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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第十五章 焚火の七日間

火を入れて四日目の夜、北方の前線が崩れたという報告が入った。


 ハザムが、自ら王都に向かって進軍を始めた、と。


 軍は、五千。


 各兵が、インスタント・フォンの濃縮液を壺に詰めて持っているという。


 壺を寸胴に投げ込まれれば、四日かけて澄ませた液面は、一瞬で毒の湯になる。


 ロザリエ王女が急いで防衛策を協議しようとしたが、俺は首を振った。


「王女様、軍は向かわせないでください」


「冬野殿、それでは王都が……」


「軍を出すと、寸胴の薪が一本減ります」


 俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「焚き手は、一人も欠いてはいけません」


「でも、ハザムが来てしまえば」


「来させて、いいです」


 俺は寸胴の縁に手をついた。


「直接、相手をします」


 ロザリエ王女は、俺を長く見ていた。


 彼女の頬が、わずかにこわばっていた。


 彼女は王女として、これまで何度も軍の出撃命令を出してきた。


 軍の出撃命令を取り消した経験は、たぶんこの世界の歴史の中で、彼女が最初だった。


「冬野殿」


「はい」


「ひとつだけ、約束してください」


「なんでしょう」


「直接、相手をする、というのは」


「……」


「殴り合いを、するのではないでしょう」


「殴り合いは、しません」


「では、何を」


「飲ませます」


 彼女は、しばらく俺の顔を見ていた。


 やがてふっ、と息を吐いた。


「分かりました」


 彼女は深く頷き、軍の出撃命令を取り消した。


 火を入れて五日目。


 寸胴の中の液面は、薄黄色から深い金色に変わっていた。


 灰汁の出方が変わった。


 大きな塊から、薄い膜状になった。


 膜の質も、地球で見ていた灰汁と少し違っていた。


 地球の灰汁は剥がしたあと、玉杓子の縁にすぐ、ぼろぼろと固まっていた。


 こちらの灰汁は剥がした瞬間、空気に触れてふっと消える。


 まるで、世界の不純物そのものが人の手で剥がされた瞬間に、自然へ戻るような動き。


 俺はその消え方を見ていた。


 樋口さんに見せたかった。


 樋口さんなら、たぶんこう言うだろう。


『お前、灰汁の消え方まで覚えてくるんじゃないぞ』


 その軽口が、頭の中で響いた。


 俺と、クラウス、ロザリエ王女、見習いの少女たち、貴族の若者、聖職者の長老。


 寸胴の縁では、ずっと誰かが玉杓子を動かしていた。


 二時間交代で、夜も昼もなく灰汁を取り続けていた。


 五日目の深夜、俺は玉杓子を、見習いの少女に渡した。


 彼女は緊張した顔で、それを受け取った。


「冬野殿、私、本当にいいんですか」


「うん」


「失敗、しないですか」


「失敗、するよ」


 俺は少し笑った。


「失敗しても、大丈夫」


「……」


「俺が隣で見てる」


 彼女はゆっくりと頷いた。


 最初の一掬いは力みすぎて、底のゼラチンが舞った。


 二掬い目は、力が抜けすぎていた。


 三掬い目で、彼女の手はやっと灰汁の膜だけを剥がした。


 俺は頷いた。


「上手い」


「……」


「もう、俺、ちょっと横で休む」


「冬野殿、本当に?」


「うん、二時間、お願い」


 俺は寸胴の縁から半歩離れた。


 彼女は玉杓子を握り直して、表面に向かった。


 俺は寸胴の縁から、彼女の手元を見ていた。


 最初の十分は、緊張で肩が強張っていた。


 次の十分で、肩の力が抜けた。


 三十分目には、彼女の手はもう、俺の手とほぼ同じ動きをしていた。


 俺は安心して、寸胴の縁の休憩用の椅子に座った。


 二時間後、彼女から玉杓子を受け取った。


