四話
扉の向こうに立っていた女性は、声を荒げる必要のない人間だった。
それが修司の第一印象だった。
豪奢な衣装をまとっている。深い藍を基調とした長衣には、銀糸で細かな紋様が縫い込まれていた。胸元には王家の紋章らしき装飾があり、髪には小さな王冠が載せられている。だが、修司の目を引いたのは、衣装でも冠でもなかった。
目だった。
静かで、深く、揺るがない目。
怒りを燃やしているようには見えない。悲しみに沈んでいるようにも見えない。ただ、目の前で起きた事態を一つも見落とさず、その重さを正面から受け止めている目だった。
その女性の後ろには、数人の護衛と文官らしき者たちが控えていた。だが、部屋へ入ってきたのは彼女だけだった。護衛たちは扉の外で足を止め、文官たちも一歩下がる。
部屋の中の空気が変わった。
グレンが深く頭を下げる。
「女王陛下」
その言葉で修司は改めて理解した。
この女性がローディス王国の女王。
この国の実質的な頂点。
第四王女アリスを裁くことができる者。
そして、今の修司と杏奈の立場を決めることができる者。
女性はグレンに一度だけ視線を向け、それから修司と杏奈を見た。
「突然の来訪を許してください」
声は低すぎず、高すぎず、よく通った。
命令に慣れた声だった。だが、そこに傲慢さはなかった。むしろ、その第一声が謝意に近いものだったことに修司は少しだけ意表を突かれた。
「私はエレノア・フィン・ローディス。ローディス王国女王です」
彼女は名乗り、そして静かに頭を下げた。
その瞬間、部屋の中の者たちが息を呑んだ。
近衛騎士たちも、文官も、侍女も、明らかに動揺していた。女王が客室で、しかも見知らぬ異界人に頭を下げる。それはこの世界の常識では、決して軽いことではないのだろう。
だが、エレノアは周囲の反応を気にしなかった。
深く、長く、頭を下げた。
「神崎修司殿。来女木杏奈殿。このたび、我が王家の者が禁忌を犯し、貴殿らを本人の意思に反してこの世界へ召喚しました。王家を預かる者として、またこの国の女王として、まず心よりお詫び申し上げます」
修司は言葉を失った。
謝られるだろうとは思っていた。
グレンもそう言っていた。
だが、女王がここまでまっすぐ謝罪するとは思っていなかった。言い訳も、前置きも、王家の事情もない。最初に置かれたのは、謝罪だった。
隣の杏奈は、修司より先に姿勢を正した。
「頭を上げてください」
声は少し硬かった。
エレノアはゆっくりと顔を上げた。
杏奈はその目をまっすぐ見返した。
怖くないはずがない。
相手は女王だ。権力者だ。ここは相手の城で、自分たちは何の後ろ盾もない異界人でしかない。それでも杏奈は目を逸らさなかった。
「謝罪を受け入れるかどうかは、今はまだ判断できません」
「当然です」
エレノアは即座に答えた。
その返答に修司はわずかに眉を動かした。
当然。
グレンも同じ言葉を使っていた。
この女王と近衛騎士団長の間には、少なくともこの件についての認識に大きなずれはないらしい。
エレノアは部屋の中へ一歩進んだ。
「座ってください。貴殿らは、私に礼を取る必要はありません」
「……いいんですか」
修司は思わず聞いた。
「この国の礼法を知らない者に、礼法を求める方が無礼です。それに、今この場で最も尊重されるべきは王家の面子ではなく、貴殿らの心身です」
淡々とした言葉だった。
だが、軽くはなかった。
修司と杏奈は一度視線を交わし、長椅子へ腰を下ろした。エレノアは向かいの椅子には座らず、少し距離を取って立ったままだった。おそらく二人へ圧をかけないためだろう。
グレンは扉近くで控えている。
部屋の中には、静かな緊張だけが残った。
「まず確認します」
エレノアが言った。
「貴殿らの体調に大きな異常はありませんか」
杏奈が答える。
「医師の方には外傷はないと言われました。魔導官の方にも、今のところ害になる反応はないと」
「そうですか」
エレノアはわずかに安堵したようだった。
だが、その安堵はほんの一瞬で消えた。
