第五話 お城の舞踏会で初本番のわたし、見知らぬイケメンにかどわかされてとんでもない失敗をしちゃいました
ルークやエミリーたちが暮らし、蜘蛛に支配された温泉街マリソンがある国__シグナス王国の国境を越え、マエストロとブライアンはラポール王国にやってきた。
彼らの目的地は同じだ。都の中心にそびえる王城に招待されているのである。ブライアンは来賓として、マエストロはオーケストラを率いる指揮者として。
ラポール国王の長男、レイモンド王太子がまもなく十八歳になる。この国では十八歳で成人だから、例年よりもずっと盛大に誕生祝いの宴が催されることとなっていた。
城に行く前に、マエストロはオーケストラの練習場に向かった。今回共に演奏するのは、創立百年の歴史を誇るラポール・シティ・フィルハーモニア管弦楽団__通称「シティフィル」だ。マエストロがラポールを訪れる際は必ず共演や合奏指導を行うので、すっかりなじみの仲である。
本番まで三日ほどしか猶予がなかったので、オーケストラとマエストロはみっちりと合奏や個人練習を行った。練習場の隅には、大抵何人かの見学者がひっそりと座っていた。魔法使いも、魔法無しもいる。中には、練習を毎回見に来るので、すっかり顔なじみになった女の子もいた。
当日は練習場で数時間ほど合奏をして、マエストロも団員も舞台衣装に着替えると、王城の馬車を呼んだ。二頭立ての馬車は見た目よりもずっと中が広く、楽器も団員も全て乗り込むことができた。
団員たちと一緒に馬車に乗ったマエストロは、ある少女がチェロのケースを抱いて震えているのに気がついた。まだ十五歳の、イヴァンジェリンという娘だ。ついこの間オーケストラに入団したばかりで、今回が初本番らしい。
「イヴァ、緊張してる?」
マエストロが話しかけると、イヴァンジェリンはおそるおそる顔を上げ、世にも辛そうな顔をした。
「してます、すごく」
「あんなに練習頑張っていたんだから、本番も大丈夫だよ」
「そうでしょうか……」
彼女の顔は青白かった。
「失敗したら……首をはねられちゃいませんか?」
マエストロは苦笑した。
「ない、ない。王様はそんなこと気にしないよ」
ふと馬車の中を見渡すと、他の団員たちも不安そうな顔をしていた。マエストロは手を叩いて注目を集め、よく通る声で言った。
「皆さん、改めて今日はよろしくお願いします。何しろ王室の方々の前での演奏ということで、緊張しておられる方も多いかもしれませんが、どうか肩の力を抜いてください。皆さんがこの日のためにどれだけ練習してきたか、今一度振り返ってみてください。重ねたミスの数だけ、確実に皆さんは成長しています。__おそらく今回一番心配なのは、自分が指揮を振り間違えることです」
ふぐふぐと抑えた笑いが馬車内に広がった。
「今回、王様のお城での演奏ということで……なんと! 本番が終わった後は、宴に混ぜてもらえるそうです。滅多に食べられない大ご馳走を食べるチャンスだね」
団員たちは顔を見合わせた。イヴァンジェリンは自分のお腹をさする。今は緊張でちっともお腹が空いていないが……。
「どきどきしてきたら、本番が終わった後の料理を思い浮かべてください。観客が偉い人だとかあまりそんなことは考えずに、シティフィルらしい演奏ができたらいいなと思っています」
シティフィルの団員たちがうなずいた時、馬車が停まった。目的地に到着したのだ。
イヴァンジェリンが馬車を降りると、目の前に壮麗な宮殿が建っていた。普段遠くからしか見たことのない宮殿。一生会うことも叶わないと思っていた人々がいて、見たこともない料理や飾りが華やかに輝いているのだろう。ごくんと唾をのみ、イヴァンジェリンはゆっくりと足を踏み出した。
マエストロはブライアンと並んで歩きながら、楽器を運ぶ団員たちに指示を出した。入城後すぐに控え室で音出しをする予定だ。速やかに動かなければならないが、焦って楽器を落としたり、城を行き交うVIPたちに失礼があってもいけない。
正面の門をくぐって入城した団員たちが、玄関の天井に広がる美しい山々の絵にみとれていた。
「ほらほら、気になるのは分かるけどまず控え室に移動して」
「マエストロ、控え室ってどこですか?」
