第七話 第六の幸福をもたらす宿
ある朝マエストロは思った__そうだ、海に行こう。
と言っても、目的は遊ぶことではない。ラポールの北部は海に面した賑やかな街だが、そこでも魔法の不調が発生しているらしいのだ。
ラポール王国軍の最高責任者、テオドール・ラズリー元帥(マエストロの友人でもある)から渡された国内地図には、現在魔力が薄まっている地区に×印がつけられている。
魔法使いや魔女たちは、世界に満ちた魔力を用いて自分のやりたいことをする。マエストロが呼吸のために空気を必要としたり、生きていくために物を食べるのと同じように。そんなごく当たり前の営みを、魔法使いも、魔法無しも疑ったことはない。
だが、皿にのった肉は食べてしまえば目の前から消えてなくなるように、魔法を使うたびに魔力は少しずつ目減りしていく。大半の魔法使いはそれを知らないため、自分の思うがままに魔法を使い、どんどん魔力を減らしていく__社会生活を維持していくための十分な魔力の確保は、どの国にとっても悩みの種だった。
そんな中、『マエストロ』と呼ばれる中年男の活動が、各国で注目を集めている。彼は指揮者で、あちこちの魔法無しに楽器を演奏させて回っているのだが、どういうわけか彼らが演奏すると、枯れかけた魔力が回復するという不思議な効果があるのである。
マエストロはラポール北部の海辺町、アルコムに出発した。それまでいた西部の田舎町から海辺までは相当の距離があったため、馬車や汽車ではなくドラゴンにのって移動した。
ドラゴンは、アルコムにマエストロを下ろすと、さっさと海の向こうへ飛んでいった。マエストロは手提げカバンを持ち直し、潮っからい空気をかぎながら、海沿いの一本道を歩き出す。
アルコム__海辺の小さな町。実は初めて訪れる町だ。そのため、この町に関する知識は、ほぼ本屋にあった観光ガイドブックでしか仕入れたことがない。観光が主な産業で、とりわけ、大がかりな魔法をかけて年がら年中泳ぐのにちょうどいい暑さにした浜辺が有名らしい。また、この町で採れる真珠はとても品質が高く、ラポール王室に献上したり、外国に輸出したりしているそうだ。
ところが今、マエストロが見る限り、浜辺に観光客らしい人間は一人もいない。がらんとして、ところどころにゴミが散らばった砂浜と、灰色に波が立つ海があるばかり。
その直接的な理由はマエストロにもよく分かった。普通に寒いからだ。冬の入り口という現在の季節に全くたがわない空気の冷たさ、どんよりと曇った空。これでは海に入ろうという者はとてもいないだろう。
「魔法で常夏状態にしているんじゃなかったかな?」
そう独り言を言いながら、マエストロはのんびりと歩く。まず今晩の宿を見つけなくては。かもめの鳴き交わす声ばかりがやけに大きく聞こえた。
驚いたことに、アルコムに宿屋はたった一軒しかなかった。空っぽの浜辺を見下ろす位置に建つ、『六福亭』という宿屋だ。これまたうらぶれた、小さくて古い建物だった。
宿屋を切り盛りするのは、テリーナという名の女だった。年はマエストロと同じくらいにみえた。髪は短く、魔法無しであることがすぐにわかった。
魔法無しの宿は、マエストロにとっても好都合だった。魔法使いが経営するホテルは、大抵魔法使いのために作られているため、魔法無しにとっては却って不便であることが多い。
テリーナに温かいお茶とケーキを出してもらったので、マエストロはふかふかの肘掛け椅子に座り、くつろぐことにした。外装に反して、建物の中はこざっぱりとしていた。壁紙は貼り替えたばかりでしみや破れ一つなないし、あちこち吊されたランプがあたたかく室内を照らしている。食器類は柄や色が少し古めかしいが、どれも磨き上げられていた。
「客は、自分だけですか」
マエストロが尋ねると、台所で働いていたテリーナが振り向いた。
「ええ、そうです」
無神経な問いに腹を立てている風でもなかったので、マエストロはさらに尋ねた。
「ここはたしか、魔法で冬でも泳げるようになっていると聞いたのですが……」
テリーナは笑い出した。
「それは、大昔の話です。あなたにそう吹き込んだ旅行業者がいたのなら、そいつはとんでもないペテン師ですよ」
マエストロがガイドブックを読んだのは、もう何年も前だ。
テリーナがマエストロの前に来て、教えてくれた。
