5.「それじゃあ、お嬢さん。僕と結婚しない?」
意味が分からなかった。
人間という生き物は、本当に驚くと声すら出ないらしい。ぽかんと口を開けることしかできない日鞠に、彼は美しく笑いかける。
(どうして?)
まさか、一目惚れしたなどとは言い出すまい。
帝都から来たとんでもない美丈夫が、たかだか田舎の娘に惹かれるなどあり得ない。日鞠はそのような夢見がちな空想が出来る性分ではなかった。
それなら、馬車の事故から助けられた恩から?
しかし彼の言葉も仕草も、これ以上ないほどに商人だ。正直いえば恩義や情で動くようには見えないし、恩返しというなら金で済ませる性分に見える。
結婚がどうと言い出す必要はない。せいぜい、炭鉱王の代わりの良縁を紹介する程度で十分のはずだ。
「ど……」
からからの喉のせいで、疑問の言葉は声にはならなかった。しかし僅かに動いた唇の形から、雪之丞は正しく「どうして」という言葉を読み取ったようだった。
彼は軽く首を振る。
「あぁ、愛だとか恋だとか、薄っぺらいことを持ち出すつもりはないから安心して」
言葉だけ受け取れば冷たくも聞こえるが、釘を刺されたというわけでは無い。ただただ警戒を解いてほしいと、心の内を見せようと、そんな意図の乗った声色だった。
「ただ僕たちは、互いに利益をもたらすことが出来るんじゃないかと思ったんだ」
「利益、ですか……?」
やっとまともな声が出る。
掠れたそれは聞き苦しかっただろうに、雪之丞は気にした様子も見せずに続けた。
「僕が、君の身の安全と衣食住を保証しよう。それだけじゃない。銀座のスイーツも、流行の洋服も、何でも欲しいものを与えよう。僕と組むなら、いずれ帝都のお姫様にしてあげる」
お姫様だなんて甘い響きの直後に、しかしまっすぐな要求が突きつけられた。
「その代わり――君の夢見の能力を、僕のために使ってほしい」
ああ、商談だ。
自分は彼に今、取引を持ちかけられているのだ。日鞠は理解した。
それを肯定するように、彼はさらに直接的な言葉をもって日鞠を誘う。
「いいかい君、これは契約だ」
「けい、やく」
「そう、契約結婚をしよう。――僕の商売道具になるといい」
差し出された指先を、じっと見つめる。
彼は日鞠の凄惨な未来から掬い上げ、物理的な距離をもって守る。一方の日鞠は、夢見の力を彼のために使う。
確かに、相互に利益のある話だ。しかし日鞠は躊躇した。瞼の裏に、亡き母の影が映る。
(このような夢見に夢見を利用しても、良いのでしょうか?)
ただでさえ、誰にも教えてはならないという母の教えを破ってしまっている。これ以上、勝手に私利私欲のために用いていいものかと迷ってしまった。しかし。
『貴女が幸せになるために、使いなさい』
母の言葉が蘇る。
(幸せが何なのかは、分からないけれど)
少なくとも夢で見た炭鉱王の元に嫁ぐよりは、この男の商売道具になる方が幸せに近づけるのではないだろうか。
それに、他に選択肢があるわけでもない。降って湧いたこの好条件を手放すことはできなかった。
「……お受けいたします」
そして少女は、商人の手を取る。
「物分かりのいい女性は、好きだよ」
指先にちゅ、と口付けられる。息が詰まり、遅れて身体に血が昇っていく。
ぐらりぐらりと視界が揺れそうになったところで、彼の黒黒とした強い瞳に吸い込まれた。
「伯爵家のお嬢さん。大切にすると約束しよう」
選んだ未来の先に幸せが待ち受けているのかどうかは分からない。
それでも日鞠は、この商人に賭けてみたいと思ったのだった。
***
「仮ながら祝言を行います本日は、たいそうお日柄も良く……」
口上をすらすらと述べているのは、仲人の男だ。歳の頃は四十くらいだろうか、銀行家だという彼は、雪之丞の姉の旦那――義理の兄にあたるのだという。
が、奥座敷に座る日鞠には、その口上を聞く余裕などは無かった。
(えっ?)
