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旅する指揮者  作者: ろくせいウィンドオーケストラ
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第八話 未来のマエストラ

 ラポール王国の都からさほど遠くない、ラークという都市。そこの首長から依頼を受け、マエストロはちょっとした演奏会を開催することとなった。今回一緒に演奏するのは、フレッシュ・ラーク・ウィンド・オーケストラ__通称「ラーク」という吹奏楽団である。


 「ラーク」の総団員数は四十人程度(中には、市外から参加している奏者もいる)で、皆「魔法無アンマジカルし」であった。近隣に音楽学校があるためか腕の良い奏者が多く、息が揃って溌剌とした演奏をするため、市民のファンは多い。魔法無アンマジカルしの憧れの的であるのは勿論、魔法使いであっても、彼らの演奏を日々の楽しみにしている者は多かった。


 演奏会の前日、それまで北部の港町にいたらしいマエストロがようやく到着したので、団長でサキソフォン奏者のパーシヴァル(愛称はパーシー)が出迎えに行った。大きなドラゴンから滑るように降りてきて、マエストロが笑顔を見せる。

「やあ、パーシー」

 パーシヴァルは丁寧にお辞儀をした。

「お久しぶりです、マエストロ!」

「皆元気?」

「はい、変わりありません」

「そう、よかった」

 パーシヴァルはマエストロと握手をした。ふと、異物に触れた感触がして見下ろすと、マエストロは見慣れない真珠の指輪を小指にはめていた。

「マエストロの方こそ、お元気でしたか?」

「……ああ、まあね。ぼちぼちです」

「海の方に行かれてたんですよね。どうでした?」

 マエストロはその質問を無視し、周りの景色を見渡した。空をびゅんびゅん飛び回る魔法使いたち、客寄せのために高い声でしゃべり続ける店先の魔法人形。きれいな色の道の真ん中を悠々と歩くのが魔法使いで、フードをかぶり、道の隅をこそこそ逃げるように進んでいるのが魔法無アンマジカルし。

「相変わらずだね、ここは」

 魔法の学校がいくつか集まっているため、若者も熟練の魔法使いもそれぞれ多く集まる街。珍しいもの好きの彼ら相手の商売も盛んで、市街地は毎日がお祭り騒ぎだ。大抵の魔法無アンマジカルしはふところに余裕がないため、道ばたに並んだ出店を回ることは滅多にないが。

魔法無アンマジカルしのマエストロたちに気づいた通りすがりの魔法使いが、露骨に顔をしかめて歩き去った。侮蔑的な視線とは裏腹に、彼らは魔法無アンマジカルしには比較的「寛大」だ。少数と見るやちょっかいを出そうとすることも、街から追い出せと公的機関に働きかけることはない。迷惑を被らない限りは。


「さ、行こうか。練習の成果を見せてもらわないとね」

 魔法使いとまともに目があい、固い表情になったパーシヴァルの背中を叩き、マエストロは促した。そこに長いこと留まっていてもあまり意味はない。


 練習はおおむね上々に進んだ__「ラーク」の面々は真面目なため、マエストロ抜きの練習もきちんと行っていた。(ちなみに、指揮は団員の誰かが代振りをするのである)前日のリハーサルで不備が露呈することもなく、和音やテンポの確認だけですいすいと曲が進んでいくため、マエストロも上機嫌だった。


 ところが、合奏が休憩に入ったころ、一人の魔法無アンマジカルしの女子が練習場に飛び込んできた。楽器は吹かないが、楽団の活動をしばしば手伝ってくれる子だ。


「演奏会、キャンセルだそうです!!」

 

