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五話

眠れたのかどうか、修司にはよく分からなかった。


横になった記憶はある。


柔らかな寝台に身体を預け、見知らぬ天井を見上げていた記憶もある。部屋の灯りは落とされ、壁際の魔導灯だけが淡く光っていた。窓の外には知らない国の夜が広がっていて、遠くからかすかに鐘の音のようなものが聞こえていた。


杏奈は隣の寝台にいた。


同じ部屋だが、寝台は別だった。


それが当然なのか、気遣いなのか、この世界の礼法なのか、修司には分からない。ただ、杏奈がすぐ近くにいることだけは分かった。暗がりの中で彼女が身じろぎするたび、布の擦れる音が聞こえた。眠っていないのだと分かるたびに、修司も目を閉じられなくなった。


けれど、声はかけなかった。


何を言えばいいのか分からなかったからだ。


大丈夫だ、と言うには無責任すぎる。


何とかなる、と言うには何も分かっていない。


帰れる、と言うこともできない。


それでも、隣にいる。


それだけは嘘ではなかった。


修司は何度か目を閉じ、何度か目を開けた。


その繰り返しの中でいつの間にか意識が薄れていたらしい。


気づけば部屋の中に朝の光が差し込んでいた。


知らない朝だった。


窓の向こうには、淡い金色の空が広がっている。日本で見た朝と似ているようで、どこか違う。光の色なのか、空気の澄み方なのか、城の高い場所から見下ろす街並みのせいなのか、修司にははっきりとは分からなかった。


鳥の声が聞こえた。


だが、それも知っている鳥の鳴き声ではない。少し低く、長く尾を引くような声だった。


修司は寝台の上で身体を起こした。


身体が重い。


疲れは取れていなかった。


むしろ、眠る前よりも重いかもしれない。緊張が緩んだぶん、身体の奥に溜まっていた疲労が一気に表に出てきたようだった。肩は硬く、背中も痛い。寝台は柔らかかったはずなのに、熟睡した感覚はなかった。


「……起きた?」


隣から声がした。


杏奈だった。


すでに起きていたらしい。寝台の端に腰かけ、窓の方を見ていた。髪は少し乱れている。顔色も良いとは言えない。それでも姿勢は崩れていなかった。


修司は小さく息を吐いた。


「おはよう」


「おはよう」


「眠れたか?」


杏奈は少しだけ黙った。


それから正直に首を横へ振った。


「ほとんど」


「だよな」


「修司は?」


「寝たような、寝てないような」


「それは寝てないに近いと思う」


「杏奈判定だとそうなるか」


「たぶん」


いつもの会話の形だった。


だが、いつもの朝ではなかった。


大学へ行く前でもない。休日の朝でもない。二人のどちらかの家で目を覚ましたわけでもない。ここはローディス王国の王城で、窓の外には王都ローディアが広がっている。


修司は寝台から足を下ろした。


床は冷たくなかった。厚い敷物が敷かれているからだろう。昨日の石室の冷たさとは違う。だが、その違いがかえって、ここが安全なのかどうかを分からなくさせた。


客室は静かだった。


丸卓の上は片づけられている。昨夜の食器はいつの間にか下げられていたらしい。寝ている間に誰かが入ったのか、それとも修司が気づかなかっただけなのか。そう考えた瞬間、わずかな不快感が胸をかすめた。