「昔は、町全体でそんな魔法をかけたりもしていました。北部の寒い海なのに、冬でもバカンス気分が味わえる! って。確かにその計画は成功して、一時期たくさんの観光客が来ました。でも、だんだん魔法が効かなくなって……水温も気温もどんどん下がっていくので、旅行者はがっかり。そのうち、誰も来ないようになりました。元々夏でも寒い海だし、魚や貝よりも魔物が多いので、漁に出ても今ひとつふるいません。だから、来る人よりも出て行く人の方が多いですね」
テリーナは自嘲げに笑う。
「でも、真珠があるでしょう?」
マエストロが指摘すると、テリーナの笑みが消えた。
「……ええ、あります」
彼女は、マエストロに自分の右手を見せた。人差し指に、真珠の指輪がはまっている。少し歪んだ形の真珠だが、純白の輝きが美しい。
「今は、真珠が私たちの命綱です」
マエストロは、なんとも言えない気持ちになった。おそらく、大がかりな魔法を使い続けたせいでこの町の魔力は枯渇したのだろう。
魔力を取り戻す方法を、マエストロは勿論知っている。だが、この町のために音楽を演奏して、魔力を回復させて、その後はどうなる? 旅行者を呼び戻すためにまた前のように海へ魔法をかけ続ければ、同じ事が繰り返されるのではないか?
マエストロは、ため息をついた。今もまた別のどこかで、魔力が弱まっていることだろう。テオにもらった地図の×印は、消してもまた増え続ける。マエストロの体は一つしかないのに。
「お客さん、どうかしましたか?」
テリーナがきびきびと尋ねた。
「いいえ、何でも」
そう答え、さっさとすべきことをしようと立ち上がりかけたマエストロだが、ふと彼女に質問をした。
「この町に、オーケストラなどはありますか?」
テリーナは首を振った。
「ありませんねぇ」
「……そうですか」
マエストロはがっかりした。
「あ、でも、合唱団ならあります」
「おお!」
テリーナが微笑んだ。
「地元の年寄りばかりを寄せ集めたちっさな合唱団ですが、よかったら練習を見に来ては?」
その夜、マエストロはテリーナと一緒に町の集会所へ出かけた。十数人の団員が、楽譜を持ってピアノの前に集まっている。テリーナから聞いていた通り、老人の割合が高いようだが、歌う彼らの表情は明るかった。
テリーナが当然のように合唱に加わったので少し虚をつかれたが、元々団員だったのだろう。彼女のような魔法無しも、魔法使いも魔女もいる。練習に魔法は使われていないし、区別されている様子もない。
練習が休憩に入った時、テリーナがマエストロに近づいた。
「いかがでしたか、お客さん」
「ええ、とてもよかったと思います」
マエストロはにこやかにそう答えた。都会の合唱団のレベルには遠く及ばないが、歌い手の楽しさが伝わってくる合唱は良い合唱だ。
「歌われていたのは、この町の民謡ですか?」
「ええ。流行りの歌は知らないもんで」
マエストロは、少し変則的なその歌の拍を手で刻んでみた。メロディを口ずさみながら。
「そうそう、そんな感じです。上手上手。お客さん、もしかして音楽されてます?」
マエストロは素知らぬ顔でうなずいた。
「ええ、ほんの少しですが」
「じゃあ、一緒に歌いませんか?」
テリーナの誘いに乗って、マエストロも合唱に参加した。合唱団に指揮者はおらず、ピアノの伴奏が頼りらしい。指揮棒なしで小さく振っていると、いつの間にか団員たちがそれに合わせて歌うようになった。
練習が終わった後は、団員たちに誘われて町の酒場に行った。テリーナは先に宿屋へ帰っていったので、他の団員たちと乾杯した。彼らは酒が進むといっそう陽気になり、ほぼ貸し切り状態の酒場で歌を歌ったり、他の地方の話をしてくれとマエストロに頼んだ。
北部名物の米酒を飲みながら、マエストロは酒場の中を見渡した。魔法を使っている様子がない。
「みなさん、魔法をあまり使われないんですね?」
老人たちがうなずく。
「ここ数年、調子が出ねぇんだ。年のせいかな」
「昔は、魔法で海の魔物をひっ捕まえたり、海に魔法をかけてあったかくしたもんだったがな」
「魔法の使い過ぎかもしれませんね」
マエストロがさりげなく言うと、彼らは笑い飛ばした。
「魔法なんて、いくらかけてもいいもんだろう。魔法無しじゃあるまいし!」
マエストロは、静かに微笑んだ。そして、「酔いが回ってきたので」と言い、一足早く酒場を出て行った。
