8.『デート』と呼ぶらしい
帝都に越してきて最初の土曜。
「こういうの、西洋では『デート』と呼ぶらしいよ」
そう笑う雪之丞に誘われたのは、銀座の一角に位置するカフェだった。
カフェ・ブランスタ。表の看板にはそう書かれていた。
彼は慣れた調子で、大理石の床に革靴の音を響かせていく。背広に続いて歩くと、店内からはむわっとした煙草の匂いともう一つ、初めて嗅ぐ芳醇な匂いが漂ってきた。
二人席を見つけた雪之丞は、恭しく椅子を引く。
「こちらにお座りください、お嬢さん」
恐縮しながら腰掛ける。彼はメニューも見ずに頼むものを決めたというから、日鞠は咄嗟に目についたオレンジジュースを選んだ。
洗練された雰囲気に呑まれ縮こまっていると、雪之丞に顔を覗き込まれる。
「エスコートの真似までして、格好つけすぎたかな?」
「いえ、そんな! ただ、緊張してしまって」
格好つけるもなにも、彼以上にハイカラな男性は見たことがない。
豪奢なシャンデリアの下では、黒い制服の女給たちがてきぱきと動き回っている。格式高い帝都のカフェともなると教育も行き届いているのか、遠坂家にいる女中たちよりもよほど動きが洗練されているように思えた。
壁には大きな鏡がいくつも嵌め込まれていた。鏡に映る雪之丞は堂々と座っているのに対し、横の自分は自信なさげで浮いているような気がした。
落ち着かない気分のまま待っていると、やがて日鞠たちのところにも注文した飲み物が運ばれてくる。
雪之丞の前に置かれた真っ白な陶器からは、カフェに入った瞬間から日鞠の鼻をくすぐり続けていた香ばしい匂いと同じものが漂ってきた。
「コーヒーを見るのは初めてかな」
「これが、コーヒー……!」
雪之丞の視線に釣られ、テーブル上のカップを覗き込む。名前だけは耳にしたことがあったが、実物を見るのは初めてだった。
美しさすら感じられる純な焦茶色の水面には、興味深げな表情の日鞠がうっすらと反射していた。
「飲んでみる? 君には少し苦いかもしれないけれど」
「えっ! いえ、そのような、申し訳のないことはできません」
「せっかくなんだ、試してみるといい。夫の飲み物を一口貰う程度、誰も目くじら立てたりしないさ」
優しく勧めてくる雪之丞に押され、日鞠は恐る恐るカップを持ち上げる。そのまま手首を傾け、口内に流し込んだ。
「にっ……!?」
あまりの苦味に、日鞠の腕がぴくんと跳ねる。危うくコーヒーを床にひっくり返すところだった。
揺れる水面をどうにか平行に保ちソーサーに戻すと、くすくすと雪之丞が笑っているのが視界の端に見えた。
帝都の人間は当然のような顔をして、この焦茶色の液体を飲んでいるらしい。信じられなかった。
「ブランスタのコーヒーは――鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱い」
彼がすらすらと紡いだ言葉は遥か遠い異国、仏蘭西から伝わるものらしい。またコーヒー豆は、伯剌西爾という国のものだという。
教養をひけらかそうというわけでもなく、彼にとっては何気ない話なのだろう。商い以外についても博識な彼は、帝国大学という狭き門を潜り抜け学問を修めた人なのだということを改めて実感した。
「うん、やはりここのコーヒーは美味だな」
あんなに苦い飲み物だというのに、雪之丞は顔を顰めることもなく見事なまでの優雅さでコーヒーを飲んでいる。
一方の日鞠はオレンジジュースを一口含み、いまだに残る苦味を打ち消そうとしていた。
周りを見渡せば、身なりのいい紳士淑女や大学生と思われる男性客ばかり。コーヒーも飲めない小娘が連れて来てもらって良い店なのだろうか。段々肩身が狭くなってくる。
戸籍上の夫はそんな日鞠に構わず、目の前でコーヒーの香りを楽しむようにカップを揺らしている。
そんな彼が、どこか遠い人のように感じてしまって。
「旦那様は、慣れてらっしゃるんですね……」
だからか、そんな言葉がするりと口から出てきてしまった。遅れて、聞きようによっては責めているように捉えられかねないと気づく。