「あれ、言ってなかったっけ、ごめん。突き当たりを右に曲がってすぐのホールだよ」
急ぐ団員たちを、正装した魔法使いたちが遠巻きに眺めていた。
ブライアンがマエストロに尋ねる。
「俺はお前さんたちと別行動かな?」
「そうですね。まずは大臣に挨拶をした方が良いですよ」
その時、声がかかった。
「マエストロ!」
マエストロが声のした方を振り返ると、二人の男が手を振っていた。彼らの身長にはかなりの差がある。背が低く小太りの男は高級な素材のスーツを自然に着こなしており、もう一人の痩せて背が高く、ひげが生えた男は軍服姿だ。
「おお! リゴ、テオ!」
マエストロは大股で彼らに歩み寄る。がっちりと握手を交わす三人を見て、イヴァンジェリンは首をかしげた。
「あの人たち、マエストロのお友達ですか?」
側にいたチェロのパートリーダーが慌てて「シーッ!」と注意した。
「あんまり大きな声で話すなよ。二人ともすごく偉いお方なんだから。__スーツ着てる方は総理大臣のジェリゴー・ヴェイレス閣下、軍服着てるのはテオドール・ラズリー元帥だ」
「そうりだいじん!!?」
「馬鹿、声が大きいって!」
イヴァンジェリンはとっさに自分の口をふさいだ。ビオラの女子が質問する。
「元帥って、軍隊で一番偉い人?」
「そうだよ」
団員たちは、和やかに談笑する三人の中年男性をまじまじと見つめた。
「……マエストロって、マジで何者なの?」
「マエストロはマエストロだよ。あんまり深く考えない方がいいぞ」
コンサートマスターのピーターが通りがけに忠告した。
少し世間話をした後、マエストロはテオドールにブライアンを紹介した。魔法戦士の二人は顔を合わせてすぐに互いの実力を見抜いたらしい。緊張感のあるやりとりを眺めていると、ジェリゴー大臣がマエストロに耳打ちした。
「陛下が、あなたに会いたいらしい。祝宴の前に」
「おや、分かりました」
マエストロはピーターに声をかけた。
「ごめん、ピーター。ちょっと用事ができた。チューニング始めてて」
「はい!」
ピーターの返事を聴いてから、マエストロは案内なしで城の中を歩いていった。
やってきたのは、城の最上階にあるひときわ立派な部屋__国王の私室だった。部屋の前を守る二人の衛兵は、マエストロを見るなり敬礼して扉を開いた。彼らに軽く手を上げて、マエストロは室内に悠々と入っていった。
落ち着いた色合いの、しかし最高級の素材であつらえた調度品に囲まれ、王は書物を熱心に読んでいた。金ぶちの眼鏡が、窓から差し込む夕日を受けてきらりと輝く。ほとんど真っ白だが、理髪師によって繊細に整えられた巻き毛が、宝石をちりばめたマントに流れている。文字を追う王の表情は険しく、無意識の癖なのか顎髭をきつくねじり上げていた。
「陛下」
マエストロが声をかけると、王は書物から顔を上げた。厳しい表情が一瞬にして明るく華やいだ。
「マエストロ! よく来てくれた」
王は自ら背もたれのない椅子を引いてきて、マエストロに座るように言った。
「お久しぶりにお会いできて、嬉しいです」
「余もじゃ。シグナスはどうであった? なかなかそなたの出国を許さなかったであろう?」
マエストロは微笑んで、答えをごまかした。王は林檎酒の瓶をどこからともなく取り出し、グラスに注いで渡した。
「そなたに行ってもらいたい場所、見てもらいたいものは相変わらず星の数ほどあろうが、今宵はめでたい場じゃ。思う存分楽しんでおくれ」
「ありがたいお言葉にございます」
マエストロは椅子から立ち、深々と頭を下げた。
「王太子殿下のご成人を、奏者ともども全力でお祝いさせていただきます」
王は顔をほころばせた。
「おお、それは楽しみじゃ。__そうじゃ、レイモンドもそなたに会ってみたいと申しておった」
王が人差し指で自らの額を叩き、テレパシーの方角を整える。魔法を感じ取る力のないマエストロが黙ってその様子を見守っていると、音もなく王の側に一人の青年が出現した。
