10.たかだか商売道具には
劇場から出ると、先ほどまで晴れていた空は雲で覆われていた。冷たい風が着物の袖から入り込み、日鞠はぶるりと身体を震わせる。
「寒い?」
大丈夫です、と言うよりも先に、肩にそっと柔らかな重みがかかる。雪之丞が自分の羽織を、日鞠にかけてくれたのだ。
「身体を冷やさないようにね」
「ですが、旦那様は……」
「僕はむしろ、暑いくらいだったから。少しくらい格好つけさせてくれ」
彼は片目を瞑る。そう言われてしまえば、「ありがとうございます」と口にするしか無くなる。彼のさりげない気遣いに、胸の奥にじんわりとしたあたたかいものが溜まった。
そのまま後ろを歩いていると、前方が何やら騒がしいことに気づいた。
ひょいと顔を傾けてみると、人々が何やら集まっているのが見えたのだった。
「さぁさお立ち会い!」
大きな声に、思わずびくっとしてしまう。声の主は小柄な男。歌舞伎の劇場前で、呼び込みをしているようだった。
「愛のために全てを捨てた男と、健気な遊女の宿命の悲恋! 人情、人情、義理人情! しかしその想いは決して許されない! 『成せば悲恋、成さねば地獄』、あの世の約束をした二人は、心中を選ぶ――!?」
興味を唆る口上だったが、それ以上によく通る声だと感心する。彼の言葉に釣られ、道行く人々が次々と劇場の中に入って行くのが見えた。
すぐ近くからも「心中ですって」などと婦人が囃し立てるような声が聞こえてくる。
しかし隣の雪之丞は立ち止まったままだ。不思議に思った日鞠は長身の彼を見上げる。
呼び込みの男を見つめる雪之丞は、ぞっとするほど冷たい瞳をしていた。
「『成せば悲恋、成さねば地獄』……」
「え?」
彼が復唱したのは、今し方客引きが口にした言葉だった。
「恋情に振り回されて全てを捨てる、ね。 愚かしい。よくもそんなくだらない話を見に行こうと思うものだ」
吐き捨てた雪之丞は、長い足を進める。彼の歩幅は広く、日鞠は着いていくのがやっとだった。
しばらく遠くを見つめて歩いていた雪之丞だったが、路面電車の駅に着くころにはすっかり元の調子に戻っていた。まるで何も無かったかのように、歩幅も合うようになる。
それまでの一日中ずっと、日鞠に歩幅を合わせてくれていたのだろう。やっと気づいた。しかし。
(旦那様の様子が変わったあの一瞬は、何だったの……?)
**
その後連れ立って屋敷に戻ると、雪之丞は「仕事があるから」と言ってさっさと書斎にこもってしまった。やはり彼は劇場を出てからどこか、様子がおかしい。
一体どうしたのだろうと考えながら自室に戻ったところで、雪之丞の上着を返しそびれていたことに気づいた。
「返して参りましょうか?」
専属女中の八重は申し出てくれたが、日鞠は首を横に振った。自分が借りたのだから、自分で返すべきだと。そのまま彼女を連れ立って、雪之丞の書斎と向かう。ノックをして名乗ると、「入って」と短い声が聞こえた。
入室した瞬間、壁から漂ってきたのはむわりとした煙草の匂いだ。日鞠の前でこそ吸わないないだけで、彼は結構な喫煙者なのだろう。
「旦那様、突然申し訳ございません。上着を返しそびれていたことに気づきまして……」
「あぁ。そこの椅子に掛けておいてもらってもいいかな」
椅子に座ったまま、雪之丞は顔を上げた。いつも通りの笑顔に、違和感を覚える。しかしその違和感の正体までは掴めなかった。
「そうだ、英治を呼んでくれるかい。少し……急ぎの用事があってね」
「急ぎの……! お忙しいところ失礼しました、呼んで参りますね」
「すまないね」
頷いた日鞠は八重を伴って部屋を出ると、ちょうど向かいから英治が歩いてきているところだった。「旦那さまがお呼びでした」と伝えて、日鞠は自らの部屋に足を進めようとするが……。
「旦那様!?」
そのとき、書斎の方から焦ったような英治の声が聞こえた。
「旦那様……おい雪之丞! しっかりしろ!」
慌てて日鞠も書斎に戻ると、雪之丞はぐったりと背もたれに身体を預けていた。粗野な口調になった英治は、雪之丞の頬を軽く叩いている。
「旦那様っ!」
一瞬、目の前が真っ暗になる。
――倒れた人間を見るのは、これが初めてではなかったから。
部屋に入ってきた日鞠を見て一瞬迷うような顔をした英治は、すぐに指示を飛ばす。
「八重、医者を!」
背後に控えていた八重は、即座に廊下に向かって駆け出した。一方の呆然としている日鞠に、英治は声をかけてくれる。
「脈はあります。大丈夫ですよ、奥様」
そこでようやく、暗闇のようだった視界が元に戻る。英治が雪之丞を寝室のベッドに下ろす間も、日鞠はただ見ていることしかできなかった。
やがて医者が部屋に入り、意識のない状態の雪之丞の診察を始める。
「旦那様の、ご容態は」
「ご心配なさらないでください、奥方様。発熱していますが大事はありません。これなら、二日もすれば回復するでしょう」
ほっと胸を撫で下ろす。薬を処方すると、医者は部屋を出て行った。
やはり、書斎を訪れた時に彼に覚えた違和感は、間違いではなかったのだ。
いつもの雪之丞だったなら、自ら立ち上がってドアを開けて、上着を受け取っていただろう。先程はきっとその気力すら無くて、笑顔を作るだけで精一杯だったに違いない。
