3.商売柄、恨みは散々
名乗られずともその玲瓏たる響きは覚えていた。見合いの場で義母が馴れ馴れしく呼んでいるのを聞いていたからだ。
「君は、遠坂日鞠さんだね?」
名前を控えられていたのはこちらも同じだった。彼ははなれの中を一瞥したのち、日鞠の粗末な着物に視線を落とした。
「さっきはああ言ったけど、『妹が心配で無理を言って茶を出しに来ていた』というふうにはとても見えなかったな。しかも、こんなところに住んでいるようだし」
義母の選んだ言い訳を、あてこすりのようにぶつけられる。
「今の遠坂家の女主人は後妻で、残された君とは血縁関係がないと聞いていたが、義理の家族とは不仲なんだね?」
彼は、日鞠の実の両親が亡くなっていることはもちろん、現在の遠坂家の状況も把握しているらしい。何も返せずいたが、それは肯定に他ならなかった。
「っと。適当に席を外してきたから、残念だけど長話はできないんだ。単刀直入に聞こう」
彼――雪之丞の瞳がぎらりと光る。
「君はあの日、僕の進行方向に馬車が突っ込んでくると分かっていた。ねぇ、どうして?」
やはりあの馬車の事故について、見逃してくれはしないようだ。日鞠はごにょごにょと明後日の方向に視線をやるしかない。
「それは、その。何だか嫌な予感がしたというか」
「嫌な予感? あの時君は、僕が迷惑そうな顔をしても絶対に手を離さなかった よね。予感なんかじゃなく、事故の発生を確信していたはずだ」
「そんなことは……」
「そんなことが出来るのは……君があの事故を仕組んだ者と、繋がっていたからじゃないの?」
「ええっ?!」
まさかの疑いがかけられてしまい、慌てて首を横にぶんぶんと振った。雪之丞は目を細める。
「そうでもなければ説明が付かない。あの馬車に細工がされていた? 誰かが僕を暗殺しようとしていた?」
(暗殺っ!?)
彼の瞳が剣呑な光を帯びる。
「違いますっ! 決してそのようなこと!」
「商売柄、恨みは散々買ってきたからね。君は、どこの手の者?」
今度は両手首を掴まれ、また扉の背に押しつけられる。腕に力を入れるが、びくともしない。完全に身動きができなくなってしまった。
「正直に教えてくれたらいいよ、逃がしてあげる」
(正直に教えたら、って)
本当にあの事故は日鞠が仕組んだことではないのに、この男は有無も言わせぬ迫力がある。
そのとき脳裏に響いたのは、亡き母の言葉だった。
『――いいわね、日鞠。夢見のことは決して、口外してはいけない』
(分かっております、お母様……)
だけどこんな話、誰も信じるわけがない。
たとえ本当のことを伝えたとして、この人が信じるわけもないのだ。
視線に押されたせいか、諦めからか。するりと喉から真実がこぼれ落ちる。
「私、予知夢を見るのです」
言ってしまった。思わずぎゅっと目を瞑る。
『何を言っているんだ?』
そんな怪訝そうな声が落ちてくると思っていた。しかしそうはならず、どころか押さえつけられていた身体が、ゆっくりと離される。
驚いて瞼を開くと、真剣な顔つきの雪之丞と目が合う。
思わずぱっと視線を逸らしてしまったところ、顎をそっと優しく持ち上げられた。至近距離から向けられたのは、有無を言わせぬ視線だ。
「今の、本当?」
目を逸らすなと、彼の黒い瞳が雄弁に告げていた。日鞠はこくりと頷く。
「本当、です」
「あの馬車に、僕が轢かれる夢を見た。そういうこと?」
また頷く。
彼の声色が存外に真剣で、日鞠は驚いていた。呆れられても、鼻で笑われてもおかしくないと思っていたから。
「まさか……信じてくださったのですか?」
雪之丞は日鞠を離すと、背筋を伸ばす。
そして彼は己の顎に手を当てたっぷりと、本当にたっぷりと間を取った。
「――……信じよう」
しかし最後に彼はそう答えたのだ。
「どうして……だってこんな、突拍子もないこと」
「商人はね、嘘を見抜くのが得意なんだ。君が嘘をついていないことくらいは分かる。それに……」
声の調子が変わる。
「『なぁ君、昨日も一昨日もそこに座っていなかったかい?』」
「え?」
「ベンチで、君に絡んでいた男がそう言っていたのを思い出してね。予知して僕を待ち構えていたというのなら納得できる」
「お、覚えているのたのですか? そんな台詞まで」
彼は少し得意げに片目を瞑る。
「記憶力には多少、自信があるんだ。ねぇ、僕が来るまで何日かかったの?」
「……三日ほど」
「顔も知らない男を助けるために、三日も待ち続けていたの?」
居心地が悪くて、返す言葉が小さな声になる。
「それは……人が死ぬと分かっていて、何もしないのが嫌だっただけですから」
