第十二章 一人の寸胴
王都に戻ると、城の中の空気が、また濁っていた。
北の黒煙の柱は、三本に増えていた。
ロザリエ王女が、俺を執務室に呼んだ。
彼女は窓辺に立ったまま、俺の方を振り向かなかった。
「冬野殿、お答えを」
俺は、王女の机の上に置いてあった玉杓子を、手に取った。
「効率化、はしません」
王女の肩が、わずかに動いた。
「俺の引けるフォンは、効率化したら、もう、ただのインスタントです」
「では、間に合わなかったら、どうします」
「間に合わせます」
「どうやって」
「世界規模の寸胴を、もう一度、焚きます」
ロザリエ王女が、ゆっくりと振り向いた。
「もう一度、ですか」
「前回は、俺一人で煮ました」
俺は、玉杓子の縁を見つめた。
「でも、本当のフォンは、一人で煮るものじゃないんです」
俺は、子供の頃から、樋口さんと、隣で灰汁を取ってきた。
二人で取ると、灰汁の動きが、滑らかになる。
二人で取ると、寸胴の四隅まで、目が届く。
俺は今度、もっと多くの人と、一緒に煮るべきだった。
「焚き手が、要ります」
俺は、王女の目を見た。
「あなたにも、焚き手の一人になってもらいます」
ロザリエ王女が、息を呑んだ。
「私が、ですか」
「薪をくべる係です」
「私は、王女ですが」
「だから、です」
俺は、机に、玉杓子を置いた。
「身分の高い人が、いちばん地味な仕事をしている厨房は、いちばん澄んだフォンを、引きます」
俺は、十年、それを見てきた。
先輩シェフが、自分で皮むきをやる店は、長く続いた。
自分で皮むきをしない料理長の店は、たいてい、二、三年で潰れた。
地味な仕事を、いちばん上の人間が、率先してやる。
その背中を、若いコミが、見ている。
見られた背中は、しばらくして、若いコミ自身の背中に、移る。
その連鎖だけが、厨房を、長く保たせる。
逆は、ない。
地味な仕事を下に押し付ける厨房は、必ず、どこかで、崩れる。
俺は、ホテルの十年で、何度も、それを、見てきた。
料理長が、自分の手を汚さなくなった瞬間から、その厨房の寿命は、半年だった。
ロザリエ王女は、しばらく、俺の顔を見ていた。
やがて、彼女は、自分の指先を見た。
「私、薪を組んだことなどありません」
「教えます」
「火傷をしたら、ロザリエ家として、どう」
「火傷ぐらい、します」
俺は、少し笑った。
たぶん、この世界に来て、初めて笑った。
「料理人は、毎日、火傷します」
ロザリエ王女は、長く俺を見て、それから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。私は、薪をくべる係です」
「あと、香味野菜を切る人と、計量する人と、寸胴を見張る人が、要ります」
「全員、私が集めます」
「貴族でも平民でも、関係ありません」
「分かっています」
彼女の目に、少しだけ、光が戻っていた。
彼女は、執務机の引き出しから、白い紙を一枚、取り出した。
羽根ペンを取り、震える手で、自分の名前を、紙のいちばん上に、書いた。
次の行に、「焚き手」という、見慣れない単語を、書き加えた。
「冬野殿」
「はい」
「私の名前を、いちばん上に書きました」
「ありがとうございます」
「次から、誰の名前を、書けばいいですか」
「身分の高い順は、いりません」
俺は、机の上の紙を、覗き込んだ。
「火に近づける覚悟のある人から、書いてください」
彼女は、深く頷いて、もう一度、紙の上に、ペンを走らせた。
二行目に、誰かの名前が、書かれた。
俺は、その名前を、見ないようにした。
たぶん、貴族でも、聖職者でもない名前だった。
彼女の手元のペンが、ためらわずに動くのを、俺は、見ていた。
その夜、俺はセルナの病室を訪れた。
彼女は、寝台の上で、薄く目を開けた。
「冬野さん」
彼女の声は、ほとんど、空気だった。
「あなた、もう、一人ではないんですね」
「……まだ一人ですよ」
「いいえ」
彼女は、少しだけ、微笑んだ。
「あなたの寸胴の前に、もう、何人も、立っています」
俺は、彼女の手を握った。
冷たかった。
でも、握り返してくる力が、わずかに、戻っていた。
「もう少し、待っていてください」
俺は、自分でも驚くほど、しっかりした声を出していた。
「あなたを、もう一度、澄ませます」
セルナは、目を閉じた。
彼女の口元は、笑ったままだった。
窓の外で、王都の夜風が、低く、唸っていた。
俺は、しばらく、彼女の枕元に、座っていた。
彼女の呼吸が、規則的になるのを、確認してから、立ち上がった。
病室の扉を、静かに、閉めた。
廊下で、ロザリエ王女が、立っていた。
彼女は、何も言わずに、こちらに、深く、頭を下げた。
俺は、頭を、下げ返した。
二人は、長く、廊下に、立っていた。
月の光が、窓から、廊下を、斜めに、染めていた。
その光の中で、俺たちは、互いに、顔を見ずに、ただ、立っていた。
言葉は、いらなかった。
明日からの七日間で、するべきことが、全て、決まっていた。