「私、旦那様にご無理をさせてしまいました」
「奥様が気に病む必要はありませんよ。初木屋は薬も扱っていることですし、旦那様もすぐ良くなるでしょう。そもそもこれ、よくあることですからね!」
英治は大袈裟に手をあげる。安心させるような口ぶりに、思わずぽつりと言葉が溢れた。
「英治さんは……旦那様とお親しいのですね」
雪之丞、と。
英治は先ほど、主人をそう呼んでいた。口調もいつものような恭しいものではなく、まるで友人を相手にするような、砕けた喋り方だった。
「あぁ。旦那様とは、幼馴染なんですよ。実はね」
英治は頬を人差し指で掻く。浮かんでいたのは、柔らかい笑みだった。
「あいつはすぐに無理をするから。疲れを溜めていたんでしょうね」
その言葉に、はっとする。
ただでさえ多忙だというのに、雪之丞は婚礼のために地方と帝都を行き来していたのだ。さらには義家族のことで余計な負担までかけてしまった。日鞠が助けを求めたせいだ。
雪之丞が疲労を溜めていることにも気付かず、家を離れた自分だけは伸び伸びと過ごしていた。共に帝都に連れ立つことに、心まで弾ませてしまっていた。
黙り込んだ日鞠に気づかず、英治は話し続ける。
「こいつがぶっ倒れるのはね、決まって仕事が落ち着いたときなんです。いっそ仕事の最中に倒れてくれれば、適度に休む癖も付きそうなものなのに。全く、可愛げのない奴ですよ」
英治は眠る雪之丞を眺め、苦笑いをする。その言葉に、日鞠は理解してしまった。
(今日のお出かけも、旦那様にとっては仕事だった……?)
『デートというらしい』なんて甘く囁いた雪之丞だったが、きっとあれだって、彼にとっては社交の一環だ。
自分のために休みを使わせて申し訳ないだなんて、的外れなことを考えていたのが心底恥ずかしい。だって、彼にとっては今日一日、休みでもなんでもなかったのだ。
英治に日鞠を責めるような意図は全くないのだろう。しかし浮かれていた自分を思い出して、申し訳なさでいっぱいになる。
だから、あとは女中たちに任せようとした英治に無理をいって、看病を申し出てしまった。
首元や額の汗を拭ってやりながら、いまだ眠る雪之丞を見つめる。
(寝顔は、少し幼く見えるんですね)
夫婦だというのに、眠る夫を見るのは初めてだった。一緒に寝台を共にした日だって彼は寝顔を見せてはくれなかったのだ。濡れた手拭いを熱い額に乗せ、ぬるくなったところで替える。
時折英治が様子を見に来るが、彼が確認しているのは雪之丞ではなく、看病などと言い出した新妻の方だろう。
また余計な仕事を増やしてしまっていると察しながらも、この役を他の人間に渡したくはなかった。
雪之丞は、日鞠のことを『君』『お嬢さん』と呼ぶ。
一方で右腕のことは『英治』と名前で呼ぶ。
彼は自らが倒れ伏す場所さえ、日鞠ではなく英治のそばを選んだ。
(英治さんが、羨ましいだなんて)
雪之丞が最も信頼しているのは、間違いなく英治だった。
それはきっと幼少期からの積み重ねで、羨むなんて烏滸がましいと分かっていた。
雪之丞にとって英治は右腕であり、最も親しい友人だ。
一方の日鞠は形ばかりの妻であり――商売道具にすぎない。
ならば仕事の役に立たなくてはいけないのに、むしろ負担をかけてしまった。
しかし彼が日鞠を責めることはない。そして同時に、決して頼ることもないのだ。
雪之丞の細長い指に、そっと触れる。
「私は他に、何を差し出せますか……?」
何を差し出せば、助け出してもらった恩に報えるのだろう。何を差し出せば、頼ってもらえるようになるのだろう。
目を閉じたまま微動だにしない彼の、手の甲に額をつける。その肌がまるで雪のように冷たくて、胸が締め付けられた。
『成せば悲恋、成さねば地獄』
心中の演目の呼び込みを見た際、彼は凍えるような声で毒を吐いていた。あれだってきっと、普段の体調の彼ならば漏らすことすらなかったのだろうと思う。
それでも瞳の奥の闇を、隠された傷を、知りたいと思ってしまったのは――。
(たかだか商売道具には、過ぎた感情なのでしょうか)
それから日鞠はただ、眠る夫を見つめ続けるのだった。
***
(寝落ちたか)
指先の感触で、雪之丞の意識は密かに覚醒していた。彼女の指をゆっくりと、しかし淡々と解き、名目上の妻である少女を静かに見下ろす。
疲れが溜まっていたとはいえ、心中を題にした呼び込みを聞いたときには、らしくない姿を彼女に見せてしまった。その上、屋敷に戻ってすぐに倒れるなど、ありえない。雪之丞は己の不手際を省みる。
しかし、こうも甲斐甲斐しく看病を始めるとは。彼女は焦っているのかもしれない。
(おおかた、僕に見捨てられることを恐れているんだろうけど)
彼女の生家は確かに酷い状態で、さらには嗜虐的な炭鉱王のもとに嫁がされそうになっていたという。考えてみれば案外、これは怪我の功名だったのかもしれない。
己のひねくれた見方を疑いもせず、雪之丞はほくそ笑む。
なんて御しやすく、従順な娘だと。
(……契約は自分に有利な条件で結ぶ。それが商人の第一目標だ)
微クズヒーローです。こんなに余裕こいている男が、のちのち……(※二度目)