ドラゴンの刺繍が美しい正装で、堂々と胸を張る青年。さらさらとした黒髪をエメラルドの髪留めでまとめ、背中にたらしている。腰にさげた長剣の鞘には、ルビーやサファイヤなどの宝石が惜しみなくあしらわれている。形の良い眉の下の緑の瞳も、やはり宝石のように輝いていた。神が自分の手元に残しておくために一番時間をかけて作ったかのような、恐ろしく整った顔立ちだ。気をしっかりもっていないと、女も男も彼に夢中になってしまうだろう。
「我が息子、レイモンドじゃ。気難しい子だが、この年まで大きな病も事故もなく、立派に育ってくれた。そなたも寿いでやっておくれ」
王は嬉しそうに紹介した。ちなみに、レイモンド王太子の下に三人の妹と二人の弟がいるが、彼らはまだ十歳にもなっていない。王には男兄弟もいないため、レイモンド王太子が間違いなく次の君主となるだろう。
マエストロはレイモンドに向かって丁寧にお辞儀をした。
「お目通りがかない、光栄の至りでございます。レイモンド王太子殿下」
レイモンド王太子は、口の端を少しだけつり上げた。
「こちらこそ。マエストロ」
そして、マエストロが何か言う前に、父王の部屋から姿を消した。王がマエストロを見て苦笑いした。
「無愛想ですまぬな。人見知りは小さかったころから変わっておらぬ。余が王であるうちにもうちょっとこう、明るくなってもらいたいものだ」
マエストロは微笑ましく思った。王室とはいえ親の心配は下々の者と変わらないらしい。
「今のままで良いかと思いますよ。ご立派にご成長なされましたね」
十数年ほど前、マエストロは幼いレイモンド王太子に会ったことがあった。(その頃はまだ王太子ではなかった)早くも偉大な魔法の才能を見出され、厳しい教育を受けていた王太子だが、マエストロたちの演奏を楽しそうに聴いてくれていた。
「そなたたちに演奏をしてもらうのも、実はレイのたっての希望でな」
「では、気合いを入れて指揮しなければなりませんね」
マエストロが手振りを交えてそう答えると、王は大らかに声を上げて笑った。
午後六時を告げる鐘が鳴り、祝典は始まった。大広間にとてもたくさんの人々が集い、和やかに、そして時には野心的に会話を交わしている。新調したスーツに身を包み、杖や剣を帯びた大魔法使いたちに、美しい色とりどりのドレスを着た魔女たち。そして、彼らの間を軽やかに歩き回り、飲み物や料理を給仕する召使いたち。誰も彼も、普段のイヴァンジェリンだったら到底縁のない人々だ。
イヴァンジェリンは、自分のチェロと弓を握りしめ、つぶやいた。
「ああ、ミスしちゃったらどうしよう……」
「シッ!」
同じプルト(※一つの譜面台を共有するペアのこと)の先輩が、小声でイヴァンジェリンをたしなめた。
「始まるよ!」
その言葉通り、マエストロが拍手を浴びながら現れた。
マエストロは、演奏の前にオーケストラの団員を起立させた。マエストロが観客に向かってお辞儀をする間、団員たちは胸を張ってその場に直立する。こちらに向き直ったマエストロが手で合図をすると、やっと座ることができる。
笑顔でざっとオーケストラを見渡してから、マエストロが手を上げたので、奏者も素早く楽器を構える。マエストロは音楽を始めるのが速い。観客を無駄に待たせはしないのだ。
指揮棒が振り下ろされると同時に、抑制された弦楽器のリズムが駆けだした。大学のための祝祭序曲__若者の華々しい未来を予感させるような駆け足の弦楽器と、突如川のようにおおらかに流れ込む管楽器のメロディ。繊細なファゴットのソリも、とても難しいトランペットのファンファーレも、完璧に決まった。マエストロは指揮を振りながら、満足げに微笑んでいた。
曲の中で主題が変わるたびに、マエストロの表情や仕草も変わる。激しく速い部分は戦っている時のように険しく、ゆったりと美しい中間部のメロディは幸せそうに。彼をじっと見つめながら演奏する団員たちの表情も自然に移り変わる。
序曲、エンペラーワルツと続けて二曲演奏し、マエストロは音楽を完結させた。マエストロの合図で起立したイヴァンジェリンたちは、割れんばかりの拍手を浴びて茫然とした。終わった。あんなに練習して、緊張しまくっていたのも、もうおしまい。
ミスはなかった。その事実がイヴァンジェリンの気分を高揚させた。演奏している時はほとんど何も考えられなくて、ただ手が勝手に動いてくれるのに任せていたけれど__どうやら、初本番は、ちゃんと成功した!!