 団員もマエストロもぽかんとした。

「え、え、なんで?」

「何か大変なことが起きたとか?」

「占い師が嵐でも予知した?」


 ジェニーという名の彼女は、口々に問い詰められ、顔を赤くしながら答えた。

「ち__ちがうみたいです。あたしもそんなくわしく知らないんですけど、なんか、別の人が代わりに演奏するんですって」

「別の人? どっかの楽団……ってコト?」

「近くだったら、パステルウィンズ?」

 ジェニーは首を振った。

「来たのは、魔法使いの女の人で。なんか、その人が指揮をして、妖精が楽器を演奏する、みたいな」

「ああ……」

 マエストロがもらした嘆息に、周囲の団員たちが振り向いた。

「その女の人って、栗色の髪の、背が低い女の子?」

「だったと思います、たぶん」

「マエストロ、その人知ってるんですか?」

 マエストロはうなずいた。

「うん。たぶんケイトちゃんだ。自分がシティフィルの指導をしていた時、何度も練習を見学に来てた。それに、実際本番で振ってるところも見たことがある」

「マエストロの知り合いですかー」

 パーシヴァルが、どこかほっとしたような声を上げた。相手が魔法使いと聞いて、警戒していたのだ。


 せっかくの本番がなくなった。その落胆が、ゆっくりと練習場一面に満ちていく。マエストロは微笑んで団員たちにこう提案した。

「まあまあ、いい機会だから、観客の立場になってその演奏を聴きに行きましょう。人の音楽を楽しむのも練習のうちだよ。……それに、」

 少し怒ったような顔をした、若手の団員をちらりと見て、マエストロは付け加えた。

「本番舞台の回りに、いろいろ出店が出てるでしょう。明日は、自分が皆さんに好きなものをおごってあげる」

「マジですか!?」

「ええ、マジですとも」

「よっしゃ!」

 気合いを入れ直したらしい団員たちに、マエストロは「そろそろ休憩は終わりだよ」と告げた。本番がなくなっても、練習は練習だ。



 翌日、団員たちとマエストロは、演奏会の舞台にやってきた。楽団も何度も使っている野外舞台だ。演奏が始まるまであと二時間ほどあるためか、舞台の上には椅子や譜面台も並んでいない。


 団員たちは私服姿で、また楽器も持たないので身軽に歩き回った。勢いよく燃える炎で炙る小鳥の丸焼きや、かまどの中のピザなど、あちこちから良い匂いが漂ってくる。色とりどりの飴と綿雲菓子にも心が躍った。パーシヴァルが自分の財布の中身を確認している間に、甘え上手のオーボエ奏者の女の子が、ちゃっかりマエストロにクレープを買ってもらっていた。毎回コンサートを聴きに来てくれるアーチーという老人が、マエストロに近づき、帽子を取って挨拶していた。マエストロも嬉しそうに応えている。


 パーシヴァルが木苺のアイスクリームをなめていると、ジェニーが近づいてきた。彼女は手に何も食べ物を持っていない。楽団の出番はなくても、彼女には裏方の手伝いがあるらしかった。

「ごめんね、今日は。せっかく練習してもらっていたのに……」

「いいよ、別に。気にしてない」

「本当に?」

 彼女の質問を受け、パーシヴァルはふと考えた。本番を奪われるなら、どっちの相手がマシだろうか。魔法使いか、ライバル楽団か。

「そのケイトって人、どんな感じ? ゲネプロ(本番前の最終リハーサル)聴いたんだろ?」

 尋ねると、ジェニーは首を振った。

「ううん、ゲネはなかったの。前日リハも」

「マジ?」

 『ゲネ本』という言葉がある。普段の練習には一切参加せず、本番当日の最終リハーサルと本番にだけ参加することだ。よほどの実力者でないと認められない無茶だが、それを超える強者がいようとは。

「……いや、勿論それまでの練習はしてるんだろうけど」

「? 何ぶつぶつ言ってるの?」

「いや、何でもないよ」

 パーシヴァルは、アイスが溶けかけているのに気づき、慌ててなめとった。ジェニーはまだ申し訳なさそうな顔をしていたが、ふと明るい表情を作って言った。

「ね、魔術師ロイの見世物小屋には行った?」

「行ってない。何それ?」

「有名な旅芸人が来てるのよ。魔法使いの。あの黒いテントなんだけど……」

 彼女が指さす先に、漆黒の小さなテントが建っていた。賑やかでカラフルな露店の中、強烈な異彩を放っている。しかし評判はいいらしく、テントの外に長い列ができていた。

「テントの中はものすごーく面白いんですって」

「そうなんだ……一緒に行ってみる?」

「ううん、私はこの後も準備があるの」

 断られたパーシヴァルがとっさに辺りを見回すと、たまたま近くにいたマエストロと目が合った。

「……もし今おひまなら、あのテントに行ってみません?」

「ああ、いいよ」

 じりじりと進む列に並んでいるうちに、アイスクリームを食べきってしまった。マエストロが尋ねる。

「ところで、あのテントの中には何があるの?」

「俺にも分かりません。でも、すごーく面白いらしいです」

「そうか。それは楽しみだね」

 やがて二人は列の前の方になり、先頭になり、とうとう黒い垂れ幕をくぐって中に入った。


 中も真っ黒だ。目がつぶれ、他に誰かがいるのか、それとも二人だけなのかも分からない。

 

