9.天才商人の目に狂いはない
カフェ・ブランスタを出た後、連れられた先は帝都劇場だった。帝都で最も格式高い劇場だと聞けば、また身がすくみそうだった。
館内にいるのは紳士淑女然とした人々。田舎者の自覚がある日鞠はただただ場違いな気分だった。しかし雪之丞は臆した様子もなく、それどころか慣れた様子ですいすいと中へ入って行く。
劇場で雪之丞がチケットを見せると、黒いスーツを着た男が恭しく案内してくれる。他の客と区切られた小さな箱型のそれは、明らかに他と異なる、高級な席だった。
それに気づいた日鞠は、緊張で一瞬歩き方を忘れてしまう。右手と右足が一緒に出そうになったところで、横から笑い声が聞こえた。
「そんなに緊張しなくていいのに。どうせボックス席だから、僕以外の目もない」
(貴方の目が一番気になるのに!)とは言えないでいると、雪之丞に顔を覗き込まれる。
「緊張だけじゃないね。浮かない顔だ。劇、興味なかった?」
「いえ、まさか……! とっても楽しみです、観劇は初めてなので……ですがお忙しい旦那様のせっかくのお休みを、私が使って良いものかと」
遠慮がちに目を伏せる。『デート』の間、ちらちらとそんな考えが頭に浮かんでいたのだ。
雪之丞は日鞠をボックス席に座らせると、口を開いた。
「実は僕ね、楽しみにしていたんだよ。君とこうして休日を過ごすのをね」
そんなふうに言ってもらえるとは思っておらず、驚いて隣を見上げる。彼は照れくさそうに笑い、そして鞄から何かを取り出す。
「だけど柄にもなく、緊張していたんだろう……お嬢さんへのプレゼントを、今の今まで渡すタイミングを見つけられないでいたんだ。受け取ってくれるかい?」
「えっ!?」
彼は、取り出した小さな縦長の箱をゆっくりと開ける。中からは──レースの白いリボンが現れた。
「わぁ……っ」
思わずその繊細な意匠と輝きに目を奪われ、日鞠は感嘆のため息を漏らす。しかし、感動に遅れて湧き出てきたのは、恐れ多さと困惑だった。
「ですが、私なんかにはもったいな──きゃっ!?」
丁重に返そうとした瞬間、雪之丞に腰を引き寄せられる。ボックス席とはいえ、大胆すぎる行動に思わず固まる。しかし彼は何やら、日鞠の髪をいじっているだけのようだった。
「……よし。やはり僕の目に狂いはなかったな。ほら、よく似合っているよ」
彼は満足げに頷くと、手鏡を取り出して渡してくれる。そこに写っていたのは、長い黒髪に白いリボンをくくりつけた清廉な少女。
まるで帝都の最先端にいるかのような洗練された雰囲気に、本当にこれが自分なのかと驚いてしまう。思わずレースに触れ、その肌触りに感動していると、彼がくすりと笑う声が聞こえた。
「凄く綺麗だ。ふっ、もうこれは君のものなんだから、大人しくもらってくれよ?」
髪に結われ、そう言い含められてしまえば、日鞠も頷くしかなかった。そもそも彼が最初から箱の中を開けて見せたのは、日鞠がなかなか受け取らないだろうと予測してのことだったのだろう。
「あのっ、旦那様。本当にありがとうございます……! 本当に嬉しいです、大切にいたしますね」
「良かった、本当に受け取ってくれなかったらどうしようかと思ったよ。その時はもう、僕がつけて帰るしかなかったな」
肩をすくめる彼の言葉に、つられて笑ってしまう。内心(こんなに綺麗な人がつけたら、私なんかより似合ってしまうわ)と思ったが、口には出さないでおいた。
「それにしても、リボンをつけるのまで上手なんて。さすがは呉服を扱っている商人さんですね」
「あぁ。小さい頃に、姉に髪を結う手伝いをさせられていたから。このくらいはね」
それは実のところ、『昔の女で練習したわけではないよ』という潔白の主張であったのだが、他意のなかった日鞠には特に意味のないものだった。
「お姉様、ですか? あ! 以前お話しされていた」
そういえば、屋敷に迎え入れられた日に、「姉の子に初木屋の事業を継がせようと思っている」という話を聞いたばかりだった。
「実はこのチケットも、姉が送ってきたものなんだ。随分とこの題目を気に入っているみたいでね。『奥さんと見るまで一等席のチケットを送り続けるぞ』、なんて脅されてしまったよ」
大袈裟に肩をすくめる雪之丞を見て、少しだけ緊張が解れた。
「ふふ、お姉様と仲がよろしいのですね」
「どうかな。世話焼きなのは確かだから、君も気をつけてくれよ。きっと近いうちに会うことになるだろうから」
聞くと、雪之丞の姉は三つ年上で、現在は二児の母だという。
談笑をしているうちに劇場が暗くなり、幕が上がる。劇の舞台はどうやら西洋のようで、主人公の女性は華やかなドレスを身に纏っていた。
(綺麗……!)
