1.最悪の予知夢
ぶつり、ぶつり。視界の大部分を、褪せた茶色が覆っていた。太くてまばらな雑音が少女の脳内に響く。
少女――遠坂日鞠は、夢を見ていた。
瞼の裏に映っている場所は、近所の橋の手前のあたり。
爽やかな日差しの下で、優雅に闊歩する長身の男の後ろ姿が見えた。片手にはステッキを携え、頭には帽子をさらりと乗せている。しかし日鞠の目を最も引いたのは、彼が纏う羽織だ。生地には、葉を模した特徴的な紋が描かれていた。
それは、男が角を曲がろうとしたときのこと。背後から、馬車のがちゃがちゃという音が迫ってきた。
彼が振り向くのと──馬が彼に突っ込んだのは、ほとんど同時だった。
人々の悲鳴がつんざく。ぐしゃりと肉体のひしゃげる嫌な音とともに――日鞠は布団から飛び起きた。
「はぁっ……はぁっ……!」
全身がどくどくと脈打ち、痛むような耳鳴りがする。背中は汗でひどく濡れていた。起こした上半身をまた寝かせ、ぐったりと布団に身を預ける。
(間違いない、あの夢は……)
少女にとって、夢とは単なる「夢」ではない。今しがた見た映像に、少女は確信を抱く。
あれは間違いなく、“夢見”であったと。
遠坂日鞠は、母方から伝わる“夢見“――すなわち、不定期に予知夢を観測する体質を持つ家系の娘であった。
“夢見”はいつも、ぶつぶつと途切れ途切れの雑音と褪せた視界の中で起こる。先ほどの夢はまさに、それに該当していた。
今まで見てきた数々の予知夢の中でも、人が事故死する夢というのは、最悪の部類だ。
日鞠に若い男性の知り合いはいない。夢に見たのは間違いなく見知らぬ人間だが、それでも当然、気持ちのいいものではなかった。
布団からゆっくりと起き上がり、部屋の隅に畳む。そのまま古びた小袖に着替え、姿見の前で傷んだ髪を軽く結い上げた。 ふぅ、と深く息を吐く。
鏡に映るのは、弱々しくみすぼらしい身なりをした、十八歳の少女。
これが《《華族の娘》》だなんて、一体誰が思うだろう?
鏡に映る少女に、問いかける。
(私に、あの悪夢を止められる……?)
夢の中で、男性が馬車に轢かれていた。
後ろ姿だったため、彼の顔すら分かっていない。だけど幸いなことに、場所にだけは見覚えががあった。
救えるかなんてそんなこと、考える猶予があるかすら定かじゃないのだ。
はなれの扉をゆっくりと開き、外の様子を注意深く確認する。人の気配は近くにないようだ。
息を潜めた日鞠はそのまま、広い屋敷から飛び出したのだった。
***
「確か、この辺り」
小さな橋の先、夢に出てきた場所に辿り着く。きょろきょろと辺りを見回してみたが、あの男性も馬車も見えない。
夢見は万能ではない。未来を視たところで、それが実際いつ発生するのかまでは分からない。手がかりと言えば、雑音の大きさだけだ。
雑音が小さく、映像が乱れているほどその未来は遠い。反対に雑音が大きく、鮮明に見えるほどその未来は近くに訪れる。
今朝見た夢の感触からすると、遠い未来ではなさそうだった。恐らく、数日以内。
(とりあえず……あの馬車が通るまでの間、ここを見張っていなくては)
天高くから降り注ぐ太陽の光を避けるように、近くの木陰に移動する。そのまま日鞠は、事故が起こる場所をひたすら監視し続けていると、日が沈んできた。
夢の中で見た景色から考えると、事故が起こるのは昼間のはず。
(今日じゃなかったみたい)
まだ続く緊張にため息をつきつつ、日鞠は帰路を辿る。人目を避け、裏門からこっそりと屋敷に入った日鞠は、自室のあるはなれへと向かった。
はなれの玄関前には――鼠の死骸が置かれていた。
(また、だわ)
こうして動物の死骸が置かれるのは、よくあることだった。おおかた本邸の厨房で捕えられた鼠だろう。
部屋の中ではないだけましかと思いつつ、良い気はしない。それに、嫌がらせのためだけに死を弄ぶやり口にも強い憤りを感じる。
日鞠は倉庫から鍬を持ってきて、はなれの横に穴を掘る。その中に死骸を埋め、手を合わせたのだった。
***
二日目。
太陽が昇って早々、日鞠ははなれを発った。
この日からはハンカチを持って来ていたため、ベンチに敷いて腰掛けることにした。十字路になった道の、前後左右を常に見張り続ける。しかしこの日も、夢に出てきた男性が通りがかることはなかった。
三日目。
動かないとはいえ、気を張り続けるというのは心身ともに大きな負荷がかかるもので、既に日鞠は疲労困憊だった。しかし人命が掛かっているのだ。気を抜くわけにはいかなかった。
じっと目を凝らし続け、しばらく経った頃。
ベンチに座る日鞠のもとに、にやにやと下品に笑う男が近づいて来る。
中肉中背といった姿からすると、夢に出てきた長身の男とは無関係、全くの別人のようだ。
「なぁあんた。昨日も一昨日もそこに座ってただろ?」
「え? は、はい」
「恋人との待ち合わせってとこか?」
「…………はい?」
一体何の話だと聞き返す前に、男は決めつけたようにぺらぺらと喋り続ける。
「こんな若い女の子を待たせる甲斐性なしなんざ、やめときな。どうだい嬢ちゃん、どうせなら俺とこのあと――」
「いえ、あの、結構です!」
やはり、夢見には全く関係がなさそうだ。少女が一人座っているのが物珍しくて、絡んできたというところだろう。
日鞠は内心歯噛みし、立ち塞がる男で隠されてしまった通りを確認しようと、身体を左右に揺らす。しかし男もしつこく、さらに距離を詰めてきた。
身体の前に立ち塞がれてしまったせいで、下手にベンチから立ち上がることもできない。
(今、それどころではないのに!)