それから数日間、マエストロは合唱の練習に通った。ひょんなことからマエストロが都会からやってきた有名な指揮者(「そんなことないよ」と彼は謙遜するが)だと分かり、合唱の指揮を頼まれるようになった。本番が控えているわけでもないただの練習だが、指揮をするからには技術にも口を出したくなる。もらった楽譜を読み込みながら、歌う途中のちょっとした違和感を一つ一つ修正していった。
それ以外の時間は、宿屋でのんびりと過ごしていた。テリーナはそのうち、彼に留守を任せて出かけるようになった。彼女は毎日、午後の決まった時刻に宿屋を出て、それから数時間はもどってこない。いつも必ず、手提げの籠にケーキや林檎、サンドイッチなどを入れて持って行く。帰ってきた時には籠は空っぽだ。きっと注文を受けて、どこかの誰かに食事を届けているのだろう。
一人きりの静かな室内で、マエストロが紙に五線譜を引いていると、籠を提げたテリーナが帰ってきた。マエストロの手元の紙をちらりと見て、眉も動かさずに台所へと歩いて行く。だからマエストロはそのまま作業を続けた。
マエストロは作曲家ではないが、時々今まで聴いたことのないメロディが頭に浮かんで、何日も頑固に流れ続けることがある。そういう時は、生まれたばかりのメロディを楽譜に写してやった。どんな楽器で演奏するかを想像しながら、余裕がある時は和音を重ね、伴奏をメロディの下に敷き詰めたりして。
洗濯物籠を抱えたテリーナが、通りがけに尋ねた。
「歌ですか」
マエストロは答える。
「ええ」
テリーナはそれ以上何も聴かなかった。
ある日の練習終わりに、テリーナが少し寄り道をしたいと言った。
「お客さんに覚えておいてほしいことがあって」
「おや、何でしょう」
彼女がマエストロを案内したのは、宿屋からそう遠くない、少し入り組んだ海岸だった。岸に打ちつける波の音が、やけに耳によく響く。夜の海は真っ暗で何も見えず、ただ潮を乗せた風ばかりが海の気配をマエストロに知らせてくれた。
テリーナがランプに火を灯し、海岸をぼんやりと照らす。足元は意外に不安定で、脆い。思わず後ずさりしたマエストロにテリーナがうなずいた。
「ここが特にそうなんですが、浜以外の海岸はとても危険です。海流が強いので、水の中に入ろうものならあっと言う間に沖へとさらわれ、深い海底にまで引きずりこまれてしまいます。……魔物の仕業だと言われていますが、本当のところは私もわかりません」
「なるほど」
マエストロは唾をのんだ。酔ってうっかり足を滑らせでもしたら。
「ここで海に落ちた人の遺体は絶対に見つからないと言われています。……でも、反対に沖で溺れた人の遺体や服がここまで流れてくることもあります」
テリーナがランプを左右に動かし、海面を確かめた。マエストロはさっと目をそらす。
「……大丈夫、今夜は誰も帰ってきていません」
ランプを顔の前に戻し、テリーナはにっこりと笑った。
「そういうことだから、気をつけてください」
「……はい」
「六福亭」に帰ってきたころには、すっかり体が冷えてしまっていた。マエストロがお酒はないかと注文すると、テリーナが米酒を出してくれた。二人だけでささやかな晩酌をする。気持ちよく酔いながら、とりとめのない話をした。
「そういえば、テリーナさん。宿屋の名前にはどんな由来が?」
「さあ、よく知りません。私の祖父がつけた名前なんです」
彼女は、祖父が建てたこの宿屋を、両親から引き継いだそうだ。
「たぶん、良いこととか幸せが六つあるってことじゃないですか?」
彼女がいい加減に言った。
「六つ、ねえ。例えば何だと思いますか?」
マエストロの問いに、テリーナが即答する。
「お金」
「……そうですね、お金は大事ですね。他には?」
「お腹いっぱい食べられること。いつも元気なこと。人間関係が良いこと。うーん、あと……そうだ、退屈しないこと?」
「あと一つは?」
テリーナは考え込んだ。が、なかなか答えは出ない。
「じゃあ、逆にマエストロの幸せは?」
「音楽、友達、酒、自由、食事、健康」
「……いかにもあなたらしいご回答ですね」
半ば呆れているテリーナをよそに、マエストロはまだ数え続けている。
「あと、金、平穏、教え子が元気でいること、それと……魔法」
「魔法? 私たちは魔法無しなのに?」
マエストロはうなずいた。
「魔法使いも、魔法無しも。皆が幸せでいてくれたら自分も嬉しい」
そうつぶやき、コップの残りを飲み干した。
