第十話 バッカナールの日(4)
二幕・三幕
あくる夜、丘の上に英雄がたった一人、自在に魔法を操っていました。
彼の手からあふれ出した星屑が、優しい夜風になびく長い黒髪をかすめ、ゆっくりと空へ昇っていくのです。昼間、兵士と戦う際に業火を噴いた彼の大きな手は、夜は真新しい星々や、羽を一生懸命動かして飛ぶ鳥たちを生み出しました。
その様子を、丘の下からうっとりと見つめる娘がいます。星が散るたび、娘の美しい玉虫色の瞳は右へ左へと揺れました。るり色の小鳥が一羽、娘の肩にとまって歌いました。
英雄はその声で娘に気がつき、やや警戒しながら尋ねました。
「そこで、何をしているのだ」
娘は答えました。
「星を見ています」
そして、大胆にも英雄にこう聞きました。
「もっとおそばにいっても良いですか?」
英雄は、黙ってうなずきました。断る理由を思いつけなかったからです。
娘は英雄の傍らで、彼の生み出す星を眺めていました。英雄ほどではないにしろ、長くつややかな髪から漂う甘い香油の匂いが、鼻を優しく満たします。彼女の様子が妙に気になって、英雄はとうとう自分から問いかけました。
「星が好きなのか」
「はい、好きです」
「では、もっとたくさん作り出してやろう」
英雄は両手を空へと掲げ、きらめく光を思い浮かべました。そうすることで、自然に手から星が生まれるのです。
ふと気がつくと、娘が彼の肩にしなだれかかっています。
「あなたは、神様なの?」
甘い響きの囁きに、英雄の心はついぞないほど騒ぎました。いのらない民にいじめられた時の憎しみとも、神にいのる時の静謐な心持ちとも異なる感情が、彼の足から聖なる髪の先にまで満ちていくのです。
英雄は首を振りました。
「おれは、神ではない」
「でも、神様のように、いろいろなことができるわ」
「それは、神がおれに、お役目をくださったからだ」
娘はまばたきをしました。長いまつげに、ごく小さな真珠のような水の粒が浮いています。
「どのようなお役目なのですか?」
「いのる民を解放し、いのらない民に復讐をすること。そして、失われた故郷を、取り戻すことだ」
娘は、深いため息をつきました。
「素晴らしいお方。わたしにもそのようなお役目があったのなら、どんなに誇らしいでしょう」
その言葉とは裏腹に、娘は何故か沈んだ様子だったので、英雄は彼女のために柔らかい産毛の子猫や子犬を作り出してやりました。
「次は何を見たい? 何が好きだ? 言ってみるがいい。何でもかなえてやろう。おれにできないことなど何もないのだから」
そう問うた瞬間、娘は抱いていた子犬や子猫を下ろし、英雄に抱きつきました。
「では、あなたを」
耳元で囁かれ、哀れにも英雄の心は彼女に支配されてしまいました。
「喜んで」
そう返した時、娘が口の端を歪めて笑ったことを、英雄は知りませんでした。
星空の下で、娘は英雄のひざにのり、甘えるように言いました。
「ねえ、あなたはさっき、何でもかなえてくださるとおっしゃったわね」
英雄は娘の汚れ一つない肌をなぞりながら、答えました。
「ああ、何でも。おれにできることならば」
「できないことなど何もないのではなくて?」
「__そうだな」
娘は薄い衣をほんの少しだけはだけ、あの玉虫色の目で英雄を見つめます。
「わたしに、あなたのすべてをください」
英雄も、娘の瞳をじっと見返しました。
「ああ、すべてを」
「『すべて』とは何か、本当にわかっていらっしゃる?」
「すべてはすべてだろう」
英雄に抱きしめられ、娘は軽く暴れてみせました。
「そう、すべてよ。あなたの体、あなたの心、そして__あなたの魔法」
娘は、英雄の腕の中で、彼の両手をそっと握りました。
「教えて。あなたの魔法の源は、どこにあるの?」
英雄は笑いました。
「残念ながら、この手の中にはないよ」
「では、どこに?」
「探してごらん」
「時間がないわ。そうでしょう?」
娘はちらりと夜空を見上げました。星たちは地の果てに帰りつつあるようです。
「わたしのすべてを、あなたにあげる。だから、あなたのすべてをわたしにちょうだい」
「すべて……」
迷う英雄に、娘がぴったりと肌を寄せました。髪で隠れた彼女の顔を上げさせると、清らかな涙がほおを彩っています。
「あなたは、わたしを愛していないの?」
英雄は、娘に激しく口づけしました。娘も、それに応えました。そして、やおら彼の体を押し返しました。まるで親の敵でも見るように激しい怒りの表情を浮かべています。
彼女の美しい怒り顔を見た時、英雄は自らの敗北を悟りました。
「おいで」
招き寄せると、娘は素直に彼の胸に身をあずけました。英雄は自分の黒髪で、娘のほおを優しくなでました。
「魔法の源は、この髪だ。天使様が、おれの髪に神の力を授けてくださった。だから__もし髪を切ってしまえば、神の力は消え失せるだろうな」
それからしばらく経って、夜明けの時間に近づきました。英雄と娘は丘の上で二人、白みつつある東の空を眺めています。
娘は、英雄の髪をすくい上げ、呟きました。
「魔法の髪ね」
「だれにも秘密だ」
「ええ」
娘はふと、考えました。このまま、英雄の妻となったら。王は裏切ったわたしを責めるだろうけれど、英雄がきっと守ってくれるだろう。神のように何でもできる彼と共に生きれば、幸せになれるだろうか?
