第三話 マエストロが蜘蛛と戦う話(2)
蜘蛛は、マエストロを大量の糸でがんじがらめに縛った。逆さに見えるホテルの中身が、みるみるうちに朽ちていく。壁紙は破れ、明るく輝いていたランプは消え、ぼろぼろの椅子やテーブルの残骸が汚れた床に転がっている。逆さ吊りのマエストロは、頭に血が集まっていく苦痛に顔を歪めながら、せかせかと糸の上を動き回る蜘蛛を呆然と見つめた。
蜘蛛が操る糸は、まるで滑車でもついているかのようにするするとマエストロを引っ張り上げた。はずみでかけていた眼鏡が床に落ちた。天井に開いた大きな穴からマエストロを上階へと運ぶと、蜘蛛は満足したようにうなずき、マエストロに牙をむいてみせた。たくさんある蜘蛛の目がぎょろりと睨む。
あまり悲観することのない性格のマエストロだったが、この時ばかりは死を覚悟した。しかも、思いつく限り最悪の死に方だ。
ところが、蜘蛛はぷいとマエストロに尻を向け、そのままさらに上の階へと上がっていった。ほっと息を吐いたのもつかの間、薄暗い蜘蛛の巣の中で何かが動いた。
身を固くしたマエストロの耳に届いたのは、若い男の細い声だった。
「お気の毒に……あなたも、あの怪物にたぶらかされたんですね」
マエストロは声のする方にじっと目をこらしたが、あいにく何も見えなかった。せめて眼鏡を落としていなければ、と後悔しきりだが、怪物に食べられる時は見えていない方がましかもしれない。
耳をすませると、ハッハッと荒く息を弾ませている音や、すすり泣く声が聞こえた。マエストロ以外にも、哀れな犠牲者がここに何人もいるのだろう。
「皆さんは、いつからここにいるのですか?」
マエストロは自分の声が少し震えているのに気がつき、悔しくなった。
最初の細い声が答える。
「僕はもう一ヶ月も前からここにいます」
「そんなに前から!?」
「私は一週間前に」
「俺は三日前だ」
マエストロは少しほっとした。
「今すぐにでもあの蜘蛛に食べられるかと思っていたけど、どうやらそうではないみたいですね」
しかし、その考えは甘かったらしい。
「僕が来た頃は、他にももっと仲間……いや、捕まった人がいたんです。でも、だいたい二日にいっぺんくらいのペースで食われていきました」
マエストロは身震いした。けれど頑丈な糸はちっとも揺らがない。
「自分の番がいつ来るかと思うと、気が気じゃありませんよ」
「こんな思いをするくらいなら、いっそ先に食べられた方がマシだったわ」
若い女の子が、しゃくり上げた。
「友達と二人で温泉に来たの。友達は……友達は……」
誰もその先を確認しようとは思わなかった。
周りの人間が動揺していると、かえって冷静になれる時がある。マエストロはいつも合奏でやっているようにさりげなく提案した。
「一刻も早く、ここから脱出しましょう」
しかし、返ってきたのは深いため息だった。
「俺たち、もう何でもやってみたさ。火も水も雷も土も__思いつく限りの魔法をな。だが、あの蜘蛛野郎にはきかねえんだ。どんな魔法も、吸い取っちまうのさ」
「吸い取る?」
「この忌々しい糸が、魔法を吸ってる。魔法を使えば使うほど、奴の糸が強くなっちまう」
憮然とした声で、年配らしい男が教えてくれた。
「ただこうしてるだけで、元気がなくなるんです」
「僕なんか、もうすっかり魔力が抜けてしまったと思います」
口々に訴える魔法使いたちの言葉を聞いて、マエストロは気の毒に思った。「魔法無し」の自分には分からないが、普段体内に満ちている力が抜けていく感覚というのは相当に恐ろしいのだろう。なんとかしてやりたいが、今の話を聞く限りでは、普段のようなやり方はかえって逆効果である気がした。
遙か上から、泣き声がかすかに聞こえた。はっとマエストロは目を動かす。子どもの泣き声だ。
「子どももいるんですね?」
ここに来て長い青年が答える。
「親子連れが一組、捕まったのを見ました。ただ彼らはもっと上につれてかれたので、無事なのかそうでないのか、さっぱり分からないんです」
泣き声が聞こえるうちは、(少なくとも子どもだけは)生きているのだろう。だが、いつまで無事でいられるだろうか。蜘蛛は上に昇っていったのだ。
マエストロはぐるぐるとからみついた糸の中で、拳をきつく握りしめた。自分にどうしようもできないことがあるのが、たまらなく嫌だった。右手の平に痛みが走る。おやと思ってとっさに腕を動かすと、糸がばらりと切れた。
糸が切れた?