翌朝、宿屋で朝食を摂っていると、町の子どもたちが数人、元気な声で挨拶をしながら入ってきた。マエストロを指さし、「ダンスのおじさん!」と叫ぶ。__指揮を「ダンス」と勘違いしているらしい。
テリーナが台所から出てきて、朝食用にゆでた卵と切り分けたケーキを一つずつ、子どもたちに分けてやった。彼らがお礼を言う声に混ざって、甲高い泣き声が上がった。
「おや、泣いているのは誰?」
そう尋ねると、子どもたちはにやっとした。一人が、リュックの中から子猫を取り出す。ほわほわの産毛に包まれたその小さな猫は、盛んに鳴きながらまんまるい瞳でテリーナを見つめている。
「こいつ、学校の前に捨てられてたんだ。おばさんのところで飼わない?」
「看板猫になるよ」
子どもの手に乗るほどの大きさの猫が、かわいらしくみゃあと鳴いた。が、テリーナは顔を歪め、猫と子どもたちから離れた。
「駄目。飼いません。あなたたちの誰かが飼いなさい」
「えーっ!」
子どもたちは一斉に抗議した。
「だって、母さんも父さんも、飼っちゃ駄目だって言うんだもん!」
「僕らも手伝うよ。しつけもするし、ご飯の残りとか持ってきてあげるよ」
マエストロも加勢した。
「いいじゃないですか。客が増えるかもしれませんよ」
けれど、テリーナは怖い顔で首を振り続けるばかりだった。
「これ以上世話をするものが増えるのはごめんです。ただでさえうちには、手がかかるのがいるんだから」
マエストロは子どもたちと顔を見合わせ、自分の顔を指さしてみせた。それって俺のこと?
「とにかく、持って帰って。うちでは絶対に猫は飼わないの。何十年も前からそう決めているんです」
子どもたちが追い出されてとぼとぼと学校に戻っていった後、マエストロはなだめるように彼女に話しかけた。
「あー、テリーナさん__」
「駄目です」
彼女はぴしゃりとはねつける。
「猫は駄目なんです。昔、こっそり納屋で飼っていた猫を捨てさせられたことがあって。それ以来、猫は駄目。絶対に駄目」
マエストロはそれ以上何も言わないことにした。テリーナは黙って台所に戻っていく。
しばらくすると、町の役人が一人やってきた。自分に用事かとマエストロは構えたが、彼らは奥にいたテリーナを呼んだ。
「はいはい、いつもどうも」
愛想良く応えるテリーナに、役人がささやく。
「『あれ』を十粒頼む。今晩までに」
耳の良いマエストロは、ちゃんと聞いてしまった。テリーナを見ると、浮かない顔でうなずいている。
「……分かりました」
彼が去った後、マエストロは早速聞いた。
「『あれ』とは?」
「秘密です」
テリーナはそう言って、マエストロの皿をさっさと下げていった。
どうも気になる。そう思ったマエストロは、朝食後に宿屋を出て行ったテリーナの後をこっそりつけた。いつものように籠を持った彼女は後ろを振り返ることなく、浜辺を横切り、岩だらけの海岸に降りていき__姿を消した。
「えっ?」
マエストロは慌てて海岸を調べた。なんてことはない、人一人が四つん這いになってやっと通れるほどの大きさのトンネルがあった。最近痛風をわずらった身には辛いが、マエストロは身をかがめてトンネルを少しずつくぐった。手足の元の地面は岩だらけでごつごつとしている。頭や背中がトンネルの壁をかすめるたび、ばらばらと石が削れて落ちた。
トンネルの前方が、ぼうっと光っていた。今通っている場所よりは広い空間のようだ。膝の痛みが限界に達していたマエストロは、急いでトンネルを進む。船虫の群れが、ついた手の上を駆け抜けていった。
トンネルをやっと抜けると、目の前にしかめ顔のテリーナが立っていた。
「どうして、私の後をつけるんですか?」
「あー、いや……」
マエストロはごまかすように笑みを浮かべた。
「……自分がついてきてると、いつ気づきました?」
「あなたがトンネルで、ガサガサ音をたてていた時です!」
テリーナがふんと鼻を鳴らす。
「どうせ、今朝のことが気になったんでしょうけど」
「当たり」
かえってきたのは、冷たい視線だった。
「……まあ、ついてくるなら、どうぞ」
マエストロは勿論その言葉に甘えた。二人がいるのは広い洞窟だ。天井に開いた小さな穴から差し込む日の光と、テリーナが持ってきたランプで足元を照らし、潮だまりを避けて岩の上を歩いた。つるつると滑る小さな岩の塊はとても歩きにくいが、テリーナはすいすいと先を行く。マエストロが転んでも自己責任だと言わんばかりに。
「この先に『あれ』があるんですね?」
「来ればわかります」