黙り込んでしまった娘のために、英雄は色とりどりの蝶々を生み、暁の空に羽ばたかせました。
「きれい」
「ああ」
娘は、英雄を見上げます。
「もし、わたしがあなたくらい髪を伸ばしたら、魔法が使えるようになるかしら」
英雄は首を振りました。
「ならないだろうな。君はいのる民ではないから」
さりげない言葉でしたが、娘はしっかりと聞いていました。そして、「少しお眠りなさいよ。起こしてあげるから」と英雄に言いました。
英雄が娘の膝の上で目を閉じた後、彼女は草むらに隠した短剣を取り上げました。
目を覚ました時、英雄は無残に髪を短く切られ、いのらない民の囚人となっていました。娘が裏切ったのです。その事実を知った時、英雄は激しく後悔し、暗い地下牢の中で叫びました。
自分は、なんとおろかだったことでしょう。せっかく神から授かった力を、こんなにあっけなく奪われてしまうだなんて。いのる民の悲願を、まだ何一つかなえていなかったのに。
いのる民が彼を恨む声が、地下牢まで届くようでした。鎖につながれ、両目をつぶされた英雄は、孤独に自分の失敗と運命を嘆き、同胞たちの無事を願いながら過ごしていました。
そんな中、兵士たちが地下牢まで下りてきて、英雄に告げました。もうじき、彼らは祝宴を開くのです。いのる民の反乱をくじいたことや、彼らの信じる神を讃えるためのお祭りでした。
祝宴の中で、英雄は生け贄として殺されるのだと兵士たちは笑いました。英雄には、もうどうすることもできません。神の力は、もうとっくに自分から失われてしまったのですから。
永遠のように果てしない暗闇の時間に、客人がありました。牢の扉が開いた音の後、誰かが降りてきて、つながれた英雄の腕にそっとふれました。
「誰だ」
英雄がうめくと、ひそやかな返事がありました。
「あなたのすべてが、わたしのもの」
あの娘の声でした。英雄は彼女を憎みましたが、何もできませんでした。
「あなたの体も、心も、魔法も」
英雄は力を振り絞り、娘を笑いました。
「体と、魔法はそうかもしれない。お前の策略にまんまとだまされた。心はちがう。おれの心は、決してお前のものにはならない」
「いいえ、心もよ」
娘はきっぱりと言い返します。
「あなたは今、わたしを憎んでいる。わたしのことだけを考えているでしょう。__わたしも同じよ。あなたのことを憎んで憎んで、仕方なかった。あなたの髪を切り落としてからは、あなたを欺いた誇りでいっぱいだった。そして今も……あなたのことだけを考えている」
娘は、英雄にそっと口づけをしました。
「……言ったでしょう。あなたのすべてをくれたら、わたしのすべてもあげるって」
そして、鎖に錠を差し込んで外しました。
「わたしと一緒に逃げましょう」
けれど、英雄はさしのべられた手を払いました。
「おれはいのらない民に負けた。その代償は払う。誇り高い民の一人として」
娘は深いため息をつきました。そして最後に英雄を抱きしめ__気がつきました。短く切ったはずの彼の髪の毛が、ちょっと不思議なほどに伸び始めているのです。
「さよなら」
娘はそう言い残し、地下牢を出ていきました。
いのらない民の神殿で、酒宴が始まりました。どこでも乱痴気騒ぎが繰り広げられ、王も大臣も兵士も民も、踊り子たちの激しい踊りに夢中でした。酒の匂いが辺り一帯に立ちこめ、むっとする熱気で神殿の石柱が汗をかいています。
奇妙な衣装、いかがわしい踊り、奇天烈な料理、十分すぎる量の酒、何もかもが異様でした。生け贄として引き出された英雄がもし目をつぶされていなければ、きっといのりとはほど遠い宴の様子に気分がもっと悪くなったことでしょう。
彼とは最も対極にある人々の、勝利の宴です。音楽はどんどん激しく、速くなり、宴を楽しむ人々の気持ちを高揚させ、彼らを憎む者の感情を逆なでしました。
英雄は知りませんでしたが、あの娘もこの場にやってきていました。宴を見守っていた彼女は、王に促され、生け贄となる運命の英雄に向かって唾を吐きました。
いよいよ、王たちの神に生け贄を捧げる時が来ました。神殿の高いところに連れてこられた英雄は、突然雄叫びを上げ、両手を天に掲げました。
ぎょっとした王たちが彼を見ると、さっぱり切り落としたはずの黒髪が肩まで伸びて、星のようなきらめきを何重にも放っているのです。
たくさんの人々が見守る中、英雄は最後のいのりを捧げました。
