7.「……もっと撫でてほしいの?」
最初の晩。生まれて初めて男性と隣で眠るのだ、などと緊張していた日鞠だが、その緊張は無駄に終わることとなる。
というのも、雪之丞が寝室にやってくるより先に眠ってしまったのだ。朝起きたときにはもう彼は仕事に出ており、起床の挨拶もできなかったと己の失態に落ち込んだものだった。
そして、初木家の邸宅に居を移して早数日が経った夕方のこと。日鞠は玄関で雪之丞の帰りを待ち構えていた。今朝方見た、夢見を伝えるために。
「おかえりなさいませ、旦那様!」
遠坂の屋敷に来たときにはずっと着物を纏っていたが、帝都についてからの彼はほとんど洋装だった。『地方の有力者と話すときは、和装のほうが受けがいいんだ』とのことらしいが、スーツ姿の彼は眩しすぎて見慣れない。
「ずっとここで待っていたのかい? そんなことしなくていいんだよ」
「い、いえ。旦那様にお伝えしたいことがあって」
小さく手招きすると、彼は夢見の話だと理解したようで、身を屈めてくれた。日鞠は顔を寄せながら、廊下に見える花瓶を指差す。
「あの……あちらの花瓶は、高価なものなのでしょうか」
「ん? そうだね。普通の人間が一年暮らせるくらいの値段は付くな」
一年。想像しただけで頭が痛くなってくる額だったが、日鞠は意を決して伝える。
「旦那さまのお付きの方……英治さんがそちらの花瓶にぶつかって、割ってしまう夢を見ました」
「英治が?」
「恐らくは本日の夜に。この程度の予知夢なら避けることが出来るはずなので、気をつけるようにお伝えいただければと……」
屋敷に来たばかりの日鞠から、事情を知らない英治に直接「花瓶を割らないように気をつけてください」とは言えない。ならば雇い主である雪之丞に言ってもらうしかなかった。
「そうか。注意しておこう」
口角を上げた雪之丞に、するりと頭を撫でられる。予想だにしていなかった感触に、肩がびくりと跳ねた。
まるで尻尾を突然触られた猫のような反応をした日鞠に、雪之丞は苦笑いを浮かべた。
「すまない。嫌だった?」
「いえ、その……頭を撫でられるなんて、久方ぶりだったので」
最後に撫でられたのは、まだ母親が生きていたときだった。数年ぶりの感覚に、心臓が忙しなく動き始める。
すぐ近く、ジャケットからふわりと薫ってくるのは、煙草の匂いだろうか。和服の袖から漂っていた伽羅の匂いとは全く違う。むしろ、こちらが彼のいつもの匂いなのかもしれないと思った。
雪之丞が端整な顔を寄せ、覗き込んでくる。
「つまり。嫌ではないんだね?」
問われ、日鞠は素直に頷く。それどころか、むしろ。
「……もっと撫でてほしいの?」
──もっと、撫でてほしい?
少し考えて、日鞠はまた頷く。そこでやっと、自分の望みを知った。
芽生えた感情が丁寧に摘み取られ、言葉にされていく感覚は、どこかくすぐったいものだった。
「可愛らしいお嬢さんだ」
ふっと笑った雪之丞によって、更に頭を撫でられる。大きな手のひらの温かさに、とくんと胸の奥が音を立てた。
***
雪之丞の書斎にノックの音が響く。「入れ」と短く指示をすれば、中に英治が飛び込んできた。
「申し訳ございません旦那様、先程廊下の花瓶を割ってしまいました! つきましてはこの黒田英治、如何なる処分も受ける所存でございます!」
開口一番、英治は大声で謝罪をし、そのまま床に頭を付ける。土下座の形になった部下を見て、雪之丞は口を開いた。
「顔を上げろ」
「いえ、出来ません!」
「いいから上げろと、くくっ……」
雪之丞は口を押さえる。しかしもはや、笑い声を堪え切ることは不可能だった。
「はは……あっはっは!」
「あ、あの?」
恐る恐る英治は顔を上げて、急に高笑いを始めた主人を見上げる。
「花瓶ぐらい、いくらでも割るといいさ。僕はね、そんなものよりもずっと、ずっと価値のあるものを手に入れたのかもしれない……くくっ!」
ひとしきり笑い終えたあと、雪之丞は英治に視線を送った。
「――黄金の卵を産むガチョウ」
「え?」
「寓話だよ、英治。知っているか?」
様子のおかしい主人から投げられた突然の話題に、英治はただぽかんとする。雪之丞は側近の返答など構わず続けた。
「ある男がね、毎日一つ黄金の卵を産むガチョウを持っていたんだ。しかしその男は欲に負けてガチョウの腹を裂き、結果二度と卵を得ることは出来なくなった」
古代ギリシアで伝えられた寓話。雪之丞は帝国大学時代に、英訳されたそれを読んだことがあった。
「愚かな男だと思ったよ。僕ならもっと上手く使うのに、大切に大切に、最大限の利益を引き出してやるのに……と」
雪之丞の腹から、収まったはずの笑いがまた込み上げてくる。
「くくっ、そしてお前は今、証明したんだ。最高だよ、英治!」
英治は困惑の表情を浮かべ、頬を掻く。