 どこからともなく、歌うような声が流れてきた。

「ようこそ、魔術師ロイの見世物小屋へ! 見たことも行ったこともないような素晴らしい場所へ連れて行ってさしあげよう。__お代は一人につき、銀貨三枚だ。先払いだよ」

 支払いを終えると、声はこう案内した。

「目をつぶってはいけない__見逃すともったいないからね。その場から動いてはいけない__とても危ないから。そして、最後の忠告__何も考えず、楽しむこと!」

 パチン! と大きな音がしたかと思うと、周りが一瞬で様変わりした。


 パーシヴァルとマエストロの二人は、海の中にいた。冷たい海水が二人をもみ、沖へと押し流す。はっと見開いたパーシヴァルの目のすぐ前を、銀色のイワシの群れが横切った。水の中にいるというのに、息はちっとも苦しくない。パーシヴァルがもらした感嘆のため息が、あぶくとなってきらきらと光り輝く海面に昇っていった。漂うクラゲも、ふざけあういるかたちも、足元をはうカニやらエビやら、波打つイソギンチャクも……全てが、本の中でしか見たことのないものだ。


 パーシヴァルは、心地良い海水の冷たさ(初冬だというのに、ちっとも寒くはない)を堪能し、舞い踊る魚たちの動きに目を瞠り、波の音に癒やされた。それから、すごいですねと言おうとして、マエストロの方を見た。


 ところがマエストロの方は、ちっとも楽しそうではなかった。愕然とした表情で、海の景色のあちこちに目を滑らせていた。固く噛み締めた唇から血が一滴こぼれ落ち、テント内の海水に混ざった。おもむろにマエストロは右手を前へとのばし、歩き出そうとした。


 途端に海の中の景色は消え失せた。パーシヴァルもマエストロも、元の真っ暗なテント小屋の中に立っているだけ。

「動いてはいけないと言っただろう!」

 さきほどの声が、歌うような調子を引っ込めて叱りつけた。

「さ、あんたたちはこれでおしまいだ。次の客のために出て行ってくれ!」


 テントを追い出されたパーシヴァルは、傍らのマエストロがまだショックを受けたような顔をしているので、おそるおそる問いかけた。

「……あの、具合悪いですか?」

「うん?」

 マエストロははっとパーシヴァルを見て、我に返ったようにかぶりを振った。

「……大丈夫だよ。ごめんね、パーシー。途中で追い出されちゃったね」

「いえ、十分楽しみました」

 パーシヴァルはくっきりと刻まれた海の風景を思い出し、息を吐く。

「そろそろケイトちゃんの出番が始まるね。見に行こうか」

「はい!」

 舞台の周りには、既に聴衆が集まっている。団員たちがパーシヴァルに気づき、手を振った。皆手におやつや串焼きを持っていた。

 

 魔法使いたちの拍手に迎えられ、栗色の豊かな髪の娘が登場した。今日は髪をハーフアップにして、エメラルドの髪飾りでまとめている。やや緊張気味に微笑む彼女の周りを、虹色の雲がぼんやりと包んでいた。


 マエストロがパーシヴァルにささやく。

「あのもやが、妖精たちだよ」


 その言葉通り、虹色の雲は彼女がお辞儀をすると同時に散り散りになり、やがて何十もの小さな人になった。彼女が指揮棒サイズの魔法の杖をかかげ、振り下ろすと同時に音楽が始まる。そのたおやかな調べと完璧な和音に、魔法使いたちがどよめく。音楽が終わる前から拍手とブラボーのかけ声が飛び交った。


 二曲目、三曲目と続けるごとに、観客は彼女に魅了されていくようだった。最初懐疑的な目で見ていた団員たちも、彼女の優雅な動きにみとれていた。指揮の動きはマエストロとほぼそっくりだ。だが、それをする人間が違うだけでこうも雰囲気が変わるのか、と失礼なことを考える団員もいた。彼女たちが演奏する曲がマエストロの持ち曲と全く同じなので、なおさら比べやすかったのだ。