テリーナはそっけない。
「まさか、違法な品物ではないでしょうね?」
「違います」
彼女はすぐさま言い返した。その後で、ゆっくりとマエストロを振り向いた。
「……違います」
彼女の顔は、ちょうど影に隠されていて見えない。
少し歩いて、すぐに行き止まりだった。大きな池がある。ランプで照らしても水底は見えなかった。潮の匂いが強く漂ってくるので、もしかしたら海につながっているのかもしれない。
誰も何もしていないのに、ゆるやかな波紋が水面に広がった。池の縁にテリーナがかがみこむ。彼女が無造作に地面に置いた籠を、マエストロは拾い上げた。
テリーナは水面に向かってささやいた。
「出ておいで、ミルク」
マエストロは息を呑んだ。だが、何も起こらない。再びテリーナが呼びかける。
「おいで、ミルク。大丈夫よ」
池に波がたった。
水底から、長い髪の少女が現れた。ぎょっとして思わずマエストロが叫ぶと、少女は再び水の中に消えた。テリーナが咎めるような目でマエストロを見て、それからまた呼んだ。
「怖がらないで、ミルク! 彼は私の友達だから。あなたを害する者はここにはいない」
ミルクはついに全貌を現した。
腰から上は、かわいらしい女の子だ。テリーナをいきいきした青い目で見つめ、水でぺっとりと濡れた深緑色の長い髪をかき上げた。しかし、彼女には足がなかった。足があるべき場所に、大きな貝の殻が口を開けていた。ちょうど、彼女がすっぽり収まるほどの大きさの貝が。
「ミルク、お腹は空いている?」
テリーナが優しく聞くと、女の子は大きくうなずいた。マエストロが差し出した籠からオレンジの果実を取り出し、皮をむいてから渡す。ほとんど一口で飲み込み、ミルクは嬉しそうに顔をほころばせた。
テリーナは池の縁に腰を下ろし、ミルクにあれこれと話しかけた。その一つ一つにミルクがうなずき、にこにこと笑っている。手持ち無沙汰のマエストロは、洞窟の壁を眺め、今作っている曲のメロディを脳内で流すことにした。乳白色の壁は、ランプの火に鈍く光っていた。
「……いい? お願いできる、ミルク」
テリーナの声が耳に飛び込んできた。見ると、ミルクが貝の中を両手で探り、それから満面の笑みでテリーナに差し出した。
その手の上には、きらきらと輝く真珠がのっていた。ちょうど十粒だ。
ミルクの手をそっと包み、テリーナはその真珠を籠に入れた。
「……ありがとう、ミルク。あなたは私の友達。私はあなたの友達」
友達、という言葉に反応したのか、ミルクが口を大きく開いた。だが、そこから声は出てこない。
貝の中に隠れ、ミルクがゆっくりと沈んでいくのを見守ってから、テリーナは立ち上がった。マエストロは彼女に並んだが、何を聞くべきかはたと迷った。
「…………『あれ』は、真珠のことだったんですね」
「そうです」
例の低いトンネルまでもどってきた。先にテリーナが身をかがめて通る。籠を持ったままではくぐるのも大変だろう。
「そして、あの子は、あなたの友達?」
「いいえ!」
テリーナが、怒ったように言い返す。
「友達だったら、あんな風に狭い洞窟に閉じ込めて、真珠を作らせ続けはしません!」
一足先にトンネルを抜けた彼女の声が、上から降ってくる。波にかき消されてしまいそうな、ささやき声。
「私はあの子を利用しているだけ。あの子は、何も分かっていないんです」
マエストロがようやく海岸に出た時、テリーナが言った。
「ひどいことをする、金の亡者だと思ったでしょう。どうぞ、この惨めな町を出て、新しい場所に行ってください。……でも、ミルクのことは、誰にも話さないでください」
テリーナは、籠を抱きしめた。
「あの子の真珠は、魔法無しの私にとっても、この町にとっても命綱なんです」
足早に宿屋へと帰るテリーナを少しの間その場で見送った。追いつかない方がいいと思ったからだ。彼女の指に光る、不格好な真珠と、いつぞやジェリゴー大臣の奧さんに自慢された、見事な出来栄えの真珠のネックレスを思い浮かべた。あれも確かアルコム産だと彼女は言っていたっけ。
遅れて宿屋に帰ってくると、ちょうど役人が真珠を受け取っていた。
「ご苦労。報酬だ」
そう言って彼がテリーナに渡したのは、銀貨を五枚だった。
役人が出て行ってから、マエストロは思わず声を上げた。
「これだけしかもらえないの!?」
大臣夫人のネックレスは、たしか金貨五十枚はしたはずだ。真珠十粒に銀貨五枚は、本当に適正価格なのか?
