プロローグ
「それじゃあ、お嬢さん――僕と結婚しない?」
遠坂日鞠は、困惑していた。
何の脈絡もなく……少なくとも日鞠にはそう思えるほど唐突に、目の前の貴公子から求婚されたからだ。
彼の名は、初木雪之丞――帝都で知らぬ者はいないという、若き実業家。
長い睫毛から覗く黒曜石の瞳は妖しく輝き、高い鼻は芸術品を思わせる。
誰もが目を奪われるような美貌と、洗練された佇まいを持つ彼は、警戒をあらわにした日鞠にくすりと笑いかける。
「あぁ、愛だとか恋だとか、安っぽい言葉を持ち出すつもりはないから安心してくれ。ただ僕たちは……互いに利益をもたらすことが出来るんじゃないか、と思うんだ」
「利益、ですか?」
「君の身の安全と衣食住を保証しよう。それだけじゃない。銀座のスイーツも、流行の洋服も、何でも欲しいものを与えよう。僕と組むなら、いずれ帝都のお姫様にしてあげる」
雪之丞は、日鞠を見つめる。
提示された贅沢品に興味を惹かれたわけではない。しかし『身の安全と衣食住』、それは今の日鞠が喉から手が出るほど欲しているものだった。
夕闇のような瞳の奥に、獰猛な光が宿ったのが見えた。
「その代わり――君の《《夢見》》の能力を、僕のために使ってほしい」
夢見とは、日鞠が持つ予知夢の能力のことだ。彼はそれを寄越せと強請っている。
いまだ迷いの最中にある日鞠を見て、雪之丞は言い聞かせるように声色を和らげた。
「いいかい君、これは契約だ」
「けい、やく」
契約。提示されたのは、馴染みのない言葉だ。
「そう、契約結婚をしよう。――僕の商売道具になるといい」
若草色の着物の袖から覗く、骨ばった彼の指先が差し出される。甘やかな声の中身は、実に打算的なものだった。
(この手を取れば……私は、幸せになれますか?)
考えた末、最後に日鞠はその手を取った。
「謹んでお受けいたします」
「物分かりのいい女性は好きだよ」
きゅっと指が握り込まれる。そのまま引き寄せられ、彼は日鞠の指先に口付けた。
「伯爵家のお嬢さん。大切にすると約束しよう」
――商売道具として。
そんな本音を隠そうともせず、その商人は美しく、目を細めたのだった。




