第九話 夜に紛れて(2)
その竜の見た目は、たしかに恐ろしい。だが、無防備な獲物であるはずのマエストロに襲いかかることもなく、ただ物陰に隠れているだけだ。
夜雲竜__夜行性の気弱なドラゴン。鋭い牙も炎の息もなく、力もそれほど強くないため、他の種類のドラゴンからこそこそ隠れて生きているという。人間や家畜などを襲う勇気もなく、夜な夜な墓場に現れて屍肉を喰らうのがやっとらしい。墓場を荒らす習性とその恐ろしげな見た目から、人間たちからは他のドラゴン同様に恐れられている。
よほどの危害を加えなければ、夜雲竜が牙を剥くことはない__マエストロはそう知っていたので、強張った口元を緩めた。
「こんばんは」
声をかけてみると、竜はいっそう縮こまった。やはりひどく臆病なのだ。このままマエストロが墓を去れば、何事も起きないまま集会場に戻ることができるだろう。
だが、興味を惹かれたマエストロは、思いきって夜雲竜に近づいた。ひいっと竜が鋭い悲鳴を上げる。
「驚かせてごめんね。自分は君をいじめたりしないよ」
竜はぎょろぎょろした大きな目でマエストロを見つめていた。
「君は食事をしに来たんだよね。……でも、ここには自分の大切な友だちが眠っているんだ。__あまり、荒らさないでほしいんだけどな」
竜がうなだれる。マエストロは、ちょっと考えてこう提案した。
「竜君、自分と友達になろう。君は何も悪さをしないって、皆に言ってあげるよ。そしたら、君のために家畜を少しよけてくれるはずだ。人間と仲良くしている、他のドラゴンのようにね」
竜は頭をもたげた。しかし次の瞬間、ひときわ甲高い悲鳴を上げてうずくまった。
「竜君__?」
その時マエストロはやっと気がついた。立ち並ぶ墓石の間から、誰かが見ている。物音は聞こえないし姿も見えないが、気配だけがうるさいほどに伝わってくる。
「誰かそこにいますか?」
マエストロの問いかけに対して、返事はなかった。だが、竜が後ずさりをしながら、首をぶんぶん振って鳴いた。その声が集中を乱す。
ピシッと音が弾け、竜が絶叫した。そして、知らないしわがれ声が叱りつけた。
「うるさい!」
竜とマエストロがまごついている間に、そこに現れた者は何度も鞭を竜に振り下ろした。我に返ったマエストロは、竜と何者かの間に割って入った。
「やめてください!」
鞭の音は止んだ。夜に溶け込む漆黒のマントを羽織った人物が、顔を上げた。マエストロは息を呑む。
「……こいつは、どうしようもなく臆病で」
マントの男が、かすれた声で語る。
「こそこそと夜の闇に紛れ、惨めに屍肉を喰らうのがやっとなのだ。そんなザマを見せられるのが不愉快だったから、私はこいつに牙も魔力も与えてやった。__それなのに、こいつは何も変わろうとしない。相変わらず卑屈に人間どもから逃げ回るばかり」
男は舌打ちし、再び鞭を振り下ろした。鞭はマエストロをかすめ、竜の背中を厳しく打った。
マエストロは言い返す。
「それが夜雲竜の習性だからです。夜雲竜という種が誕生した時から、彼らは心優しく、内気な竜だったのでしょう。人間が二足で歩いて、服を着ているのと同じことじゃないですか」
「夜雲竜が誕生した時のことなど、お前に何が分かる」
男はそう言って、目深に被っていたフードを少しずらした。ほんのわずかだけ残っていた昼の残滓で、彼の隠れていた顔が見えた__顔面いっぱいに刻まれた大小さまざまの傷跡、それから、無残に潰され、機能を果たしていない両目。
マエストロは男にまっすぐ向き合った。
「目は見えなくても、お前の気配はよく分かる。魔力の欠片も感じられない。魔法無しだな。この惨めな竜と同じように、私に怯えている」
マエストロは認めた。
「ええ、そうです。……あなたがサザールですか」