 演奏が終わると、アンコールを求める声があちこちから上がる。呼びかけに答え、彼女はまた別の明るい曲を披露した。演奏会の開催に関わる役人が舞台に上がり、彼女と握手をした。本番を終えて上気した頬ではにかむケイトは、とてもかわいい。舞台の袖に控えていた、金髪にそばかす顔の純朴そうな青年が、彼女にそっと氷のタオルを差し出した。


 帰ろうか。誰からともなくそう決めて、楽団員たちはその場を後にした。観客たちはケイトに夢中で、魔法無アンマジカルしには見向きもしなかった。



 

 

 演奏会後、街のレストランで演奏会の打ち上げが開催された。集まったのはケイトと、彼女にタオルを渡した青年、それから演奏会の裏方を務めた魔法使いたちである。まだ日は高く、ちょうどおやつの時間だ。ケイトがアイスクリームを添えたケーキを頼むのを、皆が微笑ましい目で見ていた。

 ハリスという偉い役人が、身を乗り出すようにしてケイトに話しかけた。

「コンサート、大成功だったね」

 ケイトが顔を赤らめる。

「よかったです。……実は、すごく緊張してて」

「いやいや、完璧でしたよ」

 ケイトの傍らに座る青年が、嬉しそうな顔をした。彼はケイトの付き人らしく、彼女が現地入りする時からぴったりと付き添って世話を焼いていた。

「当初はマエストロと吹奏楽団に依頼していたけれど、あなたに変えて良かった。指揮も全く同じにできるみたいだし、あなたの方がずっと華がある」

「これからは公演依頼が殺到するでしょうな」

 褒められて、ケイトはにっこりした。

「そうでしょうか。だといいのですが」

「それになんといっても、あなたは魔法使いだ!」

 ハリスが大声を出し、レストラン中にその言葉が響いた。

「正直言って、魔法無アンマジカルしに毎回演奏を頼むのはちと不安でね。練習はちゃんとしてくるのかとか、失敗するんじゃないか、とか」

「……ハリスさんは、魔法無アンマジカルしは皆怠け者だと思っているんです」

 若い役人が、肩をすくめて説明した。

「だって、そうだろう? 我々が魔法を使ってせっせと働いている間、奴らはのんびり楽器を弾いているだけだ。アリとキリギリスのようにね」

 店の扉が開き、数人の老いた魔法使いが入ってきた。その中の一人に目を留めて、若い役人が立ち上がる。

「こんにちは、アーチーさん」

「……おお、しばらく。ブラン」

 ぼさぼさに広がった長い白髪の老人が、じろりとケイトたちを見下ろした。ブランが老人を紹介する。

「街の名士のアーチ―さんです。元代議士で、役所のOBでもあります。音楽がとてもお好きで、今回の演奏会も聴きにいらしてたんですよ」

「まあ、ありがとうございます」

 ケイトも立ち上がり、スカートの裾をつまんで挨拶した。

「アーチーさん、この方は今回の演奏会で指揮を振ってくださった、ケイトさんです。どうですか、とても素敵な演奏だったでしょう?」

 アーチーはケイトを見つめ、口を開いた。

「__論外だ」

「えっ?」

 予想外の答えに、テーブルが凍りついた。ケイトはその場に立ち尽くし、アーチーを怯えた目で見ている。青年が無言で立ち、彼女と老人の間に入ろうとした。


 アーチー老人は彼には目もくれず、重ねて言った。

「あんな音楽ごっこが、マエストロたちの演奏の代わりになると思っているのなら、見当違いも甚だしい。君が出るのならもうその演奏会を聴きに行くことはない。その価値もないからな」

 そして、誰かが反論する暇も与えず背を向け、同行していた友人たちと共に離れていった。


 彼が去ってから、ブランが慌ててとりなした。

「気にすること、ありませんよ。あの人はマエストロの熱心なファンなんです。きっと、今回は急な変更だったから、驚いただけですよ」

「あの爺さん、耳も遠くなったし、頭もぼやけてきているんだ」

 ハリスがまた大きな声で失礼なことを言った。

 立ったままのケイトに、青年が呼びかける。

「大丈夫ですか?」

 ケイトは彼を見下ろし、ゆっくりとうなずいた。その顔から、さっきまでの紅みは消えている。

「__ええ」



 その日の夜も、楽団『ラーク』は合奏である。だが、通常練習とはちょっと異なり、ちょっとした演奏会を内輪でやろうとマエストロが提案した。

「野外舞台での本番はなくなっちゃったけど、皆に披露するだけが音楽じゃないですからね。せっかく今日のために練習してきたんだから、自分たちだけでも楽しみましょう」

 団員たちは練習場に料理や飲み物、つまみを持ち寄った。いっそパーティーにしてしまおうと思ったのだ。家族や友達も呼んだので、広い合奏場はいつもよりも賑やかだった。調子づいた誰かが、誕生日パーティーをする時みたいな風船だの飾り紙だのを壁にとりつけた。

