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料理人が異世界転生して灰汁を取り続けたら、王が膝をつき魔将が泣いた  作者: もしものべりすと


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第十一章 精霊の喪失

森の中の、開けた場所に、俺は野営の竈を組んだ。


 石を三つ並べて、間に薪を組んだ。


 城から借りてきた小さな寸胴を、その上に据えた。


 水を張り、骨を入れた。


 骨は、王都の市場で買った、ありふれた仔牛のすね骨だった。


 火をつけた。


 俺は、椅子もなにもない、湿った地面の上に座り込んで、寸胴を見つめた。


 森の朝は、ゆっくりと、明けていった。


 最初、空は群青色だった。


 次に、東の地平線が、薄い橙色に、染まった。


 葉の隙間から、最初の朝日が、寸胴の表面に、差し込んだ。


 寸胴の縁に、その光が、線状に、走った。


 俺は、その光を、見ていた。


 火床の薪が、ぱち、と、爆ぜた。


 薪の音と、遠くの鳥の声と、自分の呼吸の音だけが、森の中にあった。


 六時間。


 灰汁が、出る。


 舐めるように、玉杓子で、剥がす。


 何も考えなかった。


 この寸胴は、誰のためのものでもなかった。


 国王のためでも、村人のためでもなく、ロザリエ王女のためでもなかった。


 誰のためでもない、ただの、灰汁取りだった。


 それを、ずっと、やってきた。


 日本の、地下の厨房で。


 誰も見ていない、深夜の、二時間目から、八時間目までの、あの孤独を。


 灰汁が、減ってきた。


 俺は、玉杓子の柄を握り直した。


 寸胴の表面は、いつもの工程通り、徐々に澄んでいった。


 澄んできて、初めて、自分の手が震えていることに気づいた。


 手が震えると、灰汁が一緒に動いて、表面が濁る。


 俺は、手を一度、止めた。


 大きく、息を吸った。


 森の空気が、肺の奥に、ゆっくり染みた。


 手の震えが、止まった。


 その瞬間、俺の頭の中で、十年分の灰汁取りが、一気に再生された。


 樋口さんが、俺の隣で、最初の年に言った言葉。


「灰汁は、急ぐな」


 その一言だけだった。


 樋口さんは、その後の九年、俺に何も教えなかった。


 ただ、隣で、自分の灰汁を取り続けた。


 俺は、樋口さんの手元を、ずっと見ていた。


 誰も、俺たちのことを見ていなかった。


 でも、樋口さんと俺は、お互いの手元を、見ていた。


 俺は、玉杓子を、もう一度、表面に触れさせた。


 舐めるように、剥がした。


 寸胴の中の液面が、深い金色に、澄んでいった。


 森の中の、誰もいない場所で、俺は一人、初めて、自分の引いたフォンを口に含んだ。


 澄んでいた。


 間違いなく、十年で、いちばん澄んでいた。


 そして、その澄み方は、不思議なことに、地球の高級店で出していたフォンよりも、深く、澄んでいた。


 道具は、安物の野営用の寸胴。


 骨は、王都市場の、ありふれた仔牛のすね骨。


 香味野菜も、ふつうのもの。


 でも、誰の評価も意識しなかった一杯は、明らかに、いちばん澄んでいた。


 たぶん、これが、答えだった。


 誰の評価も意識しなかったとき、俺の手は、いちばん、自由に、動く。


 誰かの評価のために手を動かすと、その手は、必ず、わずかに、力む。


 力むと、灰汁の膜は、底のゼラチンと一緒に、舞う。


 その差は、ほんのわずかだ。


 でも、フォンは、そのわずかを、すべて、覚えている。


 誰も見ていない夜に、俺は十年、これを引き続けてきた。


 誰も見ていない夜に、俺の手が、世界の根を、たぶん、ずっと支えてきていた。


 俺は、寸胴の前で、長く息を吐いた。


 ようやく、自分の十年に、頷くことができた。


 頷くまでに、十年と、一週間、かかった。


 樋口さんが「お前のフォンは、命だ」と言った言葉を、信じるのに、十年だ。


 信じるまでに、自分の手で、もう一度、誰のためでもなく、灰汁を取らなければ、ならなかった。


 誰かのために灰汁を取ると、人間は、どこかで、誰かに見られたい、と思ってしまう。


 誰のためでもなく灰汁を取れば、人間は、ようやく、自分の手の動きだけと、向き合える。


 手の動きと向き合えると、その手の動きが、どれだけの時間、積み重なってきたかが、見えてくる。


 俺の手は、十年、積み重なっていた。


 十年分の動きが、いま、ここで、寸胴の縁に、ある。


 俺は、その手を、初めて、自分の目で、認めた。


 遠くの空が、明るくなり始めた。


 森の獣が、一頭、こちらに近づいてきた。


 灰色の毛皮の獣。あの森で、最初に出会った種類の獣だった。


 獣は、俺の足元まで来て、寸胴の表面を見た。


 それから、こちらの目を見て、ゆっくりと頭を下げた。


 俺は、その獣の頭を、しばらく、見ていた。


 最初に出会ったとき、この種類の獣は、俺の方に、跳びかかってきた。


 いま、同じ種類の獣が、俺の前で、頭を下げている。


 たぶん、別の個体だ。


 でも、こちらに対する反応は、明らかに、違っていた。


 森の中の何かが、変わっていた。


 あるいは、俺の方が、変わったのか。


 獣は、寸胴の縁に、自分の鼻先を、近づけた。


 俺は、ためらってから、白い椀に、ひとさじだけ、フォンを注いだ。


 地面に、椀を、置いた。


 獣は、椀の前に、伏せた。


 長く、椀の中身を、嗅いでいた。


 やがて、彼は、舌で、椀の中身を、舐めた。


 ひと舐め、ふた舐め。


 彼は、目を、閉じていた。


 獣の喉から、低い、満足げな唸り声が、漏れた。


 獣の毛皮が、わずかに、光った気がした。


 彼は、もう一度、頭を下げ、ゆっくりと、森の奥へ、戻っていった。


 俺は、玉杓子の柄を、強く握り直した。


 戻ろう、と思った。


 ロザリエ王女に、答えを返さなければいけない。

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