頬を紅潮させて広間を見渡したイヴァンジェリンは、ふとこちらを見つめる青年に気がついた。長い黒髪の魔法使いで、とてもかっこいい。イヴァンジェリンと目が合うと、青年はにっこりと微笑んだ。
イヴァンジェリンの顔は、別の理由で真っ赤になった。
演奏が終わった後は、数人のメンバー以外は宴に混ざって食事などをしていいこととなっていた。(何人かは、交代で舞踏会のためのアンサンブル曲を演奏することとなっていた)広間の壁側に設置されたテーブルに、数々の宮廷料理が並んでいる。偉い人たちの目を無駄に引かないようこっそりとだが、団員たちは思い思いに料理をとって味わった。もちろんイヴァンジェリンもだ。こってりした肉料理、じっくりと煮込んだ赤や白の魚料理、ちょっとずつつまめる数種類のチーズ、噛むと爽やかな水蒸気が溢れ出る生の果物、体の底まで温まる特製のスープ……どれもおいしいものばかりだったが、とりわけイヴァンジェリンが楽しみだったのはデザートだ。
虹色のアイスクリーム、一口サイズのケーキがたくさん、食べてもちっとも胸やけしないし虫歯にもならない魔法のチョコレート、何段も重ねてシロップやバターをかけることができるパンケーキ。仲間達と協力してどれも少しずつ皿にとり、イヴァンジェリンたちは心ゆくまま舌と腹を満たした。
広間の中央では、ドレス姿の貴婦人や高官たちが踊っている。マエストロはどこかと探せば、ブライアンやテオドールと酒を飲みながら笑い合っていた。踊り終えた白い巻き毛の王様が、マエストロに近づいてなにやら冗談を言ったらしい。その場にどっと笑いが弾けた。
「ね、ね、あたしたちも踊る?」
オーボエのクラリスが、イヴァンジェリンを誘った。けれどその時彼女は、眠気と戦っていた。満腹になったためか、前日によく眠れなかったせいか。
「うーん……わたしは、ちょっと休みたいかな」
「そっか。一緒に控え室行く?」
「ううん、一人で大丈夫。クラリスは踊ってなよ」
わくわくしている友達の背中を押し、イヴァンジェリンは一人で広間を出た。熱気のこもった広間から出ると、がらんとした廊下は少し寒かった。
カツン、カツンと足音を響かせながら廊下を歩いていると、角で誰かとぶつかりそうになった。
「おっと!」
「あ……ごめんなさい!」
謝った後で、イヴァンジェリンは相手が先ほど目があった美男子だと気がついた。近くで顔を見ると、よりいっそうかっこいい。緑の瞳は知的な輝きに満ちていたし、日焼けしていない肌にはにきびやほくろ一つない。すっきりと通った鼻筋を感嘆しながら見つめていると、彼はまたにっこりと微笑んだ。
「君はオーケストラの……?」
「!! は、はい! そうです!」
イヴァンジェリンの眠気は一気に吹き飛んだ。なんと言っていいかわからずはにかむ彼女に、青年は優しく話しかけた。
「広間で踊らないの?」
「あ……あの……ちょっと、休みたくて……」
「そうか」
青年は眉を少し曇らせた。
「具合が悪いの?」
「いいえ……! ただ、ちょっとお腹いっぱいで……」
すると彼は、ふっと笑い、(おどろいたことに)イヴァンジェリンの手を優しくとった。
「じゃあ……もしよければ……食後の運動に、お城の中を案内してあげようか?」
イヴァンジェリンはこくんとうなずいた。
「ここが厨房。ここの区画は、召使いたちが暮らす場所。あそこの奥には地下牢がある」
立て板に水で城を案内してくれる青年。一体彼は何者なのだろう、と夢見心地でイヴァンジェリンは考えた。パーティーに招かれているということは、相当優秀な魔法使いで、普段からお城に出入りしているのかもしれない。
「疲れていない?」
「はい!」
青年はイヴァンジェリンを気遣いながら、上階への階段にエスコートした。
「あの……えっと、」
「私のことはレイと呼んでくれればいい」
「は、はい。レイ様? わたしがこんな風にお城を見て回ってもいいのでしょうか?」
「どうしていけないと思ったの?」
