4.指輪を売りに
大きな都市に行けば、何か仕事も見つかるだろうか。
ずっとはなれに押し込められていた自分に何ができるとも思わないが、今は逃げることが最優先だと言い聞かせる。
なけなしの全財産をかき集め、母が残したいくつかの装飾品を小袋に入れる。大半は義母に見つかって取り上げられてしまい、残ったものは僅かだった。それでも換金すれば、数日程度は暮らせるだろう。
頬を叩いて気合いを入れ、裏門へ走る。幸いにも、明日に控えるという衣緒の『仮祝言』のおかげで女中たちは大忙しのようで、誰にも見つかることは無かった。
何とか駅に辿り着くころには、耳からごうごうと音がするようになっていた。少しの間息を整え、駅の中を見渡す。
両親の生前に何度か鉄道に乗ったことはあったのだが、自分で切符など買ったこともない。買い方を駅員に尋ねてみると、どうやら手持ちの現金では切符代には足りないようだ。
日鞠がよほど困り果てた顔をしていたのだろう、駅員は近隣の質屋を教えてくれたのだった。
こうも早く財産を換金することになるとは、想定外だった。幸先の悪さから不安を感じつつ歩いていると、裏道にある質屋を見つける。
そこでは店主と思わしき眼鏡をかけた中年の男が、新聞を読んでいた。日鞠は小袋の中から指輪を取り出し、声をかけてみることにした。
「あのう、すみません。これをお金に換えたいのですが」
その声に顔をあげた店主は新聞を畳み、白手袋を嵌め始める。
視線で促されるままに指輪を渡すと、店主は難しい顔になり、裏表と眺め始めた。
「うーん……嬢ちゃん、この指輪は古いものだね。どうやって保管していたんだい? 状態が良くない」
「ほらよ」と突き返されて、受け取った指輪をもう一度見つめる。門外漢の日鞠には綺麗な指輪に見えたが、保管方法など考えたこともなかった。ずっと引き出しの奥にしまっていたのが、良くなかったのだろうか。
「本当なら十円といったところだが……だがまぁ、若い嬢ちゃんが一人でこんなとこまで来てるんだ。よっぽど金に困ってるんだろう?」
やや厳しかった店主の表情が、同情的なものに変わる。日鞠が正直にこくりと頷くと、店主はふっと優しげに目尻を下げた。
「仕方ねぇな、上乗せしとくよ。三十円ね」
「あ、ありがとうございます……!」
告げられた額は、今の日鞠にとって大金だった。しかし指輪を渡そうとした瞬間、後ろから伸びてきた手によって腕が掴まれる。
「――待った」
ぎょっとして振り向いた日鞠は、さらにぎょっとすることになる。なぜならそこに立っていたのは、あの雪之丞という美しい商人の男だったからだ。
「ちょっと、何だいお兄さん! 今商談中だよ」
「へぇ。世間知らずの子女から不当に買い叩くことを、この地方では商談と言うのか」
「それは知らなかったな」と言いながら、雪之丞は日鞠の指輪をつまみ上げ、しげしげと観察する。
「管理状態を差し引いても、このサイズのダイヤモンドなら百円は下らないはず」
「な、何を」
狼狽える質屋の店主に、雪之丞は冷たい視線を送る。
「『十円をおまけして三十円』だって? ここまで悪質な質屋は、帝都でもなかなか見ないな。ほらお嬢さん、行こう」
雪之丞に手招きされ、混乱したまま日鞠は慌てて彼の後を追う。
どうやら詐欺に遭いかけていたらしいと理解し、広い背中に声をかける。
「あの! 助けてくださって、ありがとうございます」
立ち止まって振り向いた雪之丞は、目を細めた。
「見覚えのあるお嬢さんが駅を彷徨っていて、質屋に向かうものだから……追いかけて正解だったよ。まさかあんなものに引っ掛かるとは思わなかったけれど」
「あんなもの」という響きに呆れは見られなかったが、むしろこの純粋に驚いたような口ぶりの方が堪える。世間を知らない自覚はあったが、あまりの情けなさに、日鞠は目を泳がせるしかなかった。
「──それで? 君はなぜ、お金が必要なの?」
「それは……」