「身体に傷がないことと、受けた被害が軽いことは同じではありません。貴殿らは生活と人間関係と未来を突然奪われた。その事実は、王国として決して軽く見ません」
修司の胸の奥で、何かが引っかかった。
この人は分かっている。
少なくとも分かろうとしている。
それはありがたいことのはずだった。だが同時に、だからと言って怒りが消えるわけではなかった。
修司は拳を握った。
「なら聞きます」
「どうぞ」
「俺たちは帰れるんですか」
部屋の空気がさらに重くなった。
グレンがわずかに目を伏せた。
文官が息を詰める気配がした。
だが、エレノアだけは目を逸らさなかった。
「現時点で、王国は貴殿らを元の世界へ戻す手段を持っていません」
はっきりとした答えだった。
予想していた。
それでも、実際にこの国の女王の口から聞くと、胸の奥が冷えた。
杏奈の手が、膝の上でわずかに握られる。
修司は歯を食いしばった。
「探す気は」
「あります」
エレノアは即答した。
「ただし、軽々しく希望を与えるつもりはありません。禁忌召喚は通常の魔法体系から外れた危険な術です。王国の魔導院、禁書庫の記録、古代語の研究者を用いて調査は行います。しかし、戻れると約束することはできません」
「約束できないけど、調べる」
「はい」
「それが俺たちに言える限界ってことか」
「今この場では」
修司は笑いそうになった。
もちろん、楽しいからではない。
あまりにも現実的で、どうしようもない答えだったからだ。
杏奈が静かに口を開いた。
「私たちの扱いについて確認させてください」
「はい」
「私たちは拘束されるのですか」
「いいえ」
エレノアは首を横へ振った。
「貴殿らを罪人として扱う理由はありません。貴殿らは被害者です」
「では、自由に外へ出られるのですか」
「今日すぐには難しいでしょう」
杏奈の目が細くなる。
エレノアは言葉を続けた。
「それは貴殿らを閉じ込めるためではありません。この国の言葉が通じるとしても、文化、法、貨幣、身分、街の構造を何も知らない状態で王城外へ出れば、危険が大きすぎます。加えて、禁忌召喚の事実は王城内でもまだ整理されていません。混乱の中で貴殿らが不利益を受けることは避けなければなりません」
「保護、ということですか」
「はい。ただし、その言葉が拘束の口実にならないよう、明確に線を引きます」
エレノアは近くに控える文官へ視線を向けた。
文官は一礼し、手元の板に素早く何かを書き留める。
「貴殿らには、王国の保護客としての身分を一時的に与えます。王城内での滞在を認め、衣食住を王国が負担します。移動については、当面の間、近衛騎士団または女王府の者が同行します。ただし、これは監禁ではなく護衛です。貴殿らが説明を求めた場合、同行者は理由を説明する義務を負います」
杏奈は少しだけ考えた。
「私たちが拒否した場合は?」
「拒否する権利はあります」
エレノアは答えた。
「ですが、私は女王として、少なくとも数日は王城に留まることを強く勧めます。心身の安定、最低限の常識の説明、身分証の用意、貨幣と生活基盤の確認。それらを何も持たずに外へ出ることは、貴殿らにとって不利です」
「身分証?」
修司が聞き返す。
「この世界で生活するには、身元を示すものが必要になる場面があります。王国が一時身分を発行することもできますし、冒険者ギルドへ登録する方法もあります」
「冒険者ギルド……」
その言葉は、修司に妙な現実味のなさを与えた。
異世界。
魔法。
王城。
女王。
そこへさらに冒険者ギルドという単語が来ると、まるで物語の中にでも放り込まれたようだった。
だが、目の前の女王は真剣だった。
この世界ではそれが制度として存在しているのだろう。
杏奈は修司の方を一瞬だけ見てから、エレノアへ視線を戻した。
「私たちを何かに利用するつもりはありますか」
問いは鋭かった。
部屋の中の空気が張る。
グレンの表情は変わらなかったが、文官の手が一瞬止まった。