「お人好しだな、君は」
雪之丞は愉快そうに笑う。細められた彼の目が、獰猛な獣のようにぎらりと光った気がした。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼は懐中時計に視線を移す。
「そろそろ本当に戻らなくては、怪しまれてしまう。先ほどの話は内密に……で、合っているね?」
「あ……はいっ」
夢見についても勿論だが、雪之丞と喋ったことが衣緒たちに露見しようものなら何をされるか分からない。
口元に人差し指を当て、秘密を約束する仕草をした彼を見てほっとする。
「改めて礼を言わせてくれ。僕を助けてくれてありがとう、華族のお嬢さん」
そう言われ、日鞠はぎこちない微笑みを返した。
――この後に待ち受けている、自分の運命も知らずに。
***
ぶつ、ぶつ……ぶつ、ぶつり。
細かな雑音が聞こえる。薄ぼんやりとした茶色が世界を縁取るように覆う。褪せた視界の端とは対照的に、視界の中央は酷く鮮明な映像だった。
「やめて……来ないで!」
か細い悲鳴が聞こえる。視線を向けると、女が柱に縛り付けられていた。部屋が暗いせいで顔は見えなかったが、怯えているのは分かった。
必死に身を捩っているようだが、太い縄が解けることはない。ばたつかせた片脚が裾の先から出て、白い足の甲が露わになった。
のそりのそりとした足音と共に、けむくじゃらの巨体が現れた。蝋燭を片手にしたその男が、震える少女の脚を掴んだかと思うと――足の甲に、溶けた蝋が垂らされた。
「いやっ!」
じゅわ、と皮膚が焼ける音が、絶叫にかき消される。
その時、少女の顔が蝋燭の明かりに照らされた。橙色の炎が映し出したのは、毎朝鏡で見ている――日鞠自身の顔だった。
**
「はっ……!」
悪夢から目覚めた日鞠は、勢いよく半身を起こした。長襦袢はびっしょりと濡れている。寝汗が冷えて、布団の中にいたというのに寒気すらする。
(あれは間違いなく夢見、だけどどういうこと? 知らない男性の家で、縛られて)
蝋で足を焼かれる夢。
ぞっと背筋が凍り、嫌悪感が足にまとわりついてきた。
(この屋敷ではなかった。ということは、攫われた? ……ううん、まさか)
嫌な予感がした。
はなれから出て、人目を避けながらそっと屋敷の中に忍び込む。足音を殺していると義母……芳子の部屋から、朝だというのに姦しい声が耳に入ってきた。
「……ねえそれって、日鞠なんかには過分な縁じゃない?」
衣緒の声だ。自分の名が聞こえ、ぴたりと足が止まる。
「そうよねぇ、南の炭鉱王なんて。すこぉし歳が離れているけれど、華族にはよくあることだというし。本当、勿体無い良縁だわ」
続く芳子の声は、随分と機嫌が良さそうだ。
短い沈黙の後、衣緒が声を潜めて尋ねるのが聞こえた。その声は、少し怯えているようだった。
「……お母様。南の炭鉱王が、酷い趣味を持っているって噂は……本当なのかしら?」
(酷い、趣味?)
思い浮かぶのは夢の中、足の甲に垂らされた蝋。
引いたはずの汗がまた、日鞠の長襦袢を濡らす。
実娘の問いに、芳子は吹き出した。
「やだ! 嘘でも本当でも、どうだって良いでしょう? 大事なのは、遠坂の栄華よ」
「ええ……ええ、そう、そうよね」
ぶつぶつと返す衣緒とは対照的に、芳子ははっきりとした声で言い聞かせる。
「衣緒、明日はあなたの仮祝言だって、忘れていないわよね? 余計なことを考えている暇はないわよ」
「忘れているわけないじゃない! 勿論よ、お母様」
部屋の中で、どちらかが立ち上がる衣擦れの音が聞こえた。体が震えるのを抑えて、日鞠は音を立てないようその場を離れたのだった。
今朝の夢見は、不幸な未来を知らせるものだったのだと確信する。
芳子たちの会話から推測するに、このままでは日鞠は南の炭鉱王とやらの元へ嫁がされることになる。
衣緒が漏らした『酷い趣味を持っている』という噂はきっと本当だ。縛りつけた娘の足の甲に垂らして喜ぶなど、どう考えても普通ではなかった。
『夢見の力は、貴女が幸せになるために使うのよ』
いつだったか、母はそう言っていた。
(夢見の力は……私が、幸せになるために)
母は優しく笑っていた。
『お母様は知っているのよ。いつか必ず、日鞠は幸せになるわ』
その母の言葉が予知だとするなら、炭鉱王と結婚する未来は避けられる未来のはずだ。
(……大丈夫。この前の商人さんだって、死なせずに済んだのだから)
――自分で未来を変えなければ。
日鞠は大きく息を吐き、風呂敷に荷物をまとめ始めた。