こうしてる間に馬車の事故が起きてしまったらどうするのだ。
目尻を上げると、男もむっとした顔になる。
「強情になるなって。いいから俺に……」
「――僕の連れに、何か御用でしょうか?」
そのとき割って入った声に、男も日鞠も揃って顔を上げる。思わず言葉を失ったのは、仕方のないことだと思う。
長い睫毛に縁取られているのは、静まり返った冬の湖のような瞳。
中央で分けるように整えられた艶やかな黒髪と、すっと通った鼻筋と薄い唇は、気高さすら感じさせる。
視線の先の男性は、信じられないほどの美貌の持ち主だった。
上等そうな羽織を肩にかけた美男子は、切れ長の瞳を咎めるように細めている。
彼は座ったままの日鞠を引き寄せ、男にもう一度冷たく言い放った。
「僕の連れに、何か御用でしょうか」
「い、いや……」
絡んできた男は途端に言葉尻をすぼめると、肩を縮こまらせ足早に去って行ったのだった。
「……ごめんね。助けるためとはいえ、身体に触れてしまって。絡まれて困っているように見えたから」
「は、はい! 本当に助かりました、ありがとうございます!」
日鞠が立ち上がって深くお辞儀をすると、男性は「それじゃあ」と片手を振って背を向ける。そして彼は、もう片方の手に掴んでいた帽子を頭に被った。
(えっ?)
帽子姿から視線を下げると――羽織の背に刻まれた、葉をあしらった特徴的な紋様が目に飛び込んできた。さらに手元には、このあたりではとんと見ることのない、ハイカラなステッキが握られている。
「あ〜っ!?」
その格好は、彼こそが夢の中で馬車に轢かれた男性だということを指し示していた。
突然大声をあげた日鞠に驚いたのだろう、彼は立ち止まって振り向く。
「ええと。どうしたんだい」
「あのっ、行ってはだめです! そちらには!」
慌てて袖を掴むと、彼は形の良い眉を顰め、困惑したような表情を見せる。
「行ってはだめって、どういう意味?」
「危ないんですっ、そちらの道は!」
通りを指して必死に声をあげるも、彼は露骨に迷惑げな目つきになった。
「……君ね、こういうのはちょっと。どうかと思うよ」
うんざりしたような声色だった。引き留めるための適当な口実だと思われたのだろう。
正直、無理もないと思う。驚くほど綺麗で洗練された人だから、日頃から女の子たちに付き纏われているだろうことは想像に難くない。
肌にこそ触れていないとはいえ若い女が男性の袖を掴むなんて、はしたないと誹られても仕方ないことも理解していた。
さっきまで親切にしてくれていた人から今、侮蔑的な眼差しを向けられている。胃がきゅっと縮むような感覚を堪える。
「悪いけど、これから用事があるんだ。困るよ」
「違うんです、そうではなくて」
しかし馬鹿正直に「その道に行くと貴方、馬車に轢かれます!」などと言ってしまえば、もっとおかしな女だと思われてしまうだろう。口ごもっていると、彼は「はぁ」と大きくため息をついた。
無視を決めたのか、彼は日鞠の手をぞんざいに振り解く。それでも、そのまま行かせるわけには行かないのだ。振り払われた袖をもう一度掴む。
「お願いです! せめて向こうの道から――」
「だから、君――」
その時、ばたばたと大きく乱れた蹄の音と、馬のわななきが響いた。
「きゃあああっ!」
「危ない!」
遠くから、人々の悲鳴が聞こえる。
声の方に視線を送ると、ぐらぐらと後ろの車体を揺らした馬車の馬が、尋常じゃない勢いで走って来ていた。
馬が塀に突撃しかけたすんでのところで、御者がなんとか手綱を引く。しかし車体は完全には衝突を免れられず、ギギギッと音を立て、塀に大きな傷をつけた。
暴走馬車が止まり、辺りが一瞬静まり返る。
次の瞬間から、「危なかったねぇ」「怖かったぁ」というような声がざわめきとなって広がっていった。胸を撫で下ろしたのは、日鞠も同じだった。
「よ、良かった……」
思い出したかのように、心臓がうるさく音を立てる。耳の裏でどくどくと血が巡っているのが分かった。
気付かぬうちに息を詰めていたらしい。三日間続いた極度の緊張が解け、ふぅーっと大きく吐いていると、横から視線を感じた。
顔をあげると、先ほどまで日鞠を迷惑そうに見ていた彼が、本来は馬車に巻き込まれるはずだった彼が、こちらをじっと見ていたのだ。
慌てて掴んでいた袖をさっと離す。
「君……まさか。馬車が突っ込んでくるって、分かっていたの?」
「そ、そのようなことは」
鋭い眼差しに、汗がだらだらと流れる。奥底まで見透かそうとするような視線から、必死に目を逸らした。
事故が起こると分かっていただなんて、常識的に考えればありえない。単なる偶然だと、きっとすぐこの人も納得することだろう。
ならば、今できることは一つだけだ。
「あの! それじゃあ、失礼します……!」
ぱたぱたと草履を鳴らしながら、日鞠は一目散に屋敷へと逃げ出したのだった。




