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大正帝都トロイメライ〜夢見の乙女と契約結婚〜  作者: 汐屋キトリ@『気まぐれな神』書籍発売&コミカライズ連載中


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2.お見合い相手は『帝都の初木様』

 こちらを凝視する男性を置き去りにした日鞠は、息を切らして屋敷の裏門に駆け込んだ。呼吸を整えているうちに、遅れて強い達成感が立ち昇ってくる。


(誰も死ななかった……! 私、あの人を助けられたんだわ)


 手汗で湿った指で、ぎゅっと袖を握る。


(誰かが死んでしまう未来だって、頑張れば変えられる)


 もちろん、病や老衰なんかはどうしようもないと知っているけれど。


 はなれに向かって歩いていると、背後から足音がした。


「ねぇ日鞠、どこへ行っていたの?」

「衣緒(いお)……様」


 声をかけてきたのは、遠坂衣緒。半分だけ血の繋がった日鞠の異母妹だった。


しかし日鞠が姉と言っても、実態とはかけ離れたものだ。遠坂家の前当主である父親が数年前に亡くなってから、衣緒はまるで自分が姉だとでもいうかのように、横柄な態度を取り始めたのだった。


 正統な血を継ぐ華族の娘でありながら、華族どころか迷惑な居候のように扱われている。それがおかしいことは分かっていても、日鞠にはどうすることもできずにいた。


 黙り込んでいると、彼女はさらに不機嫌をあらわにする。


「どこへ行っていたのかと、聞いているのよ。お金もないのにまさか、買い物に行ったわけでもないでしょう」

「……川へ。橋の上を眺めておりました」


 まさか人を助けていた、とは言えず適当な言い訳を口にする。

 今日を除いた二日間、川の前でじっとしていたのだ。嘘というほどでもない。


「ふぅん、安上がりな趣味だこと。本ばかり読んでいて陰気臭いと思っていたけれど、外に出ても変わらないわね」


 何も言い返さず、目を伏せるだけの日鞠に溜飲が下がったのか、衣緒は得意げに笑った。


「言っておくけど、遠坂家に泥を塗る真似だけはしないでよ。明日が何の日か、忘れたわけじゃないでしょうね?」


 日鞠は頷く。


「……はい。衣緒様のお見合いでしたか」

「そうよ、帝都の初木様とのね」


 衣緒は自慢げにふん、と鼻を鳴らす。


 『帝都の初木様』がどこのどなたなのか日鞠に知るよしもないのだが、彼女に舞い降りた縁談は相当に良いものだったらしい。相手方の釣書も大変な美男子だったのだと、衣緒は散々自慢していたのだ。忘れるわけがない。


 何にせよ、日鞠には関係のない話だ。


「ああ、そうだ!」


 歩き出していた衣緒が、ゆっくりと振り返る。


「ねぇ日鞠、昨日はなれに届けさせた食(・)事(・)は美味しかった?」

「食事、ですか……?」


 そんなもの届けられてはいなかったはず、と一瞬首を捻る。


 日鞠の元に食事の類が届けられた試しなどはなく、毎日台所に衣緒たちの残り物をもらいにいっていたからだ。

 しかし衣緒の目が爛々としているのを見て、やっと理解する。


 ──はなれの前に置かれていた、鼠の死骸のことだと。


 昨日埋葬した鼠は、衣緒によって持ち込まれたのだ。日鞠はぎゅっと歯を食いしばる。


 害獣退治は仕方のないこととはいえ、生き物の尊厳を蔑ろにした挙句、「食事」と呼び嗤う異母妹の姿は醜悪だった。悪意には慣れているつもりだったというのに、胸中に強い憤りと嫌悪感が湧いてくる。