エレノアは、むしろその問いを待っていたように見えた。
「あります」
修司の目が険しくなった。
杏奈も唇を引き結ぶ。
だが、エレノアは続けた。
「ただし、それは貴殿らの意思を無視して利用する、という意味ではありません。貴殿らは異界から来た存在です。この国にとって未知であり、知識も性質も通常の民とは異なる可能性がある。王国が貴殿らに関心を持たないと言えば、それは嘘になります」
「正直ですね」
杏奈が言った。
「取り繕う方が不誠実です」
エレノアの返答は静かだった。
「王国は貴殿らを兵器として扱うことも、政治の道具として使うことも認めません。研究対象として拘束することもありません。ただし、魔力や身体に異常がある場合、それを調べる必要はあります。もちろん、本人の同意を得た上でです」
修司はエレノアを見た。
「俺たちが拒んだら?」
「拒めます」
「そのせいで待遇が悪くなることは?」
「ありません」
「本当に?」
「女王として約束します」
修司は黙った。
女王としての約束。
それがこの世界でどれほど重いのか、修司には分からない。だが、グレンや文官たちの反応を見る限り、軽い言葉ではないらしい。
杏奈が静かに言った。
「では、アリス王女はどうなるのですか」
その名が出た瞬間、エレノアの目に初めて強い色が差した。
怒りだった。
静かな怒り。
感情を爆発させるものではなく、冷えた刃のように研ぎ澄まされた怒りだった。
「アリスは王家の者として許されない罪を犯しました」
声は変わらない。
けれど、部屋の温度が下がったように感じた。
「禁書庫の封印区画へ無断で入り、禁忌指定された異界干渉術を発動させ、貴殿ら二人の人生を奪った。悪意がなかったことは、罪の消滅にはなりません。好奇心であったことは、むしろ王族としてさらに重い」
修司は黙って聞いていた。
怒鳴る母親ではない。
娘を庇う王族でもない。
エレノアは、女王としてアリスを見ている。
そのことだけは分かった。
「処分はすでに決めているのですか」
杏奈が問う。
「大枠は」
エレノアは答えた。
「継承権の剥奪。王族権限の停止。禁書庫への永久立入禁止。王女としての公務停止。そして、マーレリアへの送致を行う方針です」
「マーレリア?」
修司が聞いた。
「この大陸にある中立国です。重大な罪を犯した王族や貴族が、身分を失ったうえで送られることがあります。処刑ではありません。ですが、自由な追放でもありません。戒律と労務の中で、己の罪と向き合う場所です」
「それで、十分なんですか」
修司の声は低かった。
エレノアは目を逸らさなかった。
「十分かどうかを、私が決めてよいとは思っていません」
その答えに、修司は言葉を失った。
「貴殿らの人生は戻せません。どれほど重い処分を与えても、失われた時間と帰る場所を返すことはできません。だから、処分は罪に対するものです。貴殿らへの償いは別に行わなければならない」
「償い」
杏奈が呟いた。
「はい」
エレノアは頷いた。
「アリス個人の私財はすべて没収し、貴殿らへの補償に充てます。王国としても当面の生活費、教育、身分証の整備、住居、必要な装備を用意します」
修司は眉を寄せた。
「金を渡されても、納得できるかは別です」
「分かっています」
エレノアは即答した。
「金で人生を買い戻すことはできません。ですが、金がなければ、この世界で生活することも困難です。感情の問題と生存の問題は分けて考えなければなりません」
杏奈が少しだけ目を伏せた。
おそらく、その言葉は彼女の考え方に近かった。
許せるかどうかと、生きていけるかどうかは別。
その二つを混ぜれば必要なものまで拒んでしまう。
修司はそれを理解していた。理解していたが、簡単には割り切れなかった。
「アリス王女は私たちに謝罪しますか」
杏奈が聞いた。
エレノアの表情が、わずかに厳しくなる。
「させます。ただし、今すぐではありません」
「なぜですか」
「今のアリスは、自分が罰せられる恐怖と、自分の行為の重大さを混同しています。その状態で謝罪させても、貴殿らのための謝罪にはならないでしょう」