「いかにも」
サザールがうなずいた時、マエストロは何故か、今が初冬で、夜はひどく冷え込むことを思い出した。背筋を駆け抜ける悪寒も、手足が凍りついて動かないことも、冬の夜のせいなのだ。きっと。
これまで、「悪い魔法使いサザール」のことは、どこか伝説上の悪役か、人々の根も葉もない噂の中で生まれた幽霊のように感じていた。自分が出会うことなど決してないと確信さえしていた。
だが、今、目の前に彼はいる。罪のない人々を何人も残忍に殺し、恐怖と不安をクロスランド中にまき散らした張本人が。
サザールが、一歩マエストロに近づいた。
「お前がマエストロか?」
マエストロはぐっと顎を引いて答えた。
「そうです」
「ふうん……」
サザールは手を伸ばし、細い指をマエストロの首に這わせた。死人のように冷たい。ぞっとした。可能ならば、今すぐにこの場から逃げ出したい。
けれど、それはできない話だった。むしろサザールが現れたことに喜ぶべきなのだ。サザールに会い、自分を最後に殺戮をやめるよう頼むのが外出の目的だったのだから。
マエストロは殺人鬼の前で微笑んでみたが、相手には見えなかっただろう。と同時に、その笑顔が引きつっていることも、きっと気づかれていないはずだ。
サザールは黙りこくって、マエストロの出方を待っているようだった。
「一つ、教えてください」
マエストロはサザールに尋ねた。
「何故自分を狙ってたんですか? 何か恨みでも?」
サザールが嘲笑う。
「恨み? そんなものはお前にはない。だが生かしておく理由もない。私はどのみち世界中の人間を皆殺しにすると決めているのだから、遅かれ早かれお前も殺していただろう」
世界中の人間を皆殺しに?
「何故そんなことを?」
サザールはそれには答えなかった。
口をつぐむ盲目の男が、とても自分と同じ人間とは思えなくて、マエストロは唇をぐっと噛み締めた。
もしかしたら、彼は既に人間ではないのかもしれない__世の中のありとあらゆる悪意が集まって人の形をとり、悪霊のように暴れ回っているのかもしれない。そんな想像をした。
だとしたら、自分にも魔法使いたちにも、勝ち目はない。
夜雲竜がまた鳴いた。細く悲しげな声だった。驚いたようにサザールが振り返る。憎しみのようにまっすぐマエストロに向けられていた彼の意識が逸れたのを感じ、マエストロはとっさに墓石の後ろに逃げ込んだ。
途端に、墓石が魔法で打ち砕かれた。
「目は見えないが、お前の動きは気配で分かるぞ!」
サザールの怒鳴り声に苛立ちとほんのわずかな苛立ちを感じた。マエストロは答えずさらに遠くへ逃げた。サザールの放つ魔法がまたいくつかの墓石を砕き、焼いた。炎に照らされ、真っ黒な装いのサザールと、やはり怯える夜雲竜の姿が見えた。
じりじりと追い詰められながらも、マエストロは笑い出しそうになった。何とたいそうな勘違いをしていたのだろう。サザールはただの人間だ。恐ろしく強い魔法使いであることには間違いないが、具現化した悪意でも、全能の神でもない。予想外のことが起きてかっとなることもある、生身の人間なのだ。マエストロが魔法無しの象徴でも何でもないように。
__とはいえ、置かれた状況は相変わらず絶望的だった。大切な墓場はめちゃくちゃに壊され続けているし、サザールは刻々と近づいてくる。やがて彼と自分を隔てる物は何もなくなるだろう。
「終わりだ、マエストロ!」
サザールが死の魔法を放った。だが、覚悟を決めたマエストロが見たのは、一瞬にして現れた空気の壁が、魔法をはね返すところだった。
マエストロの隣で、誰かが荒く息をしている。
「やれやれ、間に合った!」
バンジャマンの声だった。バンジャマンは、驚くマエストロを叱りつけた。
「全くあなたは! 危ないから外に出るなと言ったそばから!!」