「……だって、わたしは魔法無しです」
うつむくイヴァンジェリンの顔をしたからのぞきこみ、「レイ」は言った。
「大丈夫だよ。いいかい、マエストロが、君たちはどこでも好きに入っていいと言っていた」
「マエストロが……」
「そうだよ。マエストロの言うことなら信じられるだろ?」
「はい」
イヴァンジェリンがうなずくと、レイは嬉しそうに笑った。
「もし誰かに咎められても、マエストロに許可をもらったと言えば大丈夫だからね」
「わかりました!」
マエストロは王様とも仲が良いらしい。先ほどの大広間での光景を思い出し、イヴァンジェリンは安心した。
最後に二人がやってきたのは、最上階の立派な部屋だった。レイが芝居がかった仕草で扉を開けたので、イヴァンジェリンもしずしずと中に入っていった。薄暗く、中に何があるのかあまり分からなかった。
「ここは……?」
「ここはね、お嬢様。誰も使っていない部屋さ」
天蓋つきの大きなベッドにイヴァンジェリンを座らせ、レイは彼女の頭をなでた。
「待ってて。何か飲み物持ってくるから」
「はい」
「いいかい、勝手にどこか行っちゃだめだよ。もし誰かに見つかっても、マエストロの名前を出したらいいんだから」
「はい……」
さっきどこかに吹き飛んだはずの眠気が、ふたたびもどってきたらしい。あくびを必死にかみ殺し、もうろうとした頭でレイの言葉にうなずいた。レイは口の端をつり上げ、イヴァンジェリンから離れた。
「いい子だ。そこにいるんだよ」
レイが部屋を出た瞬間、イヴァンジェリンは大きなあくびをした。眠たくて限界だ。彼が戻ってくるまで、少しうとうとしていてもいいんじゃないかな。
ベッドにくったりと上体を投げ出し、イヴァンジェリンは目を閉じた。何だか、すごいことが起こってる。故郷の村にいた時何度も夢に見たような、ロマンチックな出来事が。
レイが大広間の前まで降りてくると、一人の少女が現れた。
「ケイト」
レイの呼びかけにうなずく彼女は、ドレス姿ではない。黒い礼服に、大粒の真珠のブローチをとめている。
「準備は?」
レイが尋ねると、彼女はふたたびうなずいた。どこかむすっとした表情のケイトの頬に、レイはそっと触れた。
「元気がないな。緊張しているのか?」
「いいえ」
きっぱりと答えるが、ケイトの表情はまだ固い。
「一体どうした?」
「王太子殿下……」
「レイでいいと何度も言っているだろう」
「あの女の子のこと、本気で好きになったんじゃないわよね? レイ」
レイは一瞬目を丸くし、それから大声で笑い出した。
「冗談はよせ! 誰が、誰を好きになるって? あの子は『魔法無し』だぞ!」
レイは、ケイトの耳元でささやいた。
「あの子の命百個分よりも、君の爪や髪の方がずっと価値がある」
「……そうよね」
レイは自分の髪をとめていたエメラルドを外した。そして、ケイトのきちんと結い上げた栗色の髪にとめ、彼女を固く抱きしめる。
「君の代わりになれる女など、世界中探してもどこにもいない。行こう、愛しいケイト」
ケイトはそっとうなずき、自分の胸元に手をあてた。
いつしか、イヴァンジェリンはふかふかのベッドの上でぐっすりと眠り込んでいた。幸せな夢をいくつも見た。チェロを初めて弾いた時。シティフィルのオーディションに受かった時。素敵な青年に誘われて、城をあちこち回ったこと……__
__バタンと突然響いた大きな音、それから怒りに満ちた大声がイヴァンジェリンを起こした。
「そこで何をしている!!」
びっくりして目を覚ますと、たくさんの男たちがイヴァンジェリンを見下ろしていた。どきりとして固まった彼女を、彼らが乱暴に引き起こす。両腕をつかまれたまま、イヴァンジェリンは呆然と見回した。
広い部屋に明かりが入れられた。目の前で激怒しているらしい男が国王であることに気がつき、イヴァンジェリンは真っ青になった。わたし、一体何をした? ここはどこ? レイは一体どこに__?