修司はアリスの顔を思い出した。
得意げな顔。
苛立った顔。
怯えた顔。
確かに、彼女がすぐに泣きながら謝ったとしても、それを素直に受け取れる気はしなかった。
エレノアは続けた。
「アリスには自分が何をしたのかを理解させます。その上で貴殿らが望むなら、謝罪の場を設けます。望まないなら、会わせません」
「こっちが拒否できるんですか」
「できます」
修司は、少しだけ息を止めた。
拒否できる。
会わなくていい。
その選択肢があることに、意外なほど救われる気がした。
杏奈も同じだったのか、膝の上の手から少し力が抜けたように見えた。
だが、彼女はすぐに顔を上げる。
「私たちが、今後この世界で生活するとして、何を学ぶ必要がありますか」
エレノアは、杏奈の問いに少しだけ目を細めた。
感心したようにも、痛ましそうにも見えた。
「多くあります」
「具体的には」
「まず、言葉が通じても文字を読めるかどうかの確認。貨幣。身分制度。王国法。種族についての基礎知識。魔法の危険性。街でしてはいけないこと。職を得る方法。王城を出る場合の滞在先。それから、貴殿ら自身の魔力について」
修司は顔をしかめた。
「多いな」
「少なく言っています」
「まじか」
杏奈が小さく息を吐いた。
「修司。これはちゃんと覚えないと駄目」
「分かってる。命かかってるしな」
「それもあるけど、他人に迷惑をかけないためにも」
「そこも杏奈らしいな」
「当然でしょう」
二人のやり取りにエレノアの表情がほんのわずかに緩んだ。
それは笑みというほど明確なものではなかったが、先ほどまでの重い空気が少しだけ動いた。
「貴殿らは互いをよく見ているのですね」
杏奈が少しだけ目を伏せる。
修司は肩をすくめた。
「長い付き合いなんで」
「そうですか」
エレノアは静かに頷いた。
「ならば、その関係は大切にしてください。知らぬ世界で、互いを知る者が隣にいることは、大きな支えになります」
その言葉は、女王としてというより、一人の大人としてのものに聞こえた。
修司は少しだけ黙った後、口を開いた。
「俺たちは、まだこの国を信用したわけじゃありません」
「はい」
「女王様がちゃんと謝ってくれたことも、グレンさんが俺たちを被害者として扱ってくれてることも、分かってます。でも、だからって、はい分かりましたって全部信じるのは無理です」
「それで構いません」
エレノアは言った。
「信頼は要求するものではなく、積み重ねるものです。王国は貴殿らに対してそれを一度失う以前に、始まりから大きな負債を背負いました。これからの扱いで示すしかありません」
修司はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
この女王は強い。
強いというのは、剣を振るうとか、魔法を使うとか、そういう意味ではない。誤魔化さず、自分に不利な事実を認め、それでも相手の前に立つ強さだった。
杏奈が静かに言った。
「女王陛下」
「はい」
「私たちは、しばらく王城に留まります。ただし、分からないことは質問します。納得できないことは拒否します。私たちの意思を無視しないでください」
「約束します」
エレノアは即座に答えた。
「貴殿らの意思を無視して何かを強制することはありません。ただし、命に関わる危険がある場合は、止めます。その時も理由を説明します」
杏奈は頷いた。
「分かりました」
修司も続いた。
「俺も、それでいい」
「ありがとうございます」
エレノアは再び頭を下げた。
今度は深すぎる礼ではない。だが、形式だけでもなかった。
「本日は、これ以上長く話すべきではないでしょう。貴殿らは疲れている。まずは食事を取り、休んでください。明日以降、必要な説明を順に行います」
「アリス王女には」
杏奈が言った。
「今日は会わせません」
エレノアは答えた。
「貴殿らの心をこれ以上乱すべきではありません。彼女の処分については、正式に決まり次第、必ず伝えます」