雷が轟き、大理石でできた神殿を打ち砕きました。英雄も、娘も、宴に参加していた者たちは皆、下敷きになって息絶えました。
最後の音の名残が消え、マエストロが腕を下ろした時、客席は静まり返っていた。
いつものように万雷の拍手が鳴り始めないことに若干不吉さを感じながら、マエストロは客席の方を向いた。前列の観客が、凍りついたように舞台を見上げている。
舞台ではまだ、神殿が崩壊したままだ。さきほどまで踊り狂っていた人々の生命の気配は、英雄の最後の魔法と共に消えてしまった。観客はそのことに怯えているようだった。
やがて、一人の客が手を叩き始めた。それがオーギュストという指揮者であることに、マエストロはすぐに気がついた。厳しい表情の彼の拍手につられ、遠慮がちに破裂音は広がっていく。
マエストロは、オーケストラを観客に紹介した。コンサートが終わった後の大事な仕事だ。ソロを務めた奏者も、トゥッティを作り上げた奏者たちも、誇らしげで、ちょっぴり不安そうな顔で観客と対峙している。
おもむろに、客席の真ん中で、一人の男が立ち上がった。そこから徐々に拍手が止んでいく。しまいにはまた静かになってしまったホールで、彼が口を開いた。
彼はまっすぐにマエストロを見つめている。マエストロは笑みを浮かべ、でも心の中では緊張しながら、お忍び姿のその男の言葉を待った。
「良かった」
たったそれだけだった。けれど、彼の周りの人々が、ぎょっと彼を仰いだ。彼は家来を引き連れて、さっさと帰っていく。
マエストロはコンマスと目を合わせ、ウインクしてみせた。
そこからは、皆大忙しだ。知り合いの客に挨拶する者、着替える者、舞台を片付ける者。体はぐったり疲れているが、やるべきことをやってしまわなければ帰れない。
マエストロも椅子の片付けを手伝っていると、ヒロイン役を務めたノエルが寄ってきた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。立派なヒロインだったね」
「ありがとうございます」
ノエルは頬を染め、言った。
「……知らない魔法使いのお客さんが、わたしに言いました。この役はあなたしかできない。悪女だけど自分は好きだって」
「おお、よかったね」
ノエルはうなずき、衣装から着替えにいった。
劇場から撤収した後は、フェルディナントの家で打ち上げだ。酒宴といわんばかりに皆で酒や料理を買い込んで、狭い家に集まった。無口なシャルルが、酒を飲んで大騒ぎしている。狭い室内で踊り子たちが踊り出すので、楽譜や本が棚からぽんぽん飛び出した。
自身も酒をたっぷり飲んでご機嫌なマエストロに、フェルディナントが話しかけた。
「おかげさまで、大成功でした」
「ね、大好評だったよね。捕まることもなかったしね」
「そうなんです、役人たちが来てたみたいなのに、何故か何も言われなくって。なんかすぐ帰っちゃったみたいだし」
国王の後を追いかける家来たちの様子を思い出し、マエストロは含み笑いした。
「__楽しかったね」
マエストロの言葉に、フェルディナントや、近くにいた何人かがうなずく。
「また、一緒に音楽やりましょう」
マエストロは返事の代わりに、杯に残っていたぶどう酒を一気に飲み干した。
宴がお開きになったのは、真夜中近くだった。家に帰っていく役者たちを見送りに出たマエストロは、白い霧が道を覆っていることに気がついた。
「うわ、すごい霧」
フェルディナントが、背後で呟く。マエストロは、ゆっくりと振り返り、フェルディナントと、彼と肩を組むシャルルに言った。
「そろそろ、自分も帰ります」
「えっ、あ、そんな」
慌てふためくフェルディナントとは対照的に、シャルルは落ち着いてうなずいた。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
二人の芸術家と握手をして、自分のカバンを持ち、マエストロは霧の中へと歩いていった。
少し歩いて、雪が降り出したことに気がつく。前方にぼんやり灯りが見える。
近づいてみると、それは野焼きの火だった。クロスランドの人々が、掃除で出てきたいらない物を焼いている。
マエストロはカバンの中に禁じられた楽譜が入っていることを確かめ、たき火に背を向けた。
「演奏してはいけない曲なんて、あるわけがないんだ……」
集会場に向かって一人歩いているうちに、鼻歌がこぼれ出た。百年も昔に作られた、友人たちの歌。