女の子を連れることに慣れているだとか、詰りたいわけではなかったのだが、卑屈に聞こえてしまったかもしれない。
しかし慌てる日鞠を見て、雪之丞はただの感想を正しく受け取ってくれたらしい。
「そうだね、学生時代によく通っていたから」
雪之丞はそう言って、ぐるりと店内中に視線を向ける。彼の声には懐かしさのようなものが滲んでいて、それが日鞠の心をくすぐった。
「学生時代? ご学友と、でしょうか?」
「そうだよ。ここで僕が女性を口説いてたと思った?」
「いえっ!」
揶揄われているのだとは分かりつつ、耳が熱くなる。オレンジジュースを一口飲み、彼を見上げた。
「ここではどんなふうに過ごされていたのですか?」
初めて出会ったときから、紳士然とした雪之丞に対し壁のようなものを感じていた。
だからこそ、ほんの僅かに見え隠れした彼の過去を、まだ学生だった頃の彼をもう少し知りたいと思った。
「そうだなぁ。友人と、論文解釈や国際情勢についての議論を交わしていたかな」
「わぁ」
流石は帝大の卒業生だ。感嘆していると、雪之丞はくすりと笑った。
「なんてね。そう言いたいところだけど、ふふ、半分くらいはくだらない話をしていたよ。芸妓に入れ上げ仕送りに手をつけた同期を皆で諭したり、女給を口説こうとする同期を見て賭けをしたり……っと」
そこまで口にして、苦笑した。
「こんな品のない話、女の子に話すものじゃなかったな」
漏れ出たのは確かに軽薄な内容ではあったが、それでも半分は本当に真面目な話をしていのか、と再び感嘆するばかりだった。
和やかに談笑を続けていると、女給がやって来る。
運ばれてきたのは二皿。ひたひたに卵液の染みた、黄金色のフレンチトーストだった。
まろやかな匂いが鼻をくすぐる。表面にところどころ入る焦げ色は、眩いばかりの卵の輝きを強調していた。
ごくりと、日鞠の喉が鳴る。
ナイフで切り分け、一口大になったものをフォークで刺す。恐る恐る口に入れてみれば、脳天を貫くほどの衝撃が全身に走った。
「お……美味しい、です!」
「気に入ったみたいで良かった」
向かいで同じくフレンチトーストを口に運んでいる雪之丞は、満足げに微笑む。
気づけば、いつの間にか肩の緊張も解けていた。恐縮しきっている日鞠のために、雪之丞はあえて冗談を口にしてくれたのだろう。
(私……こんなんじゃ、いけないわ)
帝都一の商人の妻が、カフェに来たというだけで震えるなど許されない。だから彼はわざわざ時間を作って、慣れるようにと連れ回してくれているのかもしれない。
日鞠は落ち着きを取り戻す。壁面の鏡をちらりと横目に、姿勢を正した。この身はもう遠坂家の長女ではない。初木家の新妻なのだ。
その時、カフェの空間を伝い、耳元にゆったりとした柔らかいメロディが運ばれてきた。
音の方向に視線をやると、一人の男性が店内のピアノを弾いているのが見えた。隣の雪之丞が微笑する。
「ピアニストの演奏か。良い時間に来たみたいだ」
優しい音が、店内を包み込む。その旋律はどこか、日鞠に懐かしさを感じさせた。
「この曲、どこかで……」
「ドイツの音楽家、シューマンの夢想曲──トロイメライだね」
博識な彼が、独り言を拾ってくれる。トロイメライと聞いて、日鞠の脳裏にある記憶が蘇った。
(あ……)
ふわふわとした聞き心地には、覚えがあった。これは、幼少期に母が弾いて聞かせてくれた曲だ。
夢想曲、トロイメライ。
『もう一曲しか覚えてないのよ』と笑う彼女に、幼い日鞠は何度も演奏をねだったものだった。しかし結局、遠坂の屋敷にあったピアノは芳子たちに勝手に売りにだされてしまう。
(夢想曲……まるで、夢の中にいるみたい)
夢と聞いて、日鞠が真っ先に連想するのは恐ろしい予知夢だった。しかし夢というのは何も、そればかりではない。
あたたかい夢だってたくさんあったはずなのだ。
雪之丞も演奏に耳を傾けながら、隣で静かにコーヒーを飲んでいる。曲が終わるまでのおよそ三分間、日鞠はピアノ越しに、かつての母の姿を思い返していたのだった。




