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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第十六章 狭間という男

狭間は、しばらく玉杓子を見ていた。


 俺は寸胴の中から新しい一杯を、白い椀に注いで彼に渡した。


「飲めよ」


「……毒は」


「俺が毒を入れる、と思うのか」


「お前、俺のこと、嫌いだろ」


「うん、嫌いだ」


 俺は率直に答えた。


「でも、毒は入れない」


 狭間は、椀を受け取った。


 手が、わずかに震えていた。


 彼は椀を口元に運んだ。


 ためらった。


 ためらってから、一口含んだ。


 飲み込んだ。


 もう一口、含んだ。


 彼の手から、椀がゆっくりと落ちた。


 石畳の上で、椀が欠けることなく、コロコロと転がった。


 狭間は自分の口元を、手の甲で押さえた。


 彼の目から、涙がぽろぽろとこぼれていた。


 大柄な男が、寸胴の前で子供のように泣いていた。


 ロザリエ王女が、息を呑んだ。


 クラウスが玉杓子を握ったまま、目を細めた。


 五百人の焚き手が、無言で彼を見ていた。


「冬野」


 狭間の声は震えていた。


「お前、これ、毎日、引いてたのか」


「ああ」


「この味を、毎日……」


 彼は両手で顔を覆った。


「俺、お前の、フォンが、嫌いだったんだよ」


 彼の声は、嗚咽の合間に漏れていた。


「お前のフォンを隣で見てると、俺の手が急に、安っぽく見えるんだよ」


 俺は何も言わなかった。


 彼の声が、雨の駅のホームの音と重なっていた。


「お前のフォンの存在を認めると、俺がやってきた効率化が、全部、嘘になる」


「……」


「効率化って、要するに、お前の灰汁取りを無視することだろ」


「……」


「俺は十年、お前を無視するためだけに、効率を追ってきた」


「……」


「それで、SNSに、表紙に、テレビに、出てきた」


「……」


「気づいたら、料理長になってた」


「……」


「料理長になっても、お前のフォンが嫌いなままだった」


 彼の手の甲が、涙で濡れていた。


 寸胴の中の液面に、彼の涙は落ちなかった。


 彼は、最後の一線を踏まなかった。


「俺、表に出るのが得意だっただろ」


「……ああ」


「それで、なんとか自分を保ってきた」


「……」


「でも、深夜、お前が一人で寸胴の前にいる時間が、いつも頭の中にあったんだよ」


「……」


「お前を見ないと、俺が、自分の手の何が安っぽいか、分からなかった」


「……」


「だから、押した」


 俺は玉杓子を握り直した。


「あの夜、駅のホームで、俺が、お前の背中を押した」


 雨の音が、頭の中でもう一度、聞こえた。


「気がついたら、俺もこっち側に飛ばされてた」


 狭間は、寸胴の縁に両手をついていた。


「で、こっちで、また、効率効率って、同じことやってた」


 俺は長く、彼を見ていた。


 彼の言葉を、頭の中でゆっくりと繰り返していた。


 彼は駅のホームで、俺を押した。


 でも押した直後、彼自身もこちら側に飛ばされてきた。


 そしてこちらで、ほぼ同じ役割をもう一度、選んだ。


 「効率」を看板にする男。


 俺の灰汁取りを、無視する側に回る男。


 駅のホームで一度、線路の側に押した相手。


 その相手の背中を、こちらの世界でもう一度、無視する。


 その繰り返しが、彼を追い詰めていた。


 彼は知らないうちに、自分自身を何度も押していた。


 怒りは出てこなかった。


 代わりに、樋口さんの声が、頭の中に響いた。


『お前のフォンは、命だ』


「狭間」


 俺は寸胴のもう一つの玉杓子を、彼に差し出した。


「灰汁、取るか」


 狭間の手が止まった。


 彼は、俺の手の中の玉杓子をしばらく見ていた。


 それから、震える手でそれを受け取った。


 受け取るとき、彼の手の甲が、俺の手の甲に軽く触れた。


 その触れ方が不思議と、地下の厨房で十年前に新人だった頃の、彼の手の感触と同じだった。


 まだ、手が固まっていなかった頃の、彼の手。


 まだ、表に出ようとはしていなかった頃の、彼の手。


 彼は、寸胴の縁に立った。


 俺の対角線の位置に。


 クラウスが、対角の片方を譲った。


 ロザリエ王女が、寸胴の縁の四つ目の位置に自分から立った。


 四方からの灰汁取りが揃った。


 四人の手がそれぞれ、表面に「触れた」。


 舐めるように、剥がした。


 寸胴の中の液面が、一瞬でもう一段、深い金色になった。


 桟敷席の貴族が、また一人、息を呑んだ。


 あの黒衣の魔将が、寸胴の縁で灰汁を取っている。


 昨日まで王都を脅かしていた、本人が。


 誰も口を開かなかった。


 誰も、彼を責めなかった。


 寸胴の縁では、過去は関係なかった。


 いま、表面の灰汁が誰の手で、どう剥がされるか。


 それだけが、問題だった。


 狭間は玉杓子を、表面に「触れさせた」。


 舐めるように、剥がそうとした。


 最初は力みすぎて、底のゼラチン層が舞った。


 二回目は、力が抜けすぎて灰汁を逃した。


 三回目で、彼はようやく灰汁の膜だけを剥がした。


 彼の手が、震えていた。


 涙が寸胴の中に落ちないように、彼は横を向いてこぼした。


「冬野」


「うん」


「ごめん」


「うん」


 俺はそれ以上、何も言わなかった。


 寸胴の中の液面は、彼の涙の塩分もゆっくりと受け止めて、澄み続けていた。


 寸胴の縁を一周して、火床の脇まで戻った。


 火床の薪を、貴族の若者が二時間ぶりに組み替えた。


 組み替えた瞬間、火がわずかに強くなった。


 寸胴の表面で、灰汁の出方がぴたり、と整った。


 俺は玉杓子の柄を握り直した。


 狭間も玉杓子を握り直した。


 ロザリエ王女も玉杓子を握り直した。


 クラウスも玉杓子を握り直した。


 四方からの灰汁取りが、再び揃った。


 寸胴の中の液面が、いまだかつて誰も見たことのない深さの金色に染まり始めた。

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