「なんというか、ご機嫌ですね……? てっきり『花瓶の損害の倍額稼ぐまで帰ってくるな』とでも言われるかと」
「お前ね、主人のことを一体何だと思ってるんだ」
「金稼ぎにしか興味のない性悪腹黒冷酷野郎?」
「首になりたいか?」
「勘弁してください〜……」
今でこそ主人と部下という立場ではあるが、二人は元々幼馴染みであり、長い付き合いだった。
英治は「金勘定のしすぎで、ついにおかしくなったか?」というような視線を向けているが、それすら今の雪之丞には気にならない。
「あぁ、そうだ。僕の奥方のことは、これ以上なく丁重に扱うように。彼女の望みはできる限り叶えてやってほしい」
「は、はぁ……」
上機嫌な雪之丞を見て、英治は怪訝そうな顔を隠そうともしない。
「何だ英治、変な顔をして。言いたいことがあるならば、遠慮なく言うといい」
「いや、変な顔は失礼だろ!」
『遠慮なく』と指示すれば、英治は右腕の仮面を外す。二人のときはこうして、かつてのような口調で話すこともあった。
「まぁ、珍しいというか、らしくないというか。お前、女性に興味なんてなかっただろ。一に商売、二に商売。三四がなくて、五に利権。女の入る隙があるとすれば、それだって金の絡んだときだ」
「人を金の奴隷みたいに言わないでくれ」
「金の奴隷、でなければ金庫番か? 本当、あの奥様に随分と惚れ込んだもんだ」
「惚れ込んだ? ああ、そうだな」
不思議そうに首を傾げている腹心に、にやりと笑ってみせる。
結婚という文脈において、追求するものは最大利益。雪之丞は一年ほど前から、結婚相手を慎重に吟味していた。
今欲しいのはまず家格。しかし上位華族が卑しい成金の商人風情を受け入れることはないだろう。そこで中位・下位の華族を狙うことにした。
もちろん実権を握ることが出来そうか、というのも重要な視点だ。帝都掌握を第一の目標にしている以上、地方の外戚に事業介入を目論まれるようなことは避けたい。
次に重要なのは、相手方の家からもたらされる利益が大きいこと。これについては、相手方の自覚が無い方が有利になる。向こうが理解していない権益については、容赦無く買い叩くつもりでいた。
このような複合的な観点から、候補に挙がった一つが地方華族である遠坂家だった。伯爵位こそ持つものの、近年の財政状況は悪化の一途を辿り、負債も積み上がっている。しかしこれは単純に、資源を活かせていない為政者の腕が悪いだけだと分かっている。
極めつきは、遠坂家の所有する土地の付近に、国営計画が上っているという情報を得たことだった。土地開発は雪之丞の得意分野であり、最大限に『使える』自信があった。
明らかに落ち目の遠坂家がまだどこにも付け込まれていなかったのは、他家が完全に瓦解したところを掠め取ろうと考えていたからだろう。ならばその前に直接手を入れ、根こそぎ利益を引っ張ってやれば良いのだ。
現在実権を握っているのが傲慢そうな未亡人、遠坂芳子だというのは気になったが、失脚させるのは容易だろう。
──商人が金で、華族の娘を買う。
伝統的な家であれば下位華族だとしても顔を顰める話だが、あの後妻は所詮、平民出身だ。華族の感覚は決して、理解できないはず。
しかし結局設けた見合いの日、商人の心を奪ったのは別の娘だった。
絡まれているところを助けた少女は直後、馬車事故から雪之丞を救った。華族の正統な子女でありながら、あらゆる権利を奪われている彼女はなんと、『夢見』などという特異な能力を有しているという。
商売人としての勘が、これを逃してはならないとけたたましい鐘のように鳴る。そして世間知らずな娘を攫うようにして、商売道具に仕立て上げることにしたのだ。
遠坂の土地と伯爵家の血筋を手に入れただけでも十分だというのに、なんて幸運なのだろうか。
屋敷に来てからの日鞠の、不安げな瞳を思い出す。自分がこの待遇に足り得る人間なのかと、気負いすぎているのだろう。
(――御し易そうな娘だ)
謙虚で従順な妻への雪之丞の評価は、正直にいえばそんなところであった。
(契約は自分に有利な条件で結ぶ。それが商人の第一目標だ)
雪之丞は万年筆の先端を、室内灯に透かす。
ちらちらと影から漏れる光が眩しい。
「あの娘は僕の、黄金の――いや」
ガチョウ呼ばわりは流石にどうかと思って、逡巡する。
先ほどは「金稼ぎにしか興味のない性悪腹黒冷酷野郎」とまで言われたが、何なら「命の恩人すら道具にする屑野郎」という文言を足してもいい。自分の最低な性分はよく理解している。
「そうだな……彼女は僕の、幸運の女神といったところだ」
長い睫毛の下、漆黒の瞳がぎらりと輝く。
(これを使わずして、何が商人だ?)
すこぶる機嫌のいい友人兼主人を見て、英治はますます眉の彫りを深めるのだった。
微クズヒーローです。こんなに余裕こいている男が、のちのち……




