ていた。
彼は、この世界に残る。
地球に戻る俺と、ここに残る狭間。
ふたりで、ふたつの世界の根を、これから、たぶん支える。
俺は最後に、深く頭を下げた。
光が、強くなった。
強くなって、何も見えなくなった。
最後に聞こえたのは、ロザリエ王女の震える声だった。
「冬野殿、灰汁は、急ぐな」




