第四話 麦の畑に
汽車が麦畑の間を走っている。
もう長いこと同じ景色だ。広々とした畑の、植えたばかりの青い麦が風にそよいで、汽車を見送った。
時折、畑で働く農夫の姿も見える。彼らは魔法で雑草をねこそぎ抜いたり、ひそんでいた害虫に幻惑の魔法をかけて、遠い場所へ旅出たせたりしていた。
だから、汽車の窓に、しょっちゅう虫の大群がぶつかってくる。窓から外の様子を眺めていたマエストロは、しまいには虫と顔を突き合わせるのに飽き飽きして、車窓のカーテンをさっと閉めた。
「あなたらしくもない、マエストロ。虫ごときに気分を乱されるとは」
笑いながら、同乗者がマエストロをからかった。波打つ金色の長髪に見事な体躯の、壮年の男だ。名前をブライアンといい、フリーの魔法戦士として各地で活躍している。今回はマエストロと目的地が同じであるため、誘い合わせて汽車に乗ったのだ。
マエストロは肩をすくめてみせた。
「つい最近、虫の顔は嫌というほど見たんですよ」
「蜘蛛だろ?」
ブライアンにも、捨てられた温泉街マリソンの話はしてあった。その時居合わせた別の魔法戦士も、彼の古い知り合いだったらしい。世間は狭い。
「あそこは本当にひどい有様でした。大蜘蛛の子どもが上の階にうじゃうじゃ隠れていたし、奴らが食べ残した犠牲者の骨があちこちに……」
言いながらマエストロは胸のむかつきを覚え、口を手で押さえた。ブライアンが気の毒そうな顔をして、半分ほど中身が残った葡萄酒の瓶の蓋を開けた。
「嫌な出来事は、酒で飛ばすに限る。俺なんか、仕事の失敗はその日の夜までに忘れることにしてるんだ」
グラスに葡萄酒を注いでもらい、マエストロは深いため息をついた。
この汽車は国境をまたいでかなり長い距離を走るので、寝台はもちろん、きちんとした食堂も用意されていた。マエストロとブライアンは好きな時に寝台で眠り、食堂で酒を飲んだり上等な食事をとってのんびりと過ごした。
目的地に速く着きたいならば、ドラゴンやグリフォンをレンタルするか、空飛ぶ馬車に乗ってもよかっただろう。ブライアンは魔法使いなのだから、空を飛ぶこともできた。あるいは、役所から役所へ一瞬のうちに移動できるシステムも開発されている。二人がそうした時短ルートを使わなかったのは、ただ単にのんびりしたかったからだ。マエストロは普段やらないような怪物との戦いをして(させられて、と彼は主張する)ぐったり疲れていたし、ブライアンは戦士同士の決闘で、三日三晩の激戦の末に勝利したばかりだった。
「決闘の話、聞かせてください」
食堂でマエストロが頼むと、ブライアンはまんざらでもなさそうな顔をした。
「相手はクラークって奴でな。元レプラコーン銀行ミルン支店の融資課長だ。だが悪質な取り立てと横領がバレてクビになり、それ以降闇社会で資金調達を十何年も担ってきた。頭が切れる奴だから指名手配されてもなかなか尻尾をつかむことができなかったが、俺の手下がとうとう居場所の占いに成功した」
「水晶玉?」
「いや、猫占いだ。滅多に使われないやり方だが、成功した時の命中率は水晶玉やタロットの比じゃないね。そこで俺たちはアジトに乗り込んだ。クラークも仲間を集め、徹底的に戦おうとした。だが、こちらとしてはなるべく無駄な犠牲は出したくない。闇社会といっても、表の人間に何も悪さをしない奴らも大勢いるんだ。それに__これはオフレコだが、知り合いもいるからな。俺はクラークに決闘を申し込んだ」
「相手はよく承知しましたね」
「覚えておきな、マエストロ。闇社会の連中は意外と仁義や形式を重んじる。悪いことをしている自覚があるから、良心のよりどころがほしいのさ。__それで、広い荒野に移動し、俺たちは決闘をした」