「誰か、入ったのか」


修司が呟くと、杏奈が頷いた。


「たぶん。食器がなくなってる」


「気づいた?」


「少しだけ。扉の音がした気がする。でも、すぐにまた寝てしまったと思う」


「そっか」


修司は扉を見る。


扉の外には、おそらく騎士がいる。


守られている。


見張られている。


その境目はまだ曖昧だった。


杏奈も同じことを考えていたのか静かに言った。


「悪意はなさそう。でも、慣れるには時間がかかると思う」


「だな」


修司は頭をかいた。


「勝手に部屋へ入られるのはちょっと落ち着かない」


「それは伝えた方がいい」


「朝から要求か」


「要求じゃなくて確認。こちらの感覚も伝えないと、相手には分からない」


「確かに」


杏奈は冷静だった。


いや、冷静でいようとしている。


修司にはそれが分かった。彼女の指先は膝の上で軽く組まれている。落ち着いているように見えるが、時折親指が小さく動く。考えている時の癖だった。


扉が控えめに叩かれたのは、その時だった。


二人の視線が同時に向く。


修司は立ち上がった。


「はい」


自分の声が思ったより硬い。


扉の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。


「グレン・フォン・ライゼルです。入室してもよろしいでしょうか」


修司は杏奈を見る。


杏奈が小さく頷いた。


「どうぞ」


扉が開いた。


入ってきたのはグレンだった。鎧姿ではあるが、昨日より少しだけ軽装に見える。腰には剣を帯びているが、手は柄から離れていた。彼の後ろには、侍女が二人、そして文官らしき若い女性が控えている。


グレンは室内へ入りすぎない位置で足を止めた。


「おはようございます。神崎修司殿、来女木杏奈殿。昨夜は少しでも休めましたか」


「少しは」


修司が答える。


杏奈も続けた。


「ありがとうございます。ただ、一つ確認してもいいですか」


「もちろんです」


「昨夜、私たちが眠っている間に、部屋へ誰か入りましたか」


グレンの表情がわずかに引き締まった。


「はい。食器を下げるため、侍女が入りました。扉外の近衛騎士が立ち会っています。説明が不足していました。申し訳ありません」


即座に謝罪が返ってきた。


杏奈は少しだけ目を伏せた。


「責めているわけではありません。ただ、私たちの感覚では、眠っている間に知らない人が部屋へ入るのは落ち着きません」


「当然です」


グレンは即座に答えた。


その返答に、修司の眉がわずかに動いた。


「当然と思うなら、なんで入れたんだ?」


声は荒くなかった。


だが、軽くもなかった。


グレンは一瞬だけ言葉を止めた。


それから、逃げずに修司を見る。


「王城側の慣習を貴殿らにもそのまま当てはめてしまいました。客室の食器を下げ、部屋を整えることは、こちらでは通常の対応です。ですが、貴殿らの立場を考えれば先に確認すべきでした」


修司は黙ってグレンを見た。


言い訳をするかと思った。


だが、グレンはそうしなかった。


「説明が不足していました。申し訳ありません」


グレンは深く頭を下げた。


杏奈は少しだけ目を伏せた。


「私たちはまだ、この世界の常識を知りません。そちらでは普通のことでも、私たちには怖いことがあります」


「承知しました。以後、入室の際は必ず声をかけ、返答がなければ緊急時を除いて入りません。食器や清掃についても、起床後に確認を取るよう徹底します」


グレンは後ろの侍女たちへ視線を向けた。


侍女たちはすぐに深く頭を下げる。


「申し訳ございませんでした」


杏奈は慌てたように首を横へ振った。


「いえ、分かっていただければ大丈夫です」


修司はその様子を見て、内心で少し感心した。


グレンは、こちらの違和感を軽く扱わない。


それは昨日から一貫していた。だから信用できる、とはまだ言えない。だが、話せば通じる相手であることは確かだった。


グレンは一歩下がり、後ろの文官を示した。


「こちらは女王府より遣わされた文官です。しばらくの間、お二人の生活説明と手続きの補助を担当します」


若い女性が前へ出た。


年は二十代半ばほどだろうか。栗色の髪を後ろでまとめ、落ち着いた灰色の服を着ている。華美ではないが、きちんと整えられていた。手には書板と細い筆のようなものを持っている。