物入りな理由を尋ねられ、日鞠はどうしたものかと口籠る。
腹違いの妹と明日祝言をあげる相手に対して「家から逃げたくて」と正直に告げて良いものか。いや、どう考えても不味いだろう。
かといって他に、筋の通った嘘も思いつかなかった。
「教えて? 秘密にすると約束するよ」
有無を言わさぬ視線に、日鞠は白旗をあげる。
前にもこのように、夢見のことを吐かされてしまったなと思い出したのだった。
(そうだ……どうせこの人には、夢見の話をしてしまったのだから)
「予知夢を見たのです。このままでは、望まぬ結婚をさせられてしまうから」
「……へぇ」
上から降ってきたのは、思いの外冷たい声だった。
日鞠はたじろぐ。
以前夢見の話をしたときは優しく聞いてくれたから、今回もそうだと思い込んでいた。しかしそれは酷い思い込みだったらしい。
「君ね。家のための婚姻なんて当たり前のことだろう。何が不満なの? ……もしかして、他に想う相手がいるとか」
「い、いえ。そのような方はおりません!」
責め立てるような怒涛の言葉に肩を縮こまらせながら、日鞠は主張する。あの悪夢を思い出すと、じわりと視界が歪んだ。
「その、蝋を」
「蝋?」
「蝋を、足の甲に垂らされ、」
「はぁ!?」
「殴られたのか、頬にも青痣が出来ていました」
「は? 待ってくれ、僕にそんな趣味は無い」
心外だとでも言うように、彼は突然大きく声を上げた。
しかし、何故そこで雪之丞の話になるのだろう。
「え? あの、何の話でしょうか……?」
日鞠が頭に疑問符を浮かべていると、彼は眉間に皺を寄せた。
「……なるほど。僕たちの間には、何らかの行き違いがあるようだ」
彼の苦々しい顔を見るのは、付きまといと誤解された初対面の時以来のことだった。
「遠坂日鞠さん──もう一度説明してくれる? 君の身にこれから何が起こるのか」
雪之丞に促され、夢見の話の続きをする。
見知らぬ男に暴力を振られる夢を見たこと。
その直後、義母と妹が自分の縁談について話していたこと。
相手だという炭鉱王には酷い加虐嗜好を持つという噂があり、義母も承知の上で縁組を行おうとしていたこと。
そしてその未来から逃れるために駅まで走り、切符代を得るため宝飾品を換金しようとしていたこと。
「……なんて。ごめんなさい。こんな話を申し上げても、困らせてしまうだけですよね」
彼は明日、衣緒と祝言を挙げるのだ。身内の恥を暴露したところで、雪之丞に不快な思いをさせるだけだろう。
しかし彼は首を横に振った。
「いや、これではっきりしたよ。君の義母が僕を騙そうとしていたことをね」
「え?」
「まずね、君の妹との縁談は断っている」
「えぇっ!」
「『別の娘と結婚したい、支援の額は増やそう』と言ったら、承諾の返事があったんだけどな」
しかし、衣緒は完全に嫁ぐ気のようだったし、義母も彼女に「明日の仮祝言の準備」と言い聞かせていた。
「商人というのは我儘な生き物でね……騙すのは大好きだが、騙されるのは大嫌いなんだ」
そこで切った雪之丞は、鼻で笑う。
「君の義母は土壇場で、不義理を押し通そうとしているらしい。よりにもよって、商人相手に」
彼の瞳が、攻撃的なまでに爛々と光る。まな板の上の魚を「どう料理してやろうかしら」と見つめる女中頭に似ているな、なんて場違いなことを思った。
しかし一度の瞬きのあと、雪之丞はすぐに優しい元の表情に戻る。そして眉を八の字に垂らすと、慰めるような声色になった。
「怖い夢を──いや、未来を見てしまったんだね。そりゃあ、逃げたくもなる」
信じてくれている、と思った。この前も「信じるよ」とは言ってくれていたが、この男性は本当に、日鞠の能力のことを事実として捉えてくれているのだ。
身体をずっと強張らせていた緊張が解けて、思わず日鞠は頷いた。
直後、また硬直することになるとも知らずに。
雪之丞は恭しく跪く。
「──それじゃあ、お嬢さん。僕と結婚しない?」