 日鞠の表情を見て、衣緒は口の端を吊り上げる。やっと満足したのか、彼女は踵を返し去っていった。

 その後ろ姿が見えなくなったのを確認した日鞠ははぁっと息を吐き、はなれへと逃げ込む。


 衣緒たちが占拠している隣の本邸と比べれば狭いものの、はなれの中は案外快適だ。内側にかんぬきがあるし、小さな風呂だってある。


 日鞠は身支度を済ませ、布団にくるまった。


 衣緒が他家に嫁げば、あの嫌がらせも止むだろうか。それとも、暇を持て余した義母からの当たりが、さらに強くなるだけだろうか。


 ならば、どちらが良いのだろう。

 そんなことを思いながら、日鞠は眠りについたのだった。


***


 『帝都の初木様』との見合いは午後から行われるとのことで、日鞠は準備のために朝から駆り出されていた。座敷に緋毛氈と呼ばれる赤い布を敷き、座布団の位置を整えていく。


 本来日鞠はここで引き上げ、はなれに篭る予定だった。

 しかし計算外なことに、見合いの場で茶菓子を提供する係を命じられてしまったのだ。――女中として。


 元は屋敷で中核を担う、古株の女中頭がその任につくことになっていたのだが、今朝注文していた茶菓子を受け取って戻った直後、酷く腰を痛めてしまったらしい。


 これを命じた際、衣緒は日鞠に指を突きつけて念押ししてきた。


『いいこと? 今日のあんたは女中よ、くれぐれも余計なことはしないように。遠坂家の長女は病弱で療養していることになってるんだからね。もし命令を破ったら……分かってるわよねぇ?』


 囁かれたのは、冷たく低い声。


 そんなに不安なら、お茶汲みなんて任せなければいいのに。

 そう思ったものの、腰を痛めた女中頭以外に、上流階級相手に粗相なく動ける人材はいない。それくらいは義母も衣緒も、理解しているのだろう。


 華族の屋敷にあるまじき人材不足だったが、長年支えていた者はほとんど、日鞠の実母が亡くなったあとに暇を出されてしまっていた。


 この屋敷にはもう、味方になってくれる人間はいない。

 日鞠は目を伏せる。


『もちろんです、衣緒様』


 言われずとも、日鞠は自分が遠坂の長女などという話を客人に告げるつもりはなかった。言ってどうなるというのだ。


 そして午後、見合いが始まった。


 好奇心を隠そうともしない女中らに混じって、日鞠は控えの部屋に待機する。

 茶菓子を提供する時間となったため、邸宅内でも最も上等な茶器を折敷盆に乗せ、すり足で歩く。


 座敷のすぐ手前まできて、深呼吸する。大丈夫、できるはずだと。


「……それにしても、東京帝国大学出身だなんて! とっても優秀なのねぇ」


 奥から聞こえてきたのは、義母――遠坂芳子(よしこ)のはしゃぎ声だった。


 彼女は日鞠の実母が亡くなってから後妻として遠坂家に入った。そして、伯爵位を持つ日鞠の父が亡くなってからは、完全にこの家の実権を握るようになったのだった。


「雪之丞さんってば、本当に博識なのね!」


 芳子に続き、衣緒の猫撫で声まで聞こえてくる。


 雪之丞《ゆきのじょう》、というのは、見合い相手である『帝都の初木様』の下の名前だろう。成婚前の見合いでいきなり名前を呼ぶのは無作法なのではと思ったが、日鞠が口を挟めるわけもない。


「いえいえ、それほどでもありませんよ」


 穏やかな美声が、何やら謙遜をしている。恐らくこの声の主が雪之丞という男なのだろう。


 此度の相手は豪商だと噂されていた。華族以外の人間が帝国大学に入学するというのは、相当に困難だとも耳にしたことがある。彼はよほどの才を持っているのだろう。


(──なんて)


 これ以上聞いていても仕方がない。早く役目を終わらせて、早くはなれに戻ろう。


 最後に大きく息を吐いた日鞠は、音を立てないように入室する。そして誰の顔も見ないまま、一人一人の前に煎茶、そして練り切りを置いていく。


 ぽとりぽとりと、己が茶を淹れる音だけを耳に入れる。湯呑みの中、草色の水面に映る自分と目があった。


(私、何をしているのかしら)


 この家でも散々隅に追いやられて暮らしてはいたが、女中の真似事をさせられるのは初めてだった。華族としての誇りが傷つけられるのは今更ではある。それでも慣れてしまいたい悔しさではなかった。


 その時、強い視線を感じる。顔をあげると、並外れた美貌を持つ男性と目が合った。


(なっ……!?)