彼女は深く一礼した。


「セリア・フォン・アークライトと申します。女王府で行政文書を扱っております。本日より、神崎修司様、来女木杏奈様への説明役を務めさせていただきます」


修司は少しだけ困った。


様。


そう呼ばれることに慣れていない。


「様ってのは、ちょっと落ち着かないな」


セリアは一瞬だけ目を瞬かせた。


「では、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」


「普通に修司でいい」


杏奈が横から静かに言う。


「それはこの国の礼法として問題ありませんか」


「近しい間柄であれば名のみで呼ぶこともありますが、初対面の方へは通常、敬称を添えます」


セリアが答える。


杏奈は頷いた。


「では、無理にこちらへ合わせなくて大丈夫です。私たちも慣れます」


「承知しました」


修司は小さく肩をすくめた。


「杏奈がそう言うなら」


「修司はすぐ適当に流そうとするから」


「流してない。柔軟に対応してる」


「言い方だけは上手いわね」


セリアは二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。


だが、すぐに姿勢を正す。


「まずは朝食をご用意しております。その後、お二人のご負担にならない範囲で今後必要になることを順に説明いたします」


「どんなことを?」


修司が聞く。


セリアは書板を見た。


「本日は大きく分けて三つです。王城内での当面の生活について。ローディス王国で生活するうえで最低限必要な常識について。そして、お二人の一時身分証と今後の選択肢についてです」


「いきなり授業みたいだな」


「授業に近いものとお考えください」


「まじか」


杏奈が修司を見る。


「ちゃんと聞く」


「まだ何も言ってない」


「顔に出てる」


「俺の顔ってそんなに分かりやすいか?」


「分かりやすい」


修司は諦めたように息を吐いた。


グレンが扉の近くで小さく咳払いをした。


「では、朝食をお持ちしてもよろしいでしょうか」


杏奈が頷く。


「お願いします」


侍女たちが静かに一礼し、一度部屋を出ていく。


しばらくして運ばれてきた朝食は、昨夜よりも軽いものだった。温かな麦の粥のようなもの、薄く焼いたパン、白い乳製品らしきもの、蜂蜜に似た香りのする果実、湯気の立つ茶。見慣れないものばかりだったが、匂いは穏やかだった。


修司は卓の上を見て、少しだけ腹が鳴りそうになった。


それに気づいた杏奈が、小さく目を細める。


「今度は鳴る前に食べた方がいい」


「昨日のことは忘れてくれ」


「忘れないと思う」


「そこは忘れてほしい」


修司は匙を取った。


毒の心配は、昨日ほど強くはなかった。


もちろん、完全に消えたわけではない。それでも王城側が何かをするつもりなら、もっと簡単な方法はいくらでもあるはずだ。そんなことを考えている時点で、ずいぶん物騒な思考になったものだと自分でも思う。


杏奈も少しずつ食べ始めた。


味は優しかった。


粥は麦の香りが強く、ほんの少し塩気がある。果実は見た目より酸味が少なく、甘さが口に残る。茶は日本のものとはまるで違う香りだったが、不思議と飲みにくくはなかった。


修司は匙を置き、窓の外を見た。


王都ローディアの朝が広がっている。


昨日見た時よりも、街はずっと生きて見えた。遠くの通りを小さな人影が動いている。煙突から薄い煙が上がり、市場らしき場所には色のある布が並び始めていた。城壁の内側にも外側にも建物があり、道があり、人の流れがある。


異世界。


その言葉は、まだ重い。


だが、朝の街を見ていると、そこにあるのは恐怖だけではなかった。


知らないものがある。


知らない場所がある。


知らない匂い、知らない音、知らない景色。


昨日はそれを受け止める余裕などなかった。


今も、余裕があるとは言えない。


それでも、修司の中で何かが動いた。


元の世界へ戻れないかもしれない。


この世界で生きなければならないかもしれない。


ならば、怯えて座り込んでいるだけでは何も始まらない。


「杏奈」


「何?」


「まぁ、折角異世界に来ちまったんだ、楽しもうぜ?元の世界へ帰る方法は、この世界を楽しみながら探せばいいさ」


部屋の空気が、一瞬だけ止まった。


グレンが目を瞬かせる。


セリアも書板から顔を上げる。


杏奈は修司をじっと見た。


その目は、呆れているようでもあり、驚いているようでもあり、少しだけ怒っているようでもあった。


「修司」


「うん」


「今の状況、分かってる?」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


修司は窓の外を見たまま言った。


「帰れる保証はない。金もない。常識も分からない。魔法も分からない。俺は魔力が危ないらしいし、王女様には人生ぶっ壊されたし、この国をどこまで信用していいのかも分からない」