「魔法無しの小娘が、何故陛下の部屋に忍び込んだ?」
うなるように言ったのは、年をとった大臣だった。王は自らは何も言わず、冷ややかな目でイヴァンジェリンを見下ろしている。
「これ、答えよ、娘! お前は何故、何のためにここにいる? 恐れ多くも陛下がお休みになるこの部屋で、盗みを働くつもりだったのか__?」
「へ、陛下のお部屋……?」
イヴァンジェリンはつぶやいた。信じられない。
「だって、だって、ここは使われていないお部屋だって」
「見苦しい言い訳はやめよ」
王が静かに言った。イヴァンジェリンはすくみ上がる。どうしよう。どうしたらいい? 混乱する頭の中で、レイの助言が救いの糸のようにきらりと浮き上がった。
『マエストロの名前を出せばいい』
イヴァンジェリンは何も考えず、訴えた。
「マエストロが、どこでも好きに入っていいって言ったんです!」
室内に沈黙が満ちた。大臣たちが、困惑した様子で顔を見合わせる。そのうちの一人は、総理大臣のジェリゴーだ。
王が重々しくイヴァンジェリンに尋ねた。
「それはまことか」
「……はい」
イヴァンジェリンが小さくうなずくと、ジェリゴーを除く大臣たちが口々に発言した。
「ありえない。まったくとんでもないことだ! よりによって、平民の魔法無しに城を好きに歩かせようとするとは!」
「だからあの男は信用ならないと申し上げたのです!」
「奴を特別扱いしたのはまずかった、こんな事件を起こすとは……」
「この娘を使って、スパイ活動をしようとしたのではありませんか?」
王が睨みつけると、大臣たちは慌てて口を閉じた。
「……ここに呼んで参れ」
王の命令に、一人の高官がぱっと姿を消した。それからものの二、三分で、彼はマエストロをつれて再び現れた。マエストロは眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、ジェリゴーから事情を聞いた。イヴァンジェリンはいたたまれず、うつむいていた。
王がマエストロに詰問した。
「そなたは、自分の手下に、余の城のどこでも入ってよいと申したのか?」
マエストロは絶句しているようだった。どうしても気になってたまらなくなり、ほんの一瞬だけイヴァンジェリンが彼を見上げると、視線がぶつかった。いつも安心させてくれる笑みは彼の顔からきれいにぬぐい去られ、かわりに焦りと恐怖の表情がくっきりと浮かんでいる。
マエストロは、王たちの前で平伏した。
「確かに言いました。陛下がお目をかけてくださっているという驕りから、間違ったことを団員に伝えてしまいました。誠に申し訳ございません」
イヴァンジェリンはぎゅっと身を縮めた。
「悪いのは自分であり、この子に罪はありません。どうか、どうか自分だけを罰してください」
そして、その場にいた誰もが、王の判断を待った。
やがて王の口から大きな吐息がもれた。
「……マエストロよ。そなたの我が国への貢献を思えば、今宵の出来事など些末なものじゃ。今回だけは水に流そう」
「陛下!」
大臣の一人が抗議の声を上げたが、ジェリゴーがそれを制する。
マエストロは今一度深々と頭を下げた。イヴァンジェリンも涙を必死にこらえながらそれに倣う。
「……そなたたち、広間に戻るがよい。レイモンドがちょっとした余興を見せてくれるそうじゃ」
そう言った王の顔は、まだ厳しく強張っていた。
大臣や衛兵に囲まれて階段を降りながら、イヴァンジェリンは自分の身に起こったことを思い出そうとした。演奏のミスどころではない、とんでもないことをしてしまったことはさすがに分かる。先を歩くマエストロの顔は見えないが、きっととても怒っているだろう__どうして、彼の名前を出そうなんて思ったのだろう?
本当にマエストロが、好きに城を歩いていいと言ったんだっけ? それとも、誰かからその話を聞いたのだっけ? だとしたら、その誰かって__?
