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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第十七章 真のフォン

火を入れて七日目の朝。


 寸胴の中の液面は、これまで誰も見たことのない、深い、深い金色になっていた。


 空気が、王都だけでなく近隣の村々まで澄んでいた。


 北方からの黒い湯気の柱が、最後の一本になっていた。


 ハザムの軍は、王都の城壁の前で武装を解き、地面に座り込んでいた。


 彼らの「効率の壺」は、誰一人投げなかった。


 壺は、王都の門の前に、五千個、整然と並べられていた。


 誰も命じていなかった。


 兵たちは、ただこちらの寸胴の縁に、自分たちの将がいるのを見ていた。


 寸胴の縁では、俺と、クラウスと、ロザリエ王女と、狭間が並んで灰汁を取っていた。


 四人で、表面の四隅を同時に、撫でるように、舐めるように、剥がしていた。


 灰汁は、もうほとんど出ていなかった。


 最後の一掬いを、俺は自分の玉杓子で受けた。


 白い陶器の椀に、注いだ。


「最後の一杯です」


 俺はロザリエ王女に、椀を差し出した。


 王女は両手で椀を受け取った。


「これを、世界の中央祭壇に注ぎます」


 王都の中央祭壇は、寸胴の真横にあった。


 古代から、世界の根――フォン――に直接繋がっていると言われる、白い石の窪みだった。


 窪みの底には、千年前から薄い、微かな水溜まりが絶えず湧き出ていた。


 その水はもう千年、濁ったままだった。


 誰も、それを飲もうとはしなかった。


 飲んでも、生命の力にならない。


 それを承知の上で、聖職者たちは毎日、その窪みの前で祈っていた。


 いつか誰かが、本物のフォンをここに注ぐ日のために。


 ロザリエ王女は椀の中身を、そっと注いだ。


 金色の液体が、窪みに吸い込まれていった。


 吸い込まれていく速度が、最初はゆっくりだった。


 でも半分ほど注ぎ終えた頃には、窪みが自らそれを待ち望んでいたかのように、勢いよく吸い込み始めた。


 窪みの底の、千年濁っていた水が、深い金色の液体に押し流されて消えた。


 次の瞬間、王都全体が、一瞬、金色に輝いた。


 北方の、最後の黒い湯気の柱が、すうっ、と消えた。


 空気が軽くなった。


 空が、ふっ、と高くなった。


 王都の鐘が、自然に鳴り始めた。


 誰も撞いていなかった。


 風が鐘を揺らしていた。


 城の医務室の窓から、セルナが、はっきりと目を開けた。


 彼女は自分の指先を、ゆっくりと見た。


 灰色から薄い金色に戻りかけていた指先が、ふっと本来の色に戻った。


 彼女は寝台の上で長く息を吐いた。


 長く長く、吐き続けた。


 そして初めて、声を出して笑った。


 その笑い声が、医務室の壁を、廊下を、城の階段を伝って、中央広場まで届いたような気がした。


 寸胴の前で、俺はその笑い声を確かに聞いた。


 寸胴の前で、五百人の焚き手が、無言で立ち尽くしていた。


 誰も、歓声を上げなかった。


 代わりに、全員が長く、深く息を吐いた。


 六日と七日の間、ずっと息を詰めていたかのような、深い吐息だった。


 ロザリエ王女が、俺の方を振り向いた。


 彼女の目に、涙が浮かんでいた。


「冬野殿」


「はい」


「世界が……澄みました」


 俺は玉杓子を、寸胴の縁に置いた。


 長く握り続けた手のひらに、玉杓子の柄の跡が深く残っていた。


 その手の跡を、俺はしばらく見ていた。


 十年分の跡だった。


 樋口さんの手にも、同じ跡があった。


 古参のシェフの手は、たいてい、玉杓子の柄の形に皮膚がわずかに変形していた。


 それは料理学校では、教えてくれない種類の「証」だった。


 誰にも見られないところで、手のひらに十年、玉杓子を握り続けた人間にだけ現れる跡。


 いま、俺の手に、その跡がはっきりと残っていた。


 俺はもう、これを誰かに隠す必要はなかった。


 城の医師が、駆け込んできた。


「セルナ様が、目を開けました!」


 俺は寸胴の縁を離れた。


 城の医務室まで走った。


 寝台の上で、セルナが薄く目を開けていた。


 彼女の指先の色が、薄い灰色から再び薄い金色に戻りかけていた。


 まだ完全ではなかった。


 でも、生きていた。


 はっきりと、生きていた。


「冬野さん」


 彼女の声は、まだ空気のように細かった。


「あなた、やったんですね」


「俺一人じゃない」


「ええ、知っています」


 彼女は少し笑った。


「五百人の手が、ここまで届きました」


「セルナさん、もう少し休んでください」


「もう少しだけ、休みます」


 彼女はゆっくりと目を閉じた。


 寝息が、すぐに聞こえた。


 俺は彼女の手を、長く握っていた。


 手のひらの温度が、徐々に戻ってきていた。


 しばらくして、医務室の扉の方から小さな足音がした。


 ロザリエ王女だった。


 彼女は寝台の脇に椅子を引き寄せて、座った。


 長く、セルナの寝顔を見ていた。


「冬野殿」


「はい」


「私、この子の代わりに薪をくべる係になれて、本当によかったです」


「はい」


「私、王女として、長く何もできずにいました」


「……」


「父の病を止められず、北方の村を守れず、聖職者の祈りも効かない」


「……」


「でも、薪の角度を合わせることだけは、できた」


 彼女の目に、涙が浮かんでいた。


「あなたが、それを私にくれた」


 俺はゆっくりと首を振った。


「俺は、ただ薪が必要だっただけです」


「ええ、知っています」


「でも、ありがとう」


「いえ」


「もう少し、ここにいていいですか」


「はい」


 俺はロザリエ王女に、椅子をひとつ譲った。


 二人で、セルナの寝顔を長く見ていた。


 窓の外で、王都の鐘が今日も自然に鳴っていた。


 その鐘の音はこれから、毎朝、毎夕、自然に鳴ることになる、と聖職者の長老が後で教えてくれた。


 千年の間、誰かが撞かなければ鳴らなかった鐘が、世界の根が澄んだ瞬間から、自分の意志で鳴るようになった。


 風で揺れる鐘ではなかった。


 世界の根の脈拍に共鳴して、鳴る鐘だった。


 その鐘の音を、俺は医務室の窓から長く聞いていた。

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