「何だか、新年と夏至祭りと聖夜がいっぺんに来たみたいだね」

 と、マエストロが大げさなことを言う。


 建物から漏れ聞こえる楽器の音を聞きつけてか、近隣の住人たちもたびたび顔を出していった。来る者拒まずの精神で、団員たちは彼らを招き入れる。合奏の前座として団員たちがいくつかのチームを組み、アンサンブル(少人数の合奏)を演奏した。


 黒いマントをすっぽりかぶった小柄な女の子が、そっと中に入ってきた。一人だ。出迎えに行ったパーシヴァルが、彼女の顔を見て声を上げた。

「あんたは……!」

 剣呑な声に、何人も振り向いた。パーシヴァルは絶句したまま、目の前の女の子を睨みつけている。ただならぬ様子に、マエストロが声をかけた。

「パーシー、どうした?」

「マエストロ……ちょっと来てください」

「はいはい」

 酒の入ったグラスを持ったまま、マエストロはパーシーたちの元へ歩いて行った。

「お客さんだね、いらっしゃい……おや」

 彼女の顔を見て、マエストロも驚いたようだった。無言で会釈するマント姿の娘は、昼間指揮を振っていたケイトその人だ。


 マエストロは一瞬目を丸くしていたが、やがて微笑んだ。

「今日は本番お疲れ様、ケイトちゃん。練習を見に来てくれるのはシティフィルぶりだね? 食べ物もあるからさ、どうぞ楽しんでいって」

「マエストロ!」

 パーシヴァルが小声で抗議する。

「冗談じゃないですよ、あの子を中に入れるだなんて!」

「だって、もう入ってるよ」

「皆が納得しませんよ!」

「文句があったら自分に言うよう、皆に伝えてくれる?」

 マエストロはパーシーとの話をさっさと切り上げ、ケイトに顔を向けた。

「見に来てくれてありがとうね」

「……いえ」

 憮然とした表情のパーシヴァルを置いて、並べた椅子にケイトを誘導する。周囲から飛んでくる視線はやはり険しいが、マエストロもケイトも完全に無視した。騒ぎに一時中断された即席の演奏プログラムが再開される。今度の演奏者は、木管五重奏だ。


 彼女のグラスにジュースを注ぎ、二人で乾杯をする。シティフィルの練習を彼女が見学に来た時、数回ほど会話を交わしたことがあった。彼女は魔法使いだがマエストロにとても関心を持っているようだった__今思えば、それは彼の指揮を真似するためだったのだろうけど。


楽しそうにアンサンブルする団員たちを眺めるマエストロの隣で、ケイトがささやいた。

「……マエストロ」

「はい?」

「今日の私の演奏、お聴きになったでしょう。……どうでしたか?」

「とても素敵な演奏でしたよ」

 マエストロはあっさりと答えた。だが、ケイトは眉間に皺を寄せた。

「お世辞はいりません。本当のことを教えてください」

「おやおや。お世辞じゃないよ。どうしてそう思ったの?」

 ケイトは、深く息を吸い込んだ。

「アーチーという人が、私の演奏は論外だと仰いました」

「おお、アーチーさんが?」

「こう言ってはなんですが、あなたの指揮をそっくりそのまま再現したつもりでした。演奏も。なのに、どうして論外なんでしょう。私とあなたは何が違うんですか?」

 真剣な声音でケイトが問う。マエストロはちょっと考え、こう言った。

「じゃあ、今練習してみましょうか。もうすぐ全体合奏をするから、君が指揮を振って。できるでしょう?」

 たまたまそばを通りかかった団員が、その言葉を聞いて固まった。


 アンサンブルが終わった後、合奏形態になった楽団の前に立つのはケイトだった。緊張の面持ちで見渡す彼女を、複雑な表情の奏者たちが見返す。その中の数人は、感情を隠しきれずに「なんでこの人が」とはっきり顔で語っていた。