杏奈は黙って聞いていた。


修司は少しだけ笑った。


「でもさ、ずっと怒ってても、ずっと怖がってても、たぶん腹は減るし、朝は来るんだよ」


昨夜のスープ。


今朝の粥。


窓の外の街。


それらが、修司の中で妙に現実としてつながっていた。


「だったら、生きるしかない。生きるなら、ただ耐えるだけより、面白いものは面白いって思いたい。知らないものを見たら驚きたいし、美味いものがあったら美味いって言いたいし、魔法があるなら覚えてみたい」


「……怒ってないわけじゃないのね」


「怒ってる」


修司は即答した。


「アリスを許したわけじゃない。帰りたい気持ちがなくなったわけでもない。家族とか大学とか、置いてきたものを考えたら、今でも胸が変な感じになる」


言葉にすると、少しだけ痛かった。


認めたくないものを、無理やり外へ出すような感覚だった。


「でも、それだけで全部埋めたら、たぶん俺はもたない」


修司は杏奈を見る。


「杏奈も、もたない」


杏奈の唇がわずかに動いた。


言葉は出なかった。


修司は続けた。


「だから楽しむ。無理に笑うって意味じゃない。忘れるって意味でもない。ただ、この世界に来たことを全部不幸だけにしたくない。帰る方法を探すなら、探してる間もちゃんと生きたい」