「武器は?」
「それぞれ自分の魔法だけ。そのために広い場所へ行ったんだ。杖だの剣だので調整するのは軟弱者さ。立会人が合図をした瞬間、ガーン!! 相手は岩をぶつけようとした。俺はそれを細かい砂に変えてやった……」
食堂車に、他の客が何人か入ってきた。マエストロたちの隣のテーブルについたのは、すみれ色の目をした美しい魔女だった。一人だ。マエストロは一瞬だけそちらを見て、話し続けるブライアンに意識を戻した。
「一方が火を焚けば他方は水をわかせ、相手が呼び出したドラゴンに対抗してグリフォンを召喚し__そんなイタチごっこが続いたが、俺はとうとう奴の弱点を見つけた」
「一体何ですか?」
「金貨だ!」
「金貨?」
何人かの客が振り向いた。ブライアンは慌てて声を潜める。
「奴を捜査している間に気がついたことだが、闇社会の資金調達の仕事をしている間、奴は現金を一切使わなかった。きまって宝石や小切手や口座振替だ。マネロンのためとばかり思っていたが、決闘の時に分かった。人物確認のために呼んだ、銀行時代の元上司を見て、ほんの一瞬クラークが怯えたような顔をしたんだ。何故怖がる? 元上司は、言っては何だが相当なお人好しで、クラークの悪事が露呈した後もなんとか更生させようと走り回るような人間だ。奴の動揺の隙に、俺はほとんど何も考えず、ありったけの金貨__もちろん、俺の私財だ__を奴の頭にふらせてやった。奴は喜ぶどころか絶叫して、その場に倒れた。駆けよってみると、心臓が止まっていた」
「どうしてです?」
「本当の訳は本人しか知るまい。だが、元上司に聞くところによると、クラークは銀行員時代、とんでもない量の金貨を債務者から取り立て、その大部分を自分の家の金庫にためこんでいた。その悪事のせいで、債務者や濡れ衣を着せられた奴の元同僚が何人も自殺した。俺の想像にすぎないが、奴は自分の悪事への罪悪感に日頃から苛まれていたんじゃねえかな」
「罪悪感、ですか」
「それか、悪事が露呈した時のことが相当トラウマになっていたか。それまで奴はエリート街道まっしぐらで、いつ頭取になるかともてはやされた銀行マンだった。私生活では豪邸に住み、家族や愛人と贅沢な生活を送っていた」
絵に描いたような転落人生だ、とブライアンはしめくくった。
「……それで、そのまま亡くなったのですね?」
「ああ。決闘での死は名誉の死だ。悪人といえど、これでよかったと俺は思っている」
ブライアンは重々しく言った。
声を低めているつもりかもしれないが、彼の声は元々かなりよく通る。(今は酒も飲んでいるし)気づけば食堂車の客は皆、彼の話に聞き耳をたてているようだった。隣に座る魔女はさっきから食事がちっとも進んでいない。
「もう一杯飲んだら、そろそろ寝るか」
ブライアンが大きくあくびをした。瓶に残っていた葡萄酒を二人のグラスに均等に注ぎ、マエストロもうなずいた。窓の外はもう真っ暗だ。
汽車が線路を噛む音を聴きながら、マエストロは寝台でまどろんでいた。寝台は二段になっていて、上をブライアン、下をマエストロが使っている。ブライアンは早々に眠り込み、気持ちよさそうに寝息をたてていた。
消灯して真っ暗な車内で、小さな足音がした。マエストロはゆっくりと身を起こす。夜中でも、車掌が行き来することは珍しくはないが……
マエストロたちが泊まる部屋の扉が開かれた。重い扉は、どんなにこっそり開けようとしてもきしんだ音をたてる。誰かが入ってくる気配に、マエストロは素早く動いた。
「あっ!」