「もっと値段つり上げてやったら? 『彼女』に会えるのはあなただけなんでしょ?」
テリーナは首を振った。
「いいんです。別に、大金がほしいわけじゃないし。この宿を維持できるだけあれば」
それに、と彼女はつなげた。
「魔法使い相手に、あんまり強く出られないでしょう」
テリーナは、お茶にしましょうと言った。お茶請けに、オレンジを混ぜて焼いたクッキーが出た。
その日の夜、例によってマエストロは合唱団の練習に参加した。テリーナは少し頭が痛いと言っていたので、休むようにと半ば強引に置いてきた。マエストロの指導を受けるためにとその日は初回よりもずっとたくさんの人々が集まっていた。
マエストロは、アルコムの魔法使いたちを前にして問いかけた。
「皆さん、魔法がまた使えるようになったらいいと思いますか?」
魔法使いたちは、顔を見合わせてうなずいた。
「ああ、でも__」
「自分は、失われた魔力を取り戻す方法を知っています」
マエストロは少しの間黙り、人々の反応を見た。喜び、興奮を露わにする者。疑いの目をマエストロに向ける者。魔法が使えたころのことを懐かしく思い出しているらしい者。
「その方法を、教えましょう__いいですか、皆が楽しんで、歌を歌うことです。魔法使いも、魔法無しも。自分も最初だけそのお手伝いをしましょう。その後は、皆さんだけで大丈夫。魔力の使いすぎにだけ気をつければ、また前のように、海に魔法をかけて旅行者を集めることもできます。真珠を集めなくてもね」
「歌を歌うだけ?」
「そうです。今から、自分が指揮をします。それに合わせて歌いましょう。上手に歌おうとしなくていいんです。歌っている皆さんも、それを聴く人たちも、楽しい気持ちになれれば」
早速、人々は楽譜を広げた。指揮棒を構える前に。マエストロは真剣な表情で彼らを見渡す。
「ただし、約束してください」
集会所は静かになった。
「魔法使いの皆さんは、魔法が使えるようになったからといって、決して魔法無しを区別しないでほしい。我々は等しく人間です。魔法が使えないことは、虐げられる理由には決してならない。魔法を使えることは、誰かを見下していい理由にはなりません。__同じ町に生きる者同士、互いの差異を愛し助け合ってください」
どうかお願いします、とマエストロが頭を下げた。沈黙。そして……拍手が起きた。魔法無しも魔法使いも、真剣な表情で手を叩いている。
さあ、音楽の始まりだ。マエストロは指揮棒を上げ、ピアノ伴奏者に向かってうなずいた。
「……それで、魔法は使えるようになったんですか?」
テリーナの質問に、マエストロは大きくうなずいた。練習終わりのことである。宿屋に戻ってくると、テリーナはまだ起きて待っていた。
「何人か、さっそく空を飛んでいましたよ」
テリーナは笑った。
「私も行けばよかった」
「またこれから、何度でも機会はありますよ」
マエストロは澄ました顔でお茶を呑んだ。テリーナがふと呟く。
「あなたが作っていた歌……」
「ええ」
「もう出来上がりました?」
「もうあとちょっとってところです」
「この町にいる間に仕上げてくださいね。私も歌ってみたいので」
ぜひ、とマエストロはうなずいた。
翌朝、町の魔法使いたちが数人、テリーナを訪ねてきた。
「今まですまなかった」
彼は開口一番、テリーナに謝った。彼女は目を瞠る。
「あんたが魔法無しだから、たびたび失礼なことを言ったし、ずいぶん厄介事もおしつけた。申し訳ない」
いいんです、とテリーナが呟く。その表情は和やかだ。
「あの真珠……魔法が使えなかった何十年か、本当に町を助けてくれた。あれがなければ、アルコムは魚もとれない、観光もできないで波間に消えちまうところだった」
なかなかしゃれたことを言うではないか。
「これからは違いますね」
テリーナの言葉に、皆うなずく。
「あんたの宿屋もきっと繁盛するだろう。……それでだ、」