 彼女の手のひらに、玉杓子の柄の跡がわずかに残っていた。


 二時間で、その跡がつく。


 夜中、俺は仮眠の合間に、寸胴の縁をぐるりと一周した。


 火床の薪の組み方を、一本ずつ確認した。


 火が偏れば、寸胴の片側だけが煮立って、すべてが台無しになる。


 偏りは、なかった。


 貴族の若者が、二時間ごとに薪の角度を調整していた。


 彼の手は最初の日と比べて、明らかに慣れていた。


 火の前に立った人間は、たった三日で別人になる。


 俺はそのことを、十年で何度か見てきた。


 香味野菜の列では、見習いの少女たちが大きな樽の前で、無言で皮を剥いていた。


 いや、皮は剥かない。


 俺の指示は、皮はそのまま、土だけを丁寧に落とすこと。


 彼女たちは、その指示を忠実に守っていた。


 樽の中で、玉ねぎがふっくらと、土だけを落とされて待っていた。


 貯水槽の脇では、計量係が銅の量り棒を握って立っていた。


 水の補充量に、ひと寸の狂いも出していなかった。


 水の量がずれると、フォンの濃度がずれる。


 濃度がずれると、世界の根への効きが変わる。


 彼らはそのすべてを、何度も俺に確認しながら、自分の役割をまっとうしていた。


 六日目の昼、北の街道に黒い旗を立てた騎馬隊が現れた。


 五千。


 予告通りの軍勢。


 彼らは王都の城壁の前で停止し、こちらに使者を立てた。


 使者は城門の前で声を張り上げた。


「冬野殿に、面会を求める。我が将ハザム殿、単独での会見を希望する」


 会見の条件は、寸胴の前。


 兵は連れない。


 壺も持たない。


 ハザム一人で、寸胴の縁に来る、と。


 ロザリエ王女が、俺の隣で警戒の表情を浮かべた。


「罠です、冬野殿」


「分かっています」


「でも、応じます」


「なぜ」


「彼に、飲んでもらいたいものがあります」


 ロザリエ王女は、俺を長く見ていた。


 彼女は深く頷いた。


「分かりました。私たちは、玉杓子を握ります」


 六日目の夕暮れ、王都の中央広場に、黒衣の男が一人で歩いてきた。


 兵は城門の前で待機していた。


 彼の歩く石畳の音だけが、広場の中央に響いていた。


 石畳の上の、ぱつ、ぱつ、という革靴の音。


 その音を、俺は知っていた。


 地下の厨房で、深夜の見回りに来る主任の靴音と似ていた。


 でもこちらの方が、足の運びがわずかに重かった。


 兜の面頬を、自分で外した。


 その下から現れた顔を、俺は見た。


 狭間優生だった。


 会議室の冷えた蛍光灯の下で見たのと、同じ顔だった。


「久しぶり、冬野」


 彼は薄く笑っていた。


「お前、こっちにも来てたんだな」


 俺は玉杓子を握ったまま、彼を見ていた。


 あの夜、駅のホームで俺の背中を押したのが彼だった、ということが、いま、はっきりと繋がった。


 彼は自分が押した直後、たぶん、自分自身も線路に落ちたのだ。


 あるいは、あちらの世界の何かが彼をこちらに引きずってきた。


 俺たちは雨の駅のホームで、ふたりでこちら側に墜ちていた。


 彼は寸胴の縁を見て、それから火床の周りの五百人を見回した。


「相変わらず、地味なことしてんなあ、お前」


「……」


「お前のその灰汁取り、見るたびに、なんか、こっちまでイライラするんだよ、昔から」


 彼は寸胴の縁に、両手を置いた。


 黒い手袋が、青銅の表面に跡を残した。


「俺はさあ、こういうの、無駄だと思ってんのよ」


「そう」


「冷凍ブイヨンで、十分なんだって」


 俺は寸胴の中の液面を見つめていた。


 澄んだ金色が、揺れていた。


 六日かけて、五百人の手でようやく澄ませた液面だった。


「狭間」


 俺は玉杓子を、彼の方に差し出した。


「飲んでみろよ」


 狭間が、こちらを見た。


 彼の顔から、笑みがわずかに消えた。

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