表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/20

第十四章 王都の大寸胴

火を入れて二日目。


 王都の空気が、すでに変わり始めていた。


 病に伏せていた老人が、街路に出て、空を見ていた。


 乳児が、よく眠るようになった、と母親たちが涙を流していた。


 市場の魚屋では、いつもより魚の鮮度が長持ちするようになった、と女将が驚いていた。


 パン屋の発酵が、いつもより半時間早く済んだ、とパン職人が首を傾げていた。


 目に見える変化は、いずれも些細だった。


 でも、些細な変化が王都中のあらゆる場所で、同時に起きていた。


 寸胴の周りでは、五百人が寝ずに、それぞれの持ち場を守っていた。


 二日目の昼、城門の方から騒ぎが聞こえた。


 黒い長衣の一団が、王都に乗り込んできていた。


 ハザムの軍ではない。


 大陸最強と謳われる、料理長クラウスの一団だった。


 クラウスは、三十年前から大陸南部の宮廷を支えてきた、伝説の料理人だった。


 白髪頭で、背は低いが、肩幅が異常に広い。


 弟子だけで五百人を抱える、料理界の独立王国の主だった。


 彼の名前は、大陸全土である種の畏怖と共に語られていた。


 南部の宮廷では、彼が朝目を覚まさなければ、王の朝食は出されない。


 彼が灰汁を取らなければ、王のフォンは引かれない。


 その厨房で三十年、彼は誰の弟子にもならず、誰の弟子をも自分の手元から出さなかった。


 大陸最強、と謳われ続けてきた、独立した料理人。


 その彼が、馬車で十日、北上してきた。


 彼は寸胴の前に来て、俺を見るなり鼻で笑った。


「これが、噂のフォン取りか」


 声が低く、地響きのようだった。


「お主が、たかが牛骨と水で世界が救えると、本気で信じておるのか」


 俺は玉杓子を握ったまま、彼の方を見た。


「信じてるかどうかは、分かりません」


「ほう」


「ただ、これしかできないので」


 クラウスの目が、わずかに細まった。


 彼の弟子たちが、彼の背後で緊張した顔で息を詰めていた。


 大陸最強の料理長と、無名の若い男が、寸胴の縁で対峙している。


 弟子たちには、その光景が初めて見るものだった。


 クラウスが「鼻で笑う」のは、彼が相手を見限った合図だった。


 その合図が出た以上、相手は終わる。


 弟子たちは、これまでの三十年、それを見てきた。


 でも今回、クラウスは止まった。


 彼は寸胴の縁に近づき、表面の液面を覗き込んだ。


「見せてみよ。お主の灰汁取りを」


 俺は無言で玉杓子の縁を、表面に触れさせた。


 舐めるように、灰汁の膜を剥がした。


 クラウスの背後で、彼の弟子たちが息を呑む音がした。


 クラウスは、しばらく動かなかった。


 彼は自分の玉杓子を腰から抜いた。


 使い込まれた、長柄の銅製の玉杓子。


 彼は寸胴の反対側に回り、俺と対角線の位置に立った。


「お主、向かいに二人めの『取り手』が要ろう」


「……必要、ですが」


「俺が立つ」


 寸胴の周りの五百人が、ざわついた。


「クラウス殿が、二番手に……?」


「あの方が、二番手をやられるのか……」


 クラウスは、誰の声も気にせず、玉杓子を表面に触れさせた。


 舐めるように剥がした。


 俺とまったく同じ動作だった。


 彼は、深く息を吐いた。


「俺は三十年、この一手を、誰にも見せてこなかった」


 彼の声は、低く震えていた。


「お主のフォンを、王都の鐘で聞いた。澄ませ方を見れば、誰が引いたか、分かる」


「……」


「お主に会うために、馬車で十日、駆けてきた」


 俺は何も言わなかった。


 ただ、玉杓子を握り直した。


 クラウスの目が、寸胴の中の液面を見つめていた。


「お主の弟子に、してもらえぬか」


 寸胴の周りで、誰かが息を詰めた音がした。


 ロザリエ王女の手が、ぴたり、と止まった。


「冬野殿」


 クラウスは玉杓子を、寸胴の縁に置いた。


 そして、その場で片膝をついた。


「俺の三十年の手で、お主のフォンを、四方から取らせてくれ」


 弟子たちが、彼の背後で続々と片膝をついた。


 五百人の弟子が、無言で頭を下げた。


 寸胴の周囲で、鳥肌が立つような静寂が降りた。


 ロザリエ王女が、隣で思わず息を呑んだ。


 桟敷席では、貴族たちが、一人、また一人と立ち上がった。


 大陸最強と謳われたクラウスが片膝をつくのを、誰一人、見たことがなかった。


 彼は王宮の前でも膝をつかなかった、と語り継がれている男だった。


 その男が、いま、ただの一人の若い男の前で、玉杓子を寸胴の縁に置き、片膝をついている。


 貴族の一人が、隣の貴族に震える声で呟いた。


「わが国は、彼を客人として留めておかなければならない」


「ええ、絶対に、他国に渡してはなりません」


「彼を逃がしたら、我が国の宮廷料理は、もう立ち行かない」


 その囁きは、波のように桟敷席を駆け抜けた。


 俺は玉杓子の柄を握り直した。


 樋口さんに見せたかった。


 たぶん樋口さんは、こう言うだろう。


『お前のフォンは、命だ』


 その一言を十年前、樋口さんから受け取った意味が、初めて本当に分かった気がした。


「クラウスさん」


 俺は、低く言った。


「弟子じゃなくて、二番手で、お願いします」


「……」


「俺、まだ十年しか煮てません」


「お主の十年は、人の三十年と等しい」


 クラウスは玉杓子を取って、立ち上がった。


「だが、二番手で、お主の言うとおりにしよう」


 彼は寸胴の対角線で、もう一度、玉杓子を構えた。


 寸胴の四方から、灰汁を取る手が揃った。


 空気がまた、ふっ、と澄んだ。


 北方の黒い湯気の柱が、もう一本揺らいだ。


 遠くで、ハザムの軍が、明らかにこちらに向かって動き出した。


 クラウスの弟子たちは、寸胴の周辺で新しい役割を得た。


 彼らは、香味野菜の切り方の指導役と、火床の薪の組み方の指導役を、自ら買って出た。


 大陸南部から運ばれた銅鍋三十個を、王都の周辺の村々に配って回った。


 王都の中央寸胴が本体だ。


 でも、その「フォン」を各地に届けるためには、運ぶための小さな寸胴が、無数に必要だった。


 弟子たちは、その運搬役を自分から引き受けた。


 誰一人、報酬を要求しなかった。


 彼らの目には、これまで誰の弟子にもならなかったクラウスが、初めて片膝をついた相手の作るフォンを、自分の手で運びたい、という清々しい光があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