 指揮台に立つ彼女の傍らに控えるマエストロが、呑気に呼びかけた。

「皆、今回は彼女の指揮でよろしくね。楽譜ばっかり見てないでちゃんと指揮も見るんだよ」

「……はい!」

 マエストロの指示だから、仕方がない。団員たちは各々の楽器を構えた。ケイトも杖をかかげる。


 滑り出しは上々だった__いつもと変わらない上質な音楽が、練習場に溢れ出した。だが、じきにテンポが乱れ、やたらと遅くなったり駆け足になったりした。そして、拍が変わった途端、合奏は決定的に崩れてしまった。

「ストップ」

 マエストロが冷静に音楽を止めさせた。そしてケイトを見上げる。いつになく真面目な表情だ。

「そこ、拍が変わったのは分かっているね? 今まで通り四拍子で振っていたらいけないよ。指揮と演奏がずれて意味がなくなるし何より皆が混乱する。はい、もう一度」

 数秒後、同じところでマエストロはまた音楽を止めた。

「八六(八分の六拍子)の振り方は、こう。タタタ・タタタのリズムだからね。一小節にどの長さの音符がいくつ入っているか、振る側も常に意識しないといけない。この曲は変拍子が多いから、奏者が惑わないように指揮者は楽譜を頭に叩き込んで。場合によってはその杖でテンポを叩いてあげた方がいいかもしれない。__自分の言っていることが分かりますか?」

 ケイトは凍りつき、……それから首を振った。団員たちがざわめく。

「静かに。さあ、続けましょう。ここはもういいから、次のフレーズ……練習記号Cから入ってください。アウフタクト(フレーズの出だしが小節の頭以外から始まること)ある人はそこから入って」

 ケイトは杖を振った。だが、下ろすよりも前にクラリネットが吹き始めたので、動揺して動きを止めた。

「続けて。合ってるでしょう?」

 マエストロはそう言ったが、ケイトの混乱したような目に気づき、

「今のがアウフタクトです。小節の頭よりも数拍先にフレーズが始まることもあります」

 と注釈を添えた。


 少しだけ演奏して、また止めて。マエストロが注意するのは、主にケイト相手だった。その間奏者は退屈だ。楽器が冷えないように息を吹き込んだり、たまった唾を抜いたりしながら、彼らは思った。


 ケイトは、もしかして指揮の振り方を分かっていないのではないか?


 だって、マエストロがさっきから指摘しているのは、奏者でも分かるようなことだ。テンポを正確に刻む、拍の変わりを指揮棒で示す。指揮者ならば当たり前のことだと思っていたし、実際マエストロの代振りをする団員は指揮の基本をみっちり彼から叩き込まれている。


 けど、そんなはずはない。妖精相手に、彼女は立派に指揮を振っていた。振り方はマエストロにそっくりだし、妖精たちは完璧に演奏をこなしていたし。


「……僕らが下手なの? それとも……?」

 一人がこっそりと呟いた言葉に、隣の団員が声を殺して笑った。


「__今自分が言ったことを踏まえて、もう一度。いいね? ケイト」

「……もう、いいです」

 ケイトは杖を下ろし、力なく首を振った。

「あなたと私が全然違うってこと、よく分かりました」

「分かってほしいのは、そこじゃないよ」

 マエストロが即座にそう返した。

「指揮の役割はさ、皆の音楽に合わせて前で優雅に踊ることじゃない。皆と一緒に__いや、自ら主導して音楽を作っていくんだ。皆がどのくらいの速度で、どんな風に吹くのかを曲の最後まできちんと示していかなければならない。実際に音楽を奏でてくれるのは自分じゃなくて皆だから、皆が惑わずに、その時最高の演奏ができるように力を尽くす。それが指揮者だよ。指揮者が正確に振れていなかったら、最悪演奏が崩れてしまうからね。それはもう必死にやらせてもらってます。……そしてミスをしたら、全力で謝ります」

 笑いが起きた。

「自分の指揮を模倣して、これからもやっていくつもりなら、指揮者としての心構えは決して忘れないでほしい。妖精相手の指揮者ごっこを続けるつもりなら話は別だけどね。__きっと、それ以上の役割を求められるでしょうから」