「……すみません」
マエストロがいないことに一体いつ気がついたのか__相当探し回ったらしく、顔がげっそり疲れていた。
「私が時間を稼ぐから、早く集会場に!」
「時間を稼ぐって……無茶ですよ。とても叶う相手じゃない」
「分かっている!」
バンジャマンはサザールを睨みすえながら、唸るように言い返した。
「それでも、戦わなければならないんだ」
さあ行けと彼が手を振った時、サザールが嘲るように言った。
「無駄だ。どちらも逃がしはしない。お前らたちの動きは手に取るように分かるぞ」
バンジャマンは、右手で畑を耕す時のように大いなる力を集め、左手で虫の群れを呼んだ。そして両方の魔法をサザールに向けると、冬眠を妨げられて怒った虫の群れがサザールの顔にぶつかった。動揺したらしい彼を宙に浮かせ、ごろごろと転がした。土いじりをするのと同じ要領で。
だがサザールの方も、いつまでも好きにはさせなかった。バンジャマンの魔法を霧消させ、虫の大群を追い返した。逃げ帰ったカメムシを追い払い、バンジャマンは雑草を刈るときに用いる斬撃の魔法を唱えた。いくつもの石がすっぱりと斬れたが、サザールの喉元にたどり着くまでにその魔法は消えてしまった。
バンジャマンは次に、夏吸い取った稲の病をサザールにお見舞いした。まともに食らったサザールだが、ちっとも動じていない。
「それで終わりか?」
手に浮いた黒斑に気づいた様子もなく、サザールが歩いてくる。バンジャマンはマエストロを背に庇いながら、自分の無力さを呪った。今まで自分の魔力は、作物を育て収穫することにばかり使ってきた。誰かを呪い殺すことに人生の大半を捧げてきた魔法使いとは、積み重ねてきた経験が違い過ぎる。
(こんなことなら……)
その続きは自分でも分からないまま、バンジャマンはマエストロに振り向いた。逃げろとは言ったが、彼が自分の側を離れたら、その瞬間にサザールに襲われてしまうだろう。
「……マエストロ、何かあいつの弱点を知りませんか?」
マエストロはささやいた。
「弱点かわからないけど、目が見えないようです。__もっとも、気配で相手の動きはわかるようですが」
「目が見えない……」
その時初めて、まともにサザールの顔を見た。マエストロの言う通り、両目が潰されている。総代会議で共有された彼の半生を思い返しているうちに、バンジャマンは閃いた。目が見えないというのなら__
「マエストロ」
声をかけながら、バンジャマンは短刀を抜いた。マエストロがいぶかしげに眉をひそめる。
「奴があなたを狙うのには……きっと理由がある。どうか、私の代わりにクロスランドの皆を守ってやってください。それができる人間だからこそ、あいつはあなたを憎むんだ」
「バンジャマンさん?」
バンジャマンは、短刀で自分の髪をばっさり切り捨てた。そして魔力の残ったその一房の髪を一本の箒に変え、マエストロに握らせた。
「バンジャマンさん__!」
「さあ、行け!」
一声叫ぶと、箒は主人の最後の命令に従い、すごい速さで飛んでいった。マエストロも一緒だ。
バンジャマンは、サザールを振り返った。魔力のこもった髪を捨てたことで、自分の気配も魔法無しと同じになったはずだ。ほんの少しの間でも、彼を困惑させることができれば、マエストロだけは逃がすことができるはず。
「……お前は、マエストロか?」
サザールの問いかけに、バンジャマンは答えなかった。声を出したらバレてしまう。代わりに、その場に落ちていた石の欠片を拾い、投げつけた。サザールの顔に命中し、彼は乾いた唇をめくり上げて笑った。振り上げた右腕に、魔力が集まる。
「いい度胸だ」
バンジャマンが最後に見たのは、隠れていた夜雲竜が空へと飛び上がる姿だった。