魔法使いは、不意に厳しい表情になった。
「あの真珠を産み出す魔物を、処分しておこうと思っているんだ」
テリーナはその場に固まった。マエストロが口を開きかけた時、彼女は片手を上げてそれを制した。
「……処分?」
「そう……だから……つまり」
魔法使いたちが言いよどんでいる。
「あんたになついているといっても、「あれ」は魔物だ。これまでの扱いに怒って、災いをもたらすかもしれない。それに、これから旅行者がたくさん来て、うっかりあれのいる洞窟に迷い込みでもしたら……」
「ミルクはとても優しい子よ。災いをもたらすなんてありえない!」
「そう、あれがとてもよくしつけられてるのは知ってる……でも、あれの扱いについては意見が分かれてて……その、あんたはそいつが可愛いだろうが、町の皆にとっては、恐ろしい化け物で……」
「つまり、皆が怖がっているからミルクを殺せと?」
「そう、はっきり言ってしまえばそういうことだ。……あんたも生粋のアルコム育ちだから分かるだろう? 皆が魔物をどんなに恐れているか。魔物は人間を死に引きずり込む!」
「テリーナ、あんたがまだ十代の頃にあの魔物を拾ってきた時には、皆とても大弱りだったんだ。だけど今の今まで生かしておいてやった……そろそろ潮時だ」
テリーナは、目の前の魔法使いを凝視していた。ゆっくりと口を開き、繰り返す。
「そう……そろそろ潮時なのかもしれない」
魔法使いたちは、あからさまにほっとした顔をした。
「ありがとう、テリーナ! あれに手を下すのは辛いだろうから、俺たちがいくらでも手を貸すよ」
「……どうも。少し時間をもらえますか? あの子にどう話すか考えなくては」
「ああ、ぜひ考えてくれ。なるべく戦いはしたくない」
魔法使いたちが外に出て、自分の家に帰っていくのを、テリーナは無表情で見張っていた。そして誰の姿も見えなくなると、おもむろに外に飛び出した。
「テリーナさん!」
マエストロは追いかけた。テリーナは浜辺を走り、ぐんぐん彼を引き離す。だが、マエストロはそこまで焦ってはいなかった。行き先はわかりきっている。
海岸に隠された、洞窟への狭い入り口。四つん這いになってごつごつしたトンネルをくぐった。先に行ったはずのテリーナの姿はもう見えない。だが、前方から派手な足音が聞こえた。
『ミルク』の池にたどり着く。テリーナは、池の中に入っていこうとしていた。マエストロは後ろから飛びつくようにして彼女を止めた。
「テリーナさん、何をするつもりですか?」
テリーナは答えず、靴を脱ぎ捨てて上着の袖をまくった。
「殺してはいけない! あの連中は俺が説得する! 彼女を生かしておくべきだと、皆きっと分かってくれるはずだ!」
テリーナが、くるりとマエストロを振り向いた。
「いいえ。あの人たちの言う通り。潮時だったんです。私はいつまでも生きられないのに、あの子は決して年を取らないんだもの」
「テリーナさん!」
テリーナは池に向き直り、叫んだ。
「ミルク! おいで、貝をかぶったままでここに来て! 私よ、テリーナよ!」
虹色の光沢を持つ、大きな貝が浮かび上がった。
テリーナは身を乗り出し、貝を抱きしめた。そして、それをそのまま持ち上げ、ふらつきながら立ち上がった。
マエストロはぎょっとした。貝を岩に叩きつけるのではないかと思ったのだ。だがテリーナは、貝を大切に抱きかかえたまま、ゆっくりと足を踏み出し、洞窟の出口へと進んだ。
トンネルの前で、彼女はよろけた。慌ててマエストロが受け止める。貝はぴったりと二枚の殻をとじ合わせ、ぴくりともしない。
「さて、このトンネルを……どうやって抜けましょうか」
呟くマエストロから、テリーナが貝を取り返す。
「私一人で十分です」
「……それは無茶ですよ」
しかし、テリーナは実行した__貝を先にして、トンネルの中で押しながら進んだ。天井すれすれの大きさの貝は、岩肌を削りながら少しずつ動く。