マエストロが自分の右手を見ると、銀のフォークを握ったままだった。たまたま手に取って眺めていたところを蜘蛛に襲われたのだ。フォークで糸を刺してみると、そこの部分に穴が開いた。
「……そうか。銀は魔除けだ。魔力をはじくんだ」
魔法に頼りきりだったマリソンのグランドホテルが、どうして魔力を防ぐ銀製の食器を飾っていたのか__単なる見栄か、それとも何かの意図があったのか。マエストロには分からないが、今はまさに天の助けだった。マエストロはフォークの先で自分を縛る糸を引き裂き、まず上半身を、続いて足を自由にした。
「何をやっているんです?」
マエストロの様子に他の者たちも気がつき、希望の歓声を上げた。
「静かに!」
警告してから、マエストロは近くにいた青年を自由にするのにとりかかった。魔法使いから吸い上げた魔力で満ちた蜘蛛の糸は、ちょっとつつくだけでぷつんぷつんと切れる。
「あまり動かないように。蜘蛛に気づかれたら事だ」
時間をかけてようやく自由になった青年は、ぶるぶる震える右手で糸をにぎり、階下にぶらさがっている。
「逃げる体力はあるかな?」
青年は曖昧にうなずいた。だが、間近で見ると彼の顔は青白く、頬がこけている。一ヶ月近くほぼ何も栄養をとっていないのだろう。
マエストロは青年の耳元で、ひそやかに古い歌を歌った。劇的に彼の魔力が回復するとは思わないが、少しでも気分がましになればいい。ホテルを逃げ出せるくらいに。
この背中に翼があればと願う時
わたしはいつも歌を歌う
歌に翼はないけれど
どこまでも遠くへ飛んでいくから
人は鳥になれないと知る時
わたしはいつも大地を走る
見上げた空に
いつか辿り着く気がするから
そして、「行って!」と青年に呼びかけ、彼の手元の糸を切った。
青年はどさっとロビーの床に落下し、あわててホテルを飛び出した。他の二人がじっとマエストロを見つめている。
「あんた……何者だ?」
男の問いに、マエストロは肩をすくめた。
「自分は、ただのしがない指揮者です」
マエストロは、女の子と男を見比べた。どちらの顔もぼんやりとしか見えないけれど。先にここに来たのは女の子の方だ。
「なるべく動かないで」
そう指示しながら、彼女の体にからみついた糸を少しずつ切る。だが、彼女はささやくように言った。
「わたしより、上にいる子どもを助けてあげて」
マエストロはとっさに暗い上階を見上げた。まだ泣き声がかすかに聞こえる。確かに、あの子が食べられる前に助けてやりたい。
「だが、どうやって?」
男が顔をしかめて尋ねた。
「怪物蜘蛛も上にいる。あいつに見つからずに助けられるか?」
マエストロは手を止め、ちょっと考えた。
「あの子のために、危険を冒す覚悟はありますか?」
二人に聴くと、一瞬間を置いて返事がもどってきた。
「はい、あります!」
「なめるなよ。俺は何十頭もの怪物と戦ってきた魔法戦士だ」
「それは心強い」
マエストロは微笑んだ。
少し打ち合わせをした後、マエストロは他の二人を先に解放した。二人はロビーに降り、身を隠した。
マエストロは張り巡らされた蜘蛛の巣をめちゃくちゃに引っ張り、手当たり次第にフォークでぶつ切った。ねばねばした糸の残骸が全身にくっついたが、構っている暇はない。時には大声を張り上げ、下品な言葉で蜘蛛を罵った。
少しもしないうちに、つかまっている糸にずんずんと衝撃が走った。何かが降りてくる、恐ろしい物音がする。それでも引き続き蜘蛛の巣を壊していると、とうとう巨大な蜘蛛が姿を現した。怒っているらしい。うなり声を上げ、糸を大量に吐き出しながら蜘蛛はマエストロに向かって突進していった。
蜘蛛がマエストロに迫った時、隠れていた二人が火と雷の魔法を放った。業火も雷撃も命中したが、蜘蛛の体は魔法を吸収し膨らんだ。周囲の糸が白銀に輝き、マエストロに巻きついた。
魔法使いの二人が躊躇したのを感じ、マエストロは叫んだ。
「もっとだ!」
魔法使いは慌てて、蜘蛛にさらに魔法をぶつけた。雷で手先がしびれ、熱で肌が焼けるのを感じながら、マエストロはその場にじっとしていた。魔法でより強大になった蜘蛛が、マエストロにのしかかった。
ここまで近くに来れば、眼鏡なしでも蜘蛛のご尊顔ははっきりと見えた。大小八つの漆黒の目が、マエストロをぴったりとねめつけている。蜘蛛の剛毛がマエストロの顔をちくちくくすぐった。ゆっくりと開かれた口には、獣のそれとは全く違う恐ろしい牙が光っていた。
マエストロは、銀のフォークをためらいなく蜘蛛に突き刺した。
バン! と大きな音がして、蜘蛛が弾け飛んだ。衝撃でマエストロは吹き飛ばされ、ロビーに落ちたところを、魔法使いたちが受け止めてくれた。
蜘蛛が完全に死んだことを確かめて、三人は床にへたりこんだ。マエストロの眼鏡が落ちている。それをかけて視力を取り戻したマエストロは、子どもがいるはずの上階を見上げた。
「……よし。後は、あの子を助けて、他にも捕まっている人たちや蜘蛛の仲間がいないか調べて、犠牲になった人達の骨やなんかがあれば回収して、蜘蛛の巣を片付けて、役所に報告するだけだな」
「そこまでしないといけないか?」
男がぼそりとつぶやいた。女の子がくすりと笑う。
「盛り沢山ですね」
その時、ホテルの扉が開き、兵士たちが飛び込んできた。
「蜘蛛は!?」
三人はふふんと笑う。
「もう倒しました」
兵士に続いて入ってきたのは、先ほど逃げたはずの青年だった。マエストロたちを見るなり、表情を緩めて駆け寄った。
「よかった! 無事で……。妖精通信で兵隊を呼んだんですが、間に合わなかったらどうしようかと……!」
「おかげさまで、生きてます」
そう言いながら、マエストロは壁にもたれかかる。後は魔法使いに任せよう。蜘蛛がためこんでいた魔力が、発散されたおかげで、この場は魔法を使うのに最高の環境となった。
子どもの存在を兵士たちに伝え、マエストロはそっと目を閉じた。