静かな言葉だった。


軽口の形で始まった言葉の奥に、修司なりの覚悟があった。


杏奈はしばらく彼を見つめていた。


やがて、小さく息を吐く。


「本当に、修司らしい」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「呆れてる」


「いつもの配分だな」


杏奈は少しだけ笑った。


昨日から見た中で、一番自然な笑みだった。


それを見て、修司の胸の奥が少し軽くなった。


杏奈は器を両手で包み、窓の外へ目を向ける。


「でも、そうね」


「うん?」


「この世界を全部、怖いものとして見続けるのは、たぶん苦しい」


「だろ」


「だからといって、油断はしない」


「もちろん」


「変なものを拾わない」


「俺、子ども扱いされてる?」


「危なそうなところへ一人で行かない」


「否定しないんだな」


「魔法を覚える時は、ちゃんと教えてもらう」


「それは大事」


「それから、楽しむなら、私も一緒に楽しむ」


修司は一瞬、言葉を失った。


杏奈は窓の外を見たまま、静かに言った。


「修司だけが前を向こうとしなくていい。私も考える。私も選ぶ。怖いけど、ずっと怖がっているだけではいたくない」


修司は、ゆっくりと笑った。


「やっぱ杏奈がいてよかった」


「それ、昨日も言った」


「何回言ってもいいだろ」


「状況による」


「今は?」


杏奈は少し考えた。


「許す」


「よし」


グレンは二人のやり取りを黙って見ていた。


その表情はいつものように硬い。だが、その目には昨日よりも柔らかなものがあった。


セリアは書板に何かを書きかけて、手を止めている。


修司が気づいて尋ねた。


「今のも記録するのか?」


セリアは少しだけ困ったように微笑んだ。


「記録するべきか迷っておりました」


「しなくていいだろ」


「ですが、お二人が今後この世界で生活していくうえで、重要な心情の変化にも思えます」


「心情の変化って言われると急に恥ずかしいな」


杏奈が横から言った。


「書くなら、修司が軽率に前向きな発言をした、でいいと思います」


「杏奈さん?」


「違う?」


「違わないけど言い方」


セリアはほんの少しだけ笑った。


「では、詳細な記録は控えます」


グレンが口を開いた。


「神崎殿」


「はい」


「前向きであることは、悪いことではありません。ただ、この世界は貴殿らにとって未知です。楽しむためにも、まずは知ることが必要です」


「分かってます」


修司は頷いた。


「昨日の魔力の話もあるしな」


「はい。特に神崎殿は、魔力の扱いを誤れば危険です。魔法そのものに興味を持つことは自然ですが、独学は避けてください」


「独学で炎出そうとしたらまずい?」


「まずいです」


即答だった。


修司は思わず笑った。


「分かりやすい」


杏奈は真顔で言った。


「絶対にやらないで」


「やらない。約束する」


「本当に?」


「本当に」


「昨日も、できるだけ無茶はしない、だったから信用が少し足りない」


「あれは表現の問題で」


「修司」


「はい。勝手に魔法は使いません」


杏奈はようやく頷いた。


「よろしい」


セリアがまた書板に何かを書きそうになり、慌てて手を止めた。


修司はそれを見て苦笑する。


この部屋の空気は、昨日よりも少しだけ軽くなっていた。


状況は何も解決していない。


帰る方法は見つかっていない。


アリスの処分もまだ正式には伝えられていない。


これから覚えなければならないことは山ほどある。


それでも、朝食の温かさと、杏奈の笑みと、窓の外に広がる王都の景色が、修司の中に小さな足場を作っていた。


ここで生きる。


少なくとも、帰る道を探すまでは。


そのためには、まず知らなければならない。


セリアが改めて姿勢を正した。


「では、朝食後に最初の説明を始めてもよろしいでしょうか」


杏奈が頷く。


「お願いします」


修司も匙を置いた。


「最初は何から?」


「貨幣と身分証についてがよろしいかと思います。生活するうえで、最も早く必要になりますので」


「金と身分証か」


修司は少しだけ顔をしかめる。


「どっちも全然分からないな」


「そのために説明いたします」


セリアは書板を開いた。


「まず身分証についてですが、この大陸では、各国がそれぞれ自国の身分証を発行しています。ローディス王国内で暮らす場合、基本となるのはローディス王国発行の身分証です。宿泊、雇用、各種手続き、都市への出入りなどで提示を求められることがあります」


杏奈がすぐに聞いた。


「私たちには、その身分証がないということですね」


「はい。ですが、女王陛下の命により、お二人にはローディス王国の一時身分証を発行する手続きを進めます。これは正式な国民登録とは異なりますが、王国内で当面生活するための身元証明として機能します」


「他の国では使えないのか?」


修司が聞く。


「完全に使えないわけではありませんが、他国での効力は限定的です。たとえばセビリア帝国、エルリューン王国、ポトフ・ユナイテッド王国には、それぞれ独自の身分証制度があります。国境を越えて活動する場合、その国で別途手続きが必要になることもあります」


「めんどくさそうだな」


「国が違えば、法も管理の仕組みも異なりますので」


セリアは丁寧に答えた。


「ただし、国を越えて活動する者たちのために、冒険者ギルドのギルドカードが身分確認の補助として使われることもあります。ギルドカードは国家発行の身分証ではありませんが、冒険者としての登録、ランク、依頼履歴などを示す資格証に近いものです」


修司は少しだけ興味を引かれた顔をした。


「つまり、王国の身分証とギルドカードは別物ってことか」


「はい。別物です。王国の身分証はローディス王国が発行するもの。ギルドカードは冒険者ギルドが発行するものです。両方を持つ者も珍しくありません」


杏奈が頷く。


「まずは王国の一時身分証。その後、必要なら冒険者ギルドへの登録も検討する、という順番ですね」


「その理解で問題ありません」


修司はすでに少し難しい顔をしていた。


「身分証だけで結構あるな」


「制度としては複雑ですが、当面お二人が覚えるべきことは限られています。まずは、王国内では王国の一時身分証を使うこと。冒険者ギルドのギルドカードは、それとは別の資格証であること。この二つを押さえていただければ大丈夫です」


「なるほど。そこだけなら何とか」


「本当に?」


杏奈が横から確認する。


「今のは分かった。今のは」


「後で確認するから」


「厳しい」


「必要なことよ」


セリアは二人のやり取りを待ってから、書板へ視線を落とした。


「次に貨幣について説明いたします。ローディス王国で一般に用いられる貨幣は、銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、大金貨、白金貨、黒金貨です」