一度、貝がつっかえて、にっちもさっちもいかなくなった。テリーナがひゅっと息を吸い、悲鳴を上げた。マエストロは彼女の後ろから声をかける。
「落ち着いて! 必ずなんとかできます! トンネルを少し削っては?」
その言葉で、テリーナは正気に戻ったらしい。がりがりと岩を削るような音がしばらく聞こえ、それからまた貝が少し前に進んだ。
恐ろしく長い時間をかけて貝を外に出した後、マエストロとテリーナは海岸に寝転がった。暗いところにいたせいで目が眩み、体のあちこちが痛い。けれど、何故か気分は大曲を演奏し終わった時のように清々しい。
テリーナがゆっくりと体を起こし、ミルクの殻を優しくたたいた。
「ミルク、出ていらっしゃい」
ミルクは殻を開けた。よく動く目が、はてしなく広がる海を認め、はっと大きく広がった。テリーナの手を握り、何か聴きたそうにぱくぱくと口を動かす。
テリーナはうなずいた。
「そう、海よ。あなたの故郷よ。逃がしてあげる。__今までずっと、閉じ込めてごめんなさい」
頭を下げたテリーナの手を握ったまま、ミルクはもう一つの手で海を指差した。テリーナは微笑む。
「海に入れてあげましょう」
貝の中の少女を抱き上げたテリーナとマエストロは、浜へと向かった。浅瀬にミルクを下ろし、冷たい海水に足を浸す。早く温かくなる魔法をかけてほしいものだ。
ミルクは、波に身を任せ、ゆっくりと沖へと移動していく。__けれど、テリーナの手をまだ離さない。
「テリーナさん」
ミルクに連れられ、だんだん海の中まで入っていくテリーナに、マエストロが声をかけた。彼女はそろそろ、手を放さなければならない。
「マエストロ」
テリーナが、穏やかな声で呼んだ。
「子どもの時、私は最初の「ミルク」を捨てました。猫のミルクは、あっという間にどこかへ逃げて、もうそれっきり。どうなったのか、今でも分かりません。アルコムみたいな嫌な町から、逃げ出したのかもしれませんね」
ミルクが、テリーナをまっすぐ見上げて口を動かす。声は聞こえなくても、唇を読むことはできた。
一緒に来て。わたしの友達。ずっと一緒にいて。
「それから何年も経って、あの海岸に打ち上げられていたこのミルクを見つけた時、私は決意しました。今度は絶対に手放さない。誰にも見つからない場所に隠して、私が守る。もう二度と、見捨てはしない。親から受け継いだ宿屋を守りながら、ミルクの世話をするのが、幸せだと思っていました」
でも、違った。そうささやく彼女の胸元まで、海水は迫っていた。マエストロも彼女を追って海に浸かっている。伸ばした手に、彼女の片手が触れた。一瞬手を握り、それから彼女はするりと抜いた。真珠の指輪一つを彼の手に残して。
「本当は、猫のミルクを放した時、どこまでも追いかけたかった。私だけの友達と一緒に、ここじゃないどこかへ行く__それが私の、六番目の……そして最後の幸せです。それ以外は何もいらない」
陸に上がって下さい、マエストロ。そう言い残し、彼女は喉元まで海に浸かりながら、沖へと歩いていった。ミルクとしっかり手をつないだまま。
彼女の頭のてっぺんが見えなくなるまで、マエストロは浜辺に立っていた。
濡れた服を乾かし、宿屋に置いた鞄を持って、マエストロはいつか二人でやってきた入り江を訪れた。海岸の岩に座り、渦巻く海流を見つめながら待った。沖と入り江を行き来する海水が、テリーナを運んでくるのを。
しかし、いつまで待っていても、彼女は帰ってこない。やがて夜になった。マエストロはゆっくりと立ち上がり、まだ作曲中の楽譜を鞄から取り出した。
楽譜をちぎり、海面にまいた。海流が紙片を沖へと運んでくれることを期待しながら。そして、この町に来た時に使ったドラゴンを呼ぼうと笛を取り出し__寸前でやめた。行けるところまでは、歩いて行こう。