 驚くのも当然だと、そう言わせてほしい。

 なぜなら衣緒の見合い相手、『帝都の初木様』は――昨日馬車の事故から助けた彼だったのだから。


 かちゃり。

 僅かではあるが動揺のせいで音を立ててしまい、慌てて意識を手元に戻す。芳子と衣緒から咎めるような視線が飛んできた。


「全く。何をしているのよ、日鞠は!」


 苛立たしげに名前を呼んでしまった衣緒に、芳子は慌てた顔を見せる。

 男――初木雪之丞は、黒曜石の瞳をゆっくりと細めた。


「日鞠さん? それは、療養中の遠坂家の長女の名だと記憶しておりますが」

「え、ええと、それは……」


 顔を青くした芳子は懸命に言い訳を考えてはいるが、すぐには思いつかないようだ。


 同名の別人だとは、もう言えない間になっていた。するりと自然な調子で、男は口を開いた。


「あぁ。もしかして、妹さんを心配して様子を見に来たのですか? 僕が妹を任せるに足る相手かどうか、と」

「え……ええ、そうなんです! 全くこの子ってば、どうしても自分が茶を出すと言って聞かなくて!」


 まさか女中の代わりをさせていましたとは言えるわけもなく、芳子は彼の持ち出した推論に乗ったようだった。


「通りで、お若いのに所作が美しい方だと思いました。妹想いのお姉さんなんですね」


 穏やかに微笑む男性の横からは、義母と異母妹から「口を開くな」「余計なことを言うな」という強烈な眼差しが向けられている。


 居心地は最悪の一言だった。一刻も早く逃れたかった日鞠は、そそくさと退室の礼をとってその場を離れたのだった。


「はぁ……」


 一人はなれに戻って、息をつく。まさか夢に出てきた男性――雪之丞と言うらしい――が、衣緒の縁談の相手だったなんて。


 あの場において、彼はあくまで初対面のふりをしていた。少なくとも芳子たちに昨日の話をするつもりはない、ということだろう。


 しばらく座り込んでいると、こんこん、と戸を叩く音がした。



 日鞠は違和感を覚える。なぜなら衣緒たちに命令されない限り、女中たちがこのはなれに近づくことはないからだ。衣緒や芳子がここまでやって来る時は戸を乱暴に叩いて呼び出すか、あるいは閂を開けるまでがちゃがちゃと戸を打ち鳴らすかのどちらかだ。


 不思議に思いつつも、他に訪ねてくる人がいるはずもない。出るのが遅れれば遅れるだけ、酷い目に遭うことはわかっていた。日鞠はとりあえず早足で玄関口に駆け、閂を引いた。


 ゆっくりと扉を開けると――そこには、先ほど見たばかりの美男子、雪之丞が立っていた。


「やっと見つけた」

「えっ……!?」

「おっと、静かに」


 驚愕で思わず声をあげそうになった日鞠の口を、彼は掌で塞ぐ。そのまま扉の隙間を足先でこじ開け、日鞠の身体を扉の内側に押し付けながら、閂を押し込んだ。


 容易にはなれの中に侵入され、あまつさえ拘束された日鞠はじたばたと手足を動かして抵抗する。


「んっ、むぐ……!」

「暴れないでくれ。君に何かしようってわけじゃない。騒がないと約束してくれるなら、離すから」


 こくこくこく、と何度も頷く。やっと日鞠の顎が解放された。


「何、なんですか!?」

「それはこっちの台詞なんだけどな。まだ君には名乗っていなかったね」


 掴まれていた顎こそ解放されたが、両肘を扉に付けた彼に至近距離で囲われてしまう。


 若草色の着物の袖が、僅かに頬に触れた。焚きしめられた伽羅の匂いに、くらくらしそうだった。

 

「僕の名は初木(はつき)雪之丞(ゆきのじょう)。帝都で事業を営む商人だ」


 決して獲物を逃さない捕食者の瞳に囚われて、動けない。


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