ただちょこんと雪之丞の横に座りながら、呆然とするしか無い。婚約の申し出を受けてから、あれよあれよという間に着付けられ、気づけば座敷の上だった。
振袖を着せ、髪まで仰々しく結ってくれたのは無愛想な古株の女中頭だ。
思い返せば、見合いの日に日鞠が女中の真似事をさせられることになったのは、彼女が腰を痛めて動けなくなったからだった。腰はすっかり良くなっているらしい。てきぱきと動いていた。
祝いの場だというのに、芳子と衣緒は鬼のような形相を隠そうともしない。
『なぜお前が花嫁の席に座っている?』
そう言いたいのだろう。
着物は重いし、頭は痛い。何が何やら分からないまま仮祝言をやり過ごせば、帝都まで連れて行かれるのは、あっと言う間だった。
鉄道の一等車なんてものに乗せられ、しばらくして大きな駅に着いたと思えば、これまた豪奢な馬車に引き摺り込まれる。
ひたすらに目をぐるりぐるりと回し続ける日鞠を見て、雪之丞は笑った。
「まるで攫うみたいに、連れてきてしまったな。こんな無作法者を許してくれる? お嬢さん」
「は、はい……!」
囁かれた甘い響きに、思わずどきりとする。隣の彼の袖から漂う伽羅の匂いが、日鞠の鼻をくすぐった。
「慌ただしい移動になってしまったけれど、君にとってはこの方が良いだろうから」
芳子と衣緒から一刻も早く離れられるように、という意味なのだろう。煩わしい義実家を持たせることへの申し訳なさが湧き出てくる。
「あの……私の家のせいで、今後に支障が出てしまったら、なんてお詫びをしていいか」
「いや? このくらいどうということはないよ。それにはっきり言って君の義家族は、僕の知り合いに引き合わせたい類の人間ではないからね」
意外にも彼は、上品な顔に見合わぬ強烈な毒を吐いた。
「あの後妻……遠坂芳子と言ったっけ。彼女は庶民の出だろう?」
「ええと、はい」
「君と異母妹、そして後継である君の弟は華族だ。しかしあの芳子という女は法律上、華族でもなんでもないからね。婚礼の常識など分かるまいよ」
屋敷の実権を握っている芳子は、元妾であるため華族の血を引いていない。
遠坂家の伯爵位に関していえば、帝都で中学に通う芳子の息子──日鞠の異母弟が継承者となっている。
日鞠は内心、彼がここまで事情を把握していることに驚いていた。
この分では、遠坂家のことはほとんど調べ尽くされていると思った方が良いのかもしれない。
「これ以上、あの者たちが君に干渉できないようにしておくよ」
年長者だろうと構わず手のひらで転がすかのような雪之丞の口ぶりは、痛快なものだった。
***
「お帰りなさいませ、旦那様!」
「あぁ」
初木家の屋敷の門で待ち構えていたのは、立派なスーツを着込んだ男性だった。年は雪之丞と同じ頃、二十代半ばといったところだろうか。
「初めまして。黒田英治、旦那様の側近にございます。以後お見知り置きを、奥様」
「おくさま……」
その呼び名に、落ち着かない心地になる。
(私、この家に嫁ぐんだ)
ようやく実感のようなものが湧いてくる。それならばせめて、粗相のないようにしなければ。
そう思うと、自然にすっと背筋が伸びる。精一杯のお辞儀をした。
「遠坂日鞠と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
頭を上げた瞬間、雪之丞に腰を引き寄せられる。驚いて彼の方に顔を向けると、悪戯っぽい微笑みが見えた。
「もう“遠坂”じゃないってこと、忘れないでね」
「あっ……! は、はいっ」
耳元すぐ近くで落とされた言葉にどきりとしていると、英治が口をもにょもにょとさせているのが見えた。
雪之丞は低い声で問う。
「英治。何か言いたげだな?」
日鞠は少し驚いていた。
いつも余裕を見せている雪之丞が、英治には素を見せたように見えたからだった。
「いや……いえ、な、何でも」
結局英治は何も言わずに引き下がると、慌てたように「中へどうぞ!」と手を横に滑らせた。
日鞠も彼に続き、西洋風の屋敷に足を踏み入れる。玄関には赤い絨毯、天井には大きなシャンデリアが輝いていた。
さらには列になった使用人たちが一斉に頭を下げるものだから、面食らってしまう。あわあわと隣の雪之丞に助けを求めると、彼はくすりと笑った。
「ここが今日から君の家だ。あぁ、そうそう」
彼は女中の一人を手招きする。
「彼女は八重、君の専門女中だよ。身の回りの世話は彼女に一任する予定だから」
しずしずと歩いてきた女中が頭を下げる。落ち着いた雰囲気の女性だが、見たところ、年齢は日鞠とそう変わらないようだ。二、三歳年上と言ったところか。
「八重と申します。今後は私に何でもお申し付けくださいませ、奥様」
「よろしくお願いします!」
こうして、帝都での新たな生活が始まろうとしていた。