「分かりました」
会話が終わろうとしていた。
だが、修司には一つだけ聞いておきたいことがあった。
「女王陛下」
「はい」
「アリスは、何でそんな危ない本を読めたんですか。禁書庫って、普通は入れない場所なんですよね」
部屋の中に、重い沈黙が落ちた。
グレンの表情も硬くなる。
エレノアの目に、深い自責の色が浮かんだ。
「それは、王国側の管理責任です」
答えは短かった。
「封印区画は、王族であっても許可なく入れない場所です。にもかかわらず、アリスは侵入した。鍵、結界、警備、管理記録。そのどこに綻びがあったのか、徹底して調べます」
「王女だから見逃された?」
「その可能性も含めて調べます」
エレノアは逃げなかった。
「もし王族であることを理由に誰かが対応を緩めたのなら、その者も罰します。王族の罪は、王族だけで完結しません。止めるべき者が止められなかった責任もあります」
修司は黙った。
それを言えるなら、少なくとも隠すつもりはないのだろう。
完全に信用はできない。
だが、話す相手としては成立している。
それが今の修司の判断だった。
エレノアは二人を見た。
「他に、今この場で確認したいことはありますか」
杏奈は修司を見る。
修司は少し考えて、首を横へ振った。
「今はないです」
「私も今はありません」
「では、私は一度下がります」
エレノアはそう言い、扉の方へ向かった。
その途中でグレンの前で足を止める。
「グレン」
「はっ」
「神崎修司殿と来女木杏奈殿の護衛と対応を、引き続きあなたに任せます。彼らへの説明を省かないこと。王城内の者にも、二人を被害者として扱うよう徹底しなさい」
「承知いたしました」
「それから女王府の文官を一名つけます。生活、貨幣、文字、法、身分について説明できる者を」
「手配いたします」
エレノアは頷き、再び修司と杏奈を見た。
「改めて、謝罪します。貴殿らの人生を奪うきっかけを王家の者が作りました。取り返しがつかないことをした。その事実から私は逃げません」
杏奈は何も言わなかった。
修司も言葉を返せなかった。
許すとは言えない。
大丈夫だとも言えない。
けれど、沈黙で突き放すこともできなかった。
やがて杏奈が、小さく言った。
「……今日は休ませてください」
「もちろんです」
エレノアは静かに頷いた。
「よい眠りを、とは言いません。眠れない夜になるでしょうから。ただ、少しでも身体が休まるよう環境は整えます」
それは、妙に現実的な気遣いだった。
修司は思わず言った。
「女王様って、もっと遠い人かと思ってました」
グレンがわずかに目を見開いた。
文官も固まる。
だが、エレノアは怒らなかった。
「遠くにいるべき時もあります。けれど今夜はそうであってはならないでしょう」
そう言って、エレノアは部屋を出た。
扉が閉じられる。
その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
修司は長椅子に腰を下ろした。
力が抜けたというより、身体が急に重さを思い出したようだった。
杏奈も隣に座る。
しばらく、二人は何も言わなかった。
丸卓の上にはまだ温かいスープが残っている。窓の外には知らない国の空が広がっている。扉の外には近衛騎士がいて、この部屋は安全なのか不自由なのか、まだ判断できない。
だが、少なくとも一つだけ決まった。
今夜、二人はここで眠る。
日本ではない場所で。
帰り道の見えない世界で。
それでも、隣には互いがいる。
修司は、卓の上の器を見た。
「冷める前に食うか」
杏奈は少しだけ驚いたように彼を見る。
それから、ほんのわずかに笑った。
「そうね。食べないと、考える力も出ない」
「杏奈らしい」
「修司こそ」
「俺は腹が減っただけ」
「それも修司らしい」
二人は静かに食事を再開した。
味はよく分からなかった。
けれど、温かかった。
それだけは確かだった。
知らない世界で迎える最初の夜は、まだ始まったばかりだった。