天井からライトを浴びて、舞台上を駆ける役者たちに日鞠はすぐに夢中になる。
『オレアン国の姫君』という題目のそれは、貴族の姫君と騎士の悲恋の物語だった。
身分違いの恋をするオレアン国の姫君とその騎士。二人は切なく逢瀬を重ねるも、結局姫君は家のために別の男と結婚する、という内容だった。
切ない結末に涙を流していると、横からハンカチが差し出された。ありがたく受け取って、雫を拭く。
「すみません、旦那様。ありがとうございます」
「君は……想う人とか、交際相手とか。居なかった?」
「え?」
見上げると、普段は余裕綽々といった雪之丞の瞳が伏せられていた。
泣いたのは劇に感動してのことだったが、何か勘違いさせてしまったかもしれない。日鞠は慌てて否定する。
「そのような方はおりません! そもそも、殿方との出会いもございませんでしたし」
「そう? 華族の女学生と書生の恋だとか、よく聞くけれど」
「……私は、女学校には行っておりませんので」
正確には、『行かせてもらえなかった』。言葉にせずとも察したようで、雪之丞は眉を顰める。
「あの家族に禁じられていたの?」
「……私のような者が女学校へ行っても、遠坂の恥を晒すだけです」
華族の娘であれば、家庭教師を付けたり、女学校に通ったりする者も多い。しかし日鞠はそのどちらも許してはもらえなかった。
義母たちに屈していたと露見するのが情けなくて、言い訳のように言葉を足すと、ますます雪之丞は険しい顔になってしまった。
「恥。そう言われたんだね? 全く、くだらない」
「え……?」
彼と出会ってから、日鞠は一体何度驚きを感じただろう。それでも、自分のために怒ってくれる人がまだ存在することが、信じられなかった。
「そうだな。なるべく早く、家庭教師を手配するよ。――僕が君を、帝都で一番の淑女にしてみせよう」
さらに雪之丞は、とんでもないことを言い始めた。日鞠は慌てて顔の前で手を振る。
「ですが、私のためにお手間をとらせてしまうなんてことは……」
しかし彼はすでに思案を始めているようだった。形のいい顎に手が当てられている。
「いや。元々、芸事の教師は雇おうと思っていたんだ。君が日中、暇を持て余すだろうなって。だけどこれなら、語学と教養を中心に教師を選ぶことにするよ」
(ああ、成る程)
戸惑い熱を持っていた頭が、急に冷却される。
自分のために気を遣ってくれただなんて、どうしてそんな誤解ができたのだろう。少しでも舞い上がってしまった己の浅ましさに、恥ずかしさが込み上げてくる。
元々遠坂家への縁談は、華族の血筋を求めてのものだったのだ。ならば華族の令嬢らしい振る舞いと教養を身につけていなければ、彼に恥をかかせてしまうだけだ。
毎日のように恩が積み上がっていく。彼に損をさせてはならない。
すぅっと息を吸い、微笑みを浮かべる。それだけが、少女に唯一残されている矜持だった。
「お心遣い、ありがとうございます。旦那様に相応しい妻になれるよう、精一杯努めます」