マエストロに手首をつかまれ、侵入者は驚きの声を上げた__女の声だ。マエストロは厳しい声でささやいた。
「灯りをつけて」
女は逃げようとしたが、どうしてもふりほどくことができなかったため、しぶしぶのように魔法の灯りを手のひらに灯した。
灯りのそばに浮き上がったのは、食堂車で隣のテーブルにいた女だった。
「何の用かな?」
マエストロが問うと、まだ若い女はむっと口をつぐんだ。
「名前は?」
「…………ポーラ」
ポーラは美しいすみれ色の瞳を細め、憎しみをこめてマエストロを睨んだ。
「用があるのは自分? それともブライアン?」
ポーラは口の中で小さく答える。
「ブライアン様に、エージェントから伝言を預かって……」
「嘘だね。それなら何故食堂車で言わなかったのかな? こんな夜中じゃなくてもさ、彼に話しかける機会は十分にあったじゃない」
「……………」
「さっき食堂車でさ、少し様子がおかしかったよね。もしかして__ブライアンが決闘で戦った相手と関係があるのかな?」
「そうよ!」
ポーラは鋭く答え、おもむろに短刀を取り出しマエストロに突きつけた。
「命が惜しければ、どいて。あいつを殺す! クラークの仇を討つのよ」
「……君は、彼のご家族?」
「違う。……あの人の『元』家族は、あの人が銀行を追われた時に逃げた裏切り者どもよ」
「じゃあ、お付き合いしていた人?」
ポーラは唇を噛み、黙った。図星らしい。
「余計な詮索はしないで。どいて!」
「いいえ、どきません」
マエストロは短刀を握る彼女の手をそっとつかみ、自分の胸に刃をあてさせた。彼女が動揺する気配が短刀を通して伝わってくる。
「ブライアンを殺すなら、自分を殺してからにしなさい。彼は自分の友達です。みすみす殺させはしない」
ポーラは口の端を不自然につり上げてみせた。
「上等じゃない。一人殺すも二人殺すも、同じことだわ!」
「良い覚悟だね。ああそうだ、言い忘れていたけれど、自分を殺したら全世界が君の敵になる。魔法使いも、魔法無しも」
「何ですって?」
マエストロは、震えるポーラに微笑みかけた。
「自分は魔法無しだけど、どういうわけかそれなりに必要とされていてね。今も隣国の王様に呼ばれて会いに行くところなんだ。自分が死んだら、彼らは絶対に黙っていない。この国の王様たちもね」
「あんた、何なの。何者なの? ただのほら吹きなんでしょう?」
「自分は、」
マエストロはポーラから手を放し、静かに言った。
「『ただの』指揮者です」
ポーラはマエストロを睨んでいたが、やがて短刀を下ろした。よほど緊張状態にあるのか、まだぶるぶる震えている。うつむく彼女の吐息に嗚咽が混ざる。
マエストロは車窓を開いた。夜風が舞い込んでくる。夜だからか、スピードが少し落ちている。
「魔法は使えるね? 行きなさい。君の話は誰にもしない」
ポーラはきっと顔を上げ、激しい口調で言った。
「いいえ、話して。ブライアンに。あんたが殺した相手には、愛し合う人がいたのだと。必ず話して」
マエストロがうなずくと、ポーラは窓からさっと飛んでいった。
車窓から夜の麦畑をのぞくが、彼女の姿はもうどこにも見えない。
マエストロはやれやれと自分の寝台に腰を下ろした。ブライアンは、この騒ぎに気づきもせず眠り続けている。
暗闇の中で、吹奏楽の総譜を開いた。何も見えはしないが、楽譜の中身は完全に覚えていた。
頭の中で音楽を流し、指揮棒なしに手で拍子を作る。早く音楽仲間に会いたいと思った。自分が生きる意味は、怪物と戦うことでも決闘することでも、復讐でも勿論なく__音楽をすることだ。