 驚きの声が、奏者たちから漏れた。マエストロは厳しい口調で彼女に言う。

「今のままでは、君は自分の代わりにはなれないよ」

 聴いている間、ケイトはうつむいていた。マエストロは話し終えると、総譜の下に置いてあった楽典を彼女に差し出した。

「拍、音楽記号、和音__生身の演奏者に指揮者が指示するべきことは山ほどある。これ一冊あげるから、勉強してほしいな。きっと君の役に立つ。頑張りなさい、未来のマエストラ」

 楽典を受け取り、ケイトは黙って頭を下げた。そして、逃げるように練習場を飛び出した。


 

 練習場の外は寒かった。マントを体にしっかりと巻きつけ、楽典を抱えたケイトは震えた。

 夜の闇から、するりと金髪の青年が現れた。

「大丈夫? ケイト?」

 はっと顔を上げ、ケイトは青年を見つめた。

「……ええ、大丈夫」

「あの連中に、嫌みでも言われなかった?」

 ケイトはちょっと笑った。

「ええ、少しは言われたわ。……でも、いいの」

 青年はそばかすが散った顔をしかめ、彼女の手を取った。しっかりと抱えた楽典にふと目を止め、咎めるように尋ねる。

「それは何?」

「ああ……これ」

 ケイトは楽典を見下ろし、それから青年に視線を戻した。

「マエストロがくれた」

 青年は黙っていた。ケイトも黙っていた__数瞬の後、彼女は楽典を地面に放り捨て、足で踏みつけた。表紙が破れ、紙が曲がった。


 ケイトは笑い声を上げた。

「馬鹿みたい、あいつ。私に指揮のことを教えようとするだなんて!」

「甘っちょろい偽善者だからね」

 青年は微笑んだ。

「でも、参考になった?」

「……いいえ。音楽なんて興味ないもの。私はただ、あなたのためにあいつを真似しているだけ」

「そうだね、その通りだ」

 青年の顔が、髪が、ゆっくりと変わっていく。そばかすは消え、金の髪は黒く変わり、服装も立派に__青年が消えたかわりに出現したのは、レイモンド王太子だった。

「ケイト、君には感謝してもしきれない」

「感謝だなんて言わないで。私はあなたで、あなたは私なの。あなたのためなら何でもすると言ったでしょ」

 レイモンド王太子はケイトをきつく抱きしめ、そっと口づけした。

「……城に戻ろうか?」

「先に帰ってて。あと少し、やるべきことが残ってる」

「それは私がやろう」

「いいえ、私が。あなたには穢れない存在でいてほしいの」

 レイモンドを押し戻し、ケイトは微笑んだ。

「……じゃあ、また後で」

 レイモンドは最後にもう一度彼女の頬にキスをして、姿を消した。ケイトは楽典の残骸を拾い上げ、ぐちゃぐちゃに破損したそれをそっとふところにしまった。


 足音がする。身を隠して様子を窺うと、昼間会ったアーチーが練習場目指して歩いてきた。きっと、楽団が練習場で合奏をしていると知って聴きに来たのだろう。


「マエストロのファンなんて、レイの王国には必要ないわ__例え、魔法使いであっても」

 ケイトはそう独りごち、杖を老人に向けた。邪悪な魔法が彼女の胸の奥で膨らみ、手から杖に流れた。



 翌日、マエストロとパーシヴァルは、アーチーの葬式に参列した。練習場の近くの水路に落ちて死んでいるところを朝発見されたのだ。

 地元の名士だった彼の葬式には、たくさんの参列者がいた。役人のハリスとブランも、唐突な別れに茫然としているようだ。


 魔法使いたちは、亡くなった友への手向けに、自分の髪を一房切ってそなえた。魔法無アンマジカルしのあなた方はどうするのかと注目された時、マエストロとパーシヴァルはこう答えた。

「魔法の代わりに、我々は音楽を。自分が差し出しうる最上のものを」

 

 二人で歌う鎮魂歌を、やがてその場に居合わせた皆が唱和した。視界の隅で、アーチーの孫が泣きじゃくっている。彼の妻が虚ろな表情でなぐさめながら、歌を聴いていた。


 マエストロは、横たわるアーチーを見つめ、感情を抑えて歌った。どれだけ心をこめて歌っても、『ラーク』が良い演奏をしても、彼が嬉しそうに褒めてくれることはこの先決してない。


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