「多いな」


「日常で主に使われるのは銅貨から銀貨あたりです。大銀貨以上は、庶民の日常ではあまり頻繁には使いません」


杏奈がすぐに質問する。


「価値の目安はありますか」


「はい。こちらの感覚で恐縮ですが、一般的な食事一回が銅貨数枚から大銅貨一枚程度。宿屋は等級によりますが、一泊で大銅貨数枚から銀貨数枚ほどです」


修司はさらに難しい顔になった。


杏奈は真剣に聞いている。


セリアは二人の反応を見て、少しだけ説明の速度を落とした。


「後ほど実物をお見せします。実際に触れていただいた方が分かりやすいでしょう」


「それは助かる」


修司が言う。


「数字だけだと、たぶん俺は覚えない」


「覚えて」


杏奈が即座に言った。


「覚える努力はする」


「努力じゃなくて覚える」


「はい」


グレンが横で静かに言った。


「来女木殿がいれば、神崎殿の学習面は安心かもしれません」


「グレンさんまで?」


「失礼しました」


謝ってはいるが、グレンの目にはわずかな笑みがあった。


修司はわざとらしく肩を落とした。


「この世界に来て一日で、俺の扱いが固まってきてる気がする」


杏奈は淡々と言った。


「元からそういう扱いだったでしょう」


「否定できない」


会話の隙間に窓の外から鐘の音が聞こえた。


朝を告げるものなのか、城内の時刻を知らせるものなのかは分からない。だが、その音は王都の空へ広がり、石造りの街並みへ溶けていった。


修司は窓の外を見る。


知らない街。


知らない国。


知らない世界。


昨日は、そのすべてが恐ろしく見えた。


今も怖い。


それは変わらない。


だが、その中に少しだけ、知りたいと思えるものが混じり始めていた。


修司は器に残った粥を食べ切った。


「よし」


杏奈が見る。


「何が、よし?」


「まずは金と身分証だな」


「そうね」


「それ覚えたら、次は街を見てみたい」


グレンがすぐに答える。


「王城内から見える範囲であれば、後ほどご案内できます。王都へ出るのは、もう少し説明を終えてからがよいでしょう」


「案内してくれるのか」


「女王陛下より、説明を省かぬよう命じられております」


「真面目だな」


「職務です」


修司は笑った。


杏奈も窓の外を見る。


「王都を歩く前に、してはいけないことを教えてください」


「もちろんです」


セリアが頷いた。


「服装、身分の示し方、店での支払い方、種族への失礼にあたる振る舞い、衛兵への対応など、最低限のことから説明します」


「種族への失礼」


杏奈が繰り返す。


「それは大事ね」


「たとえば、耳や尾を珍しがってじっと見ることは避けた方がよいです」


修司は昨日の廊下を思い出した。


「危なかった」


杏奈が横目で見る。


「やっぱり見そうになってたのね」


「一瞬だけな」


「一瞬でも相手には分かるかもしれない」


「気をつけます」


修司は素直に言った。


この世界には、この世界での当たり前がある。


修司たちが知らないだけで、そこに生きる者たちにとっては当然の礼儀や常識がある。異世界だからといって、何をしても許されるわけではない。


それを最初に理解しておくことは、たぶん大切だった。


杏奈はセリアへ向き直った。


「お願いします。私たちは、この世界では何も知らないに等しいです。分かっていて当然、という前提を外して説明してもらえると助かります」


「承知しました」


セリアは深く頷いた。


「では、できる限り一つずつ説明いたします。分からないところがあれば、その都度止めてください」


「ありがとうございます」


杏奈は礼を言った。


修司も続ける。


「よろしくお願いします」


セリアは少しだけ驚いたように目を見開いた。


それから、丁寧に一礼した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


そのやり取りを見て、修司は思った。


ここでの最初の味方は、まだ少ない。


杏奈。


そして、今のところ話が通じるグレン。


真面目に説明してくれそうなセリア。


女王エレノアも、少なくとも敵ではない。


それだけで十分とは言えない。


だが、何もないわけではない。


修司は椅子に座り直した。


杏奈も隣で姿勢を正す。


セリアが書板を開き、グレンが扉近くで静かに控える。


窓の外では、王都ローディアの朝が少しずつ動き出していた。


知らない世界での最初の授業が、始まろうとしていた。

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