けれど、いくら思い出そうとしても、頭の中に白い霧がたちこめたようで、どうしても肝心なことを思い出せないのだった。
大広間にマエストロたちが戻ってきたすぐ後に、余興が始まった。レイモンド王太子が招待客へ挨拶をして、広間の外にいた誰かを呼んだ。
大股で歩いてきたのは、マエストロとよく似た黒服を着た少女だった。レイモンド王太子と年はそう変わらないくらいだろう。やや動きがぎくしゃくしていたが、表情は落ち着いていた。
「……ね、あの人……なんか見たことない?」
オーケストラの団員たちが、こっそりとささやき交わす。
「そうかな?」
「私も。なんか、見覚えある気がする。……ね、イヴァ」
話しかけられ、沈んでいたイヴァンジェリンはどきりとした。人々の前に立つ少女も、その横によりそう王太子も、記憶のどこにもいない。
「わかった!」
クラリスが、得心がいったように手を叩いた。
「あの子にそっくりなのよ。ほら、いつも見学に来てる女の子」
「……あー、言われてみれば」
「でも、別人だよね? さすがに」
「うん、だと思う」
シャンデリヤの光を受け、少女の頭の髪留めが翠色に輝いた。彼女は胸元から短い杖を取り出した。
それはまるで、マエストロが使う指揮棒と同じだった。
少女が杖を振ると、彼女の前に楽器を持った妖精たちが出現した。少女の指揮に合わせて、音楽が始まる。大広間にざわめきが起こり、オーケストラの団員たちを包み込む。
「あの指揮……」
「あの音楽!」
「なんて美しいんでしょう!」
「でも、あの子は魔女ですわ」
「魔女や魔法使いでも、音楽を奏でることができるのね」
「当たり前でしょう。魔法無しにできて、わたくしたちにできないことなどあって?」
ひそひそ話の中で、ピーターが呆然とつぶやく。
「この指揮……マエストロとそっくりだ」
思わず団員たちは、離れた位置にいるマエストロを見た。
マエストロは、少しも表情を変えず、指揮をする少女を凝視していた。彼の手が、時々小さく拍子をとる。
音楽の最後に、指揮棒からきらきらと輝く星の粉が吹き上がり、人々の頭に降り注いだ。わっと歓声が上がる。__もしかしたら、オーケストラの演奏よりも大きかったかもしれない。
両手を下ろし、お辞儀をした少女は、レイモンド王太子に連れられて広間を出た。舞踏会はまだまだ続くらしいが、オーケストラには撤収の指示が出た。
マエストロが撤収する団員たちを見守っていると、レイモンド王太子が近づいてきた。
「……いかがでしたか、マエストロ。私たちの余興は?」
マエストロはにこりと笑みを浮かべて答える。
「ええ、とてもお見事でした」
レイモンド王太子も微笑んだ。
「これでよくわかったでしょう__あなたの代わりなど、いくらでもいるのだとね」
レイモンドは、マエストロの耳元で声を低めて言った。
「大きな顔をしていられるのもこれまでだ。魔法無しの手助けなど、じきに必要なくなる。そうなればあなたは、ただの無力な男」
マエストロは反論もせず、耳を傾けていた。
「__その日が、とても楽しみです。では、気をつけてお帰りなさい。チェロのお嬢さんによろしく」
そう言い残し、レイモンド王太子は姿を消した。
馬車から降りて楽器を運び終えると、オーケストラは解散した。気づけばもうすぐ真夜中だ。家に帰る者もいれば、朝までやっている酒場に行く者もいた。
イヴァンジェリンは、悠然と街を歩くマエストロの背中を追いかけた。彼に謝らなければ。でも、怒られるのがすごく怖くて、声をかける勇気が出ない。だって、マエストロは絶対怒っている。イヴァンジェリンのせいで立場を悪くしてしまったのだから。
不意に、マエストロが立ち止まった。イヴァンジェリンも少しだけ距離を置いて足を止める。とはいえ、ついてきてることは足音で気づかれているだろう。
マエストロが息を吸う気配がして、イヴァンジェリンは身構えた。
「いやあ、強烈な本番だったね」
振り返ったマエストロは、楽しそうに笑っていた。その目はいつものようにきらきらと輝いている。
「イヴァ、お腹は空いてる?」
イヴァンジェリンは、小さくうなずいた。ごちそうをたくさん食べたはずだったが、いつのまにかすっかり消化してしまったようで、またお腹に空きができていた。
「じゃあさ、ピーターたちと一緒に何か食べに行こう。あんなかしこまったところじゃ、ちゃんと食べれた気がしないからね」
マエストロはイヴァンジェリンの肩を優しくたたき、ピーターたちが入っていった酒場を指差した。明りが灯ったなじみの店から、仲間たちの笑う声が聞こえた。




