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三話

階段の先にあった光は、白いものではなかった。


地下で見た魔法陣の青白い輝きでも、二人をこの世界へ押し出した不可思議な光でもない。石造りの階段を一段ずつ上るにつれ、冷えた空気の向こうから差し込んでくるのは、確かに地上の光だった。


修司は、杏奈の手を握ったまま階段を上った。


足元では、鎧の音が規則正しく響いている。前を歩くグレン・フォン・ライゼルの背は大きく、動きに無駄がなかった。彼の左右には近衛騎士が数名続き、後方にも同じだけの足音がある。完全に囲まれているわけではない。だが、守られていると言うにはまだ早く、見張られていると言うには露骨ではない。


その曖昧さが、修司にはかえって気味悪かった。


敵意はない。


少なくとも、今のところは。


けれど、安心できるほどの材料もない。


隣の杏奈も同じことを考えているのだろう。彼女は表面上こそ落ち着いていたが、指先にはまだ力が入っていた。歩く速度は乱れていない。それでも、呼吸が少し浅い。いつもの杏奈なら気づかれない程度の変化だったが、修司には分かった。


怖いのだ。


自分も怖い。


それを認めたからといって、状況が良くなるわけではない。だが、認めずに目を逸らせば、きっと足元から崩れる。修司はそう感じていた。


階段が終わる。


石の壁が途切れ、視界が一気に開けた。


そこは、地下とはまるで違う場所だった。


広い廊下だった。天井は高く、壁は磨かれた白灰色の石で造られている。床には深い青を基調とした長い敷物が延び、両側には精巧な彫刻を施された柱が並んでいた。柱の間には大きな窓があり、厚い硝子越しに外の光が差し込んでいる。


その光が、修司の目を一瞬だけ眩ませた。


反射的に目を細める。


窓の向こうに空があった。


知らない空だった。


色だけなら、日本で見た空とそれほど変わらない。淡い青。雲。陽光。だが、そこに広がる景色は、修司の知るどの街とも違っていた。


石造りの街並みが、丘の下へ向かって幾重にも広がっている。高い城壁。赤茶色の屋根。尖塔。広場らしき開けた場所。遠くには、川のような銀色の線が街を横切っていた。さらにその向こうには、霞むほど遠くに山並みが見える。


修司は、しばらく言葉を忘れていた。


そこにあるのは、確かに街だった。人が住み、道があり、建物が並び、城壁に守られた巨大な都市だった。だが、修司が知っているどの街とも違う。ビルも、電線も、信号機もない。代わりに、石と屋根と塔と城壁が、古い絵画の中から抜け出したように光の下へ広がっていた。


隣で杏奈も窓の外を見つめていた。


驚きはある。恐怖もある。けれど、彼女はそれを声にしなかった。ただ、指先だけがわずかに強張っている。


その沈黙に気づいたのか、前を歩いていたグレンが足を止め、窓の外へ視線を向けた。


「ここは、ローディス王国の王都ローディアです」


低く、落ち着いた声だった。


「王城は王都の北丘に建てられております。今ご覧になっているのは、王城から南へ広がる市街です。城壁の内側が王都の中枢部、さらに外側にも居住区や市場、職人街が続いております」


「……あれ全部が、王都なのか」


修司は思わず呟いた。


「はい。とはいえ、ここから見えるのは一部に過ぎません」


グレンは淡々と答えた。


その言葉に、修司は改めて窓の外を見る。


一部。


この広大な石造りの街並みが、まだ一部だという。


その事実が異世界に来たのだという実感をさらに重くした。


「……本当に違う世界なんだね」


杏奈が小さく呟いた。


その声は、窓硝子に触れれば消えてしまいそうなほど細かった。


修司は答えようとして言葉に詰まった。


違う世界。


それは、すでに何度も頭の中で繰り返した事実だった。だが、こうして窓の外に広がる街を見た瞬間、その言葉は初めて重さを持った。


ここには人が住んでいる。


この街には朝があり、昼があり、夜がある。誰かが働き、誰かが眠り、誰かが笑い、誰かが争う。自分たちが突然連れて来られたこの世界にも当たり前の生活がある。


それが分かったからこそ、修司は腹の底が冷えるのを感じた。


ここは夢ではない。


物語の中でもない。


もう、戻れるかどうかも分からない現実だった。


「神崎修司殿、来女木杏奈殿」


グレンが二人へ向き直った。


修司と杏奈は同時に視線を戻す。


グレンは二人から適度な距離を取ったまま、静かに言った。


「この先の客室へご案内します。まずはそこでお休みください。医師と魔導官を呼んでおりますが、無理に触れたり、術をかけたりすることはありません。確認の一つ一つについて、必ず事前に説明させます」


杏奈が小さく頷いた。


「ありがとうございます」


礼は言った。


しかし、その声音には明確な距離があった。


グレンもそれを理解しているようだった。彼は余計な笑みを浮かべず、ただ受け止めるように頷く。


「当然のことです」


廊下を進む間、すれ違う者たちは誰も声を上げなかった。


だが、視線は集まった。


侍女らしき女性たち。文官らしき男たち。鎧を着ていない兵士。長い耳を持つ者。背の低いがっしりした体格の者。獣の耳と尾を持つ者。


人間だけではない。


修司はその事実に、思わず視線を向けそうになった。だが、あからさまに見つめるのは失礼だと直感して、すぐに目を戻した。


杏奈はもっと自然だった。


彼女も驚いているはずなのに、それを表に出さない。視線を一瞬だけ留め、それ以上は追わない。修司はこんな時でも杏奈らしいと思った。


多種族国家。


どこかで聞いた説明が、頭の奥で形を持つ。


ローディス王国は人族だけの国ではない。


その言葉が、今、廊下ですれ違う一人ひとりの姿として現実になっていた。


やがてグレンは一つの扉の前で立ち止まった。


重厚な木の扉だった。表面には細やかな蔦模様が彫られている。扉の両側には近衛騎士が立ち、グレンが近づくと同時に姿勢を正した。


「ここを使っていただきます」


グレンの合図で扉が開かれる。


中は広い客室だった。


奥には大きな窓があり、淡い陽光が柔らかく差し込んでいる。壁際には長椅子と丸卓、花の入った陶器の壺、簡素だが上質な寝台が二つ。床には厚手の敷物が敷かれ、地下の石室とは違い、空気にはほんのりと木と香草の匂いが混じっていた。


部屋の雰囲気は落ち着いていた。


だが、逃げ道を探そうとした修司の目は、すぐに窓と扉の位置を確認していた。


窓は大きいが、かなり高い場所にある。外は城壁側ではなく庭園側らしい。飛び降りられる高さではない。扉の外には騎士がいる。室内に武器になりそうなものは少ない。燭台らしきものもない。照明は壁際に浮かぶ小さな魔導灯だった。


そんな自分に、修司は内心で苦笑した。


安心できる部屋に案内されたはずなのに、最初に見るのが逃げ道と武器になるものなのだから、我ながら余裕がない。


いや、余裕などあるはずがなかった。


杏奈がそっと修司の手を離した。


離れた瞬間、手の中が少しだけ冷えたような気がした。


「修司」


「ん?」


「座ろう。立ったままだと、余計に疲れる」


「……そうだな」


二人は長椅子へ腰を下ろした。


座った瞬間、修司は自分が思っていた以上に身体へ力を入れていたことに気づいた。背中が重い。肩が硬い。膝の奥がわずかに震えている。


杏奈も、座った途端に小さく呼吸を整えた。


その顔を見て、修司は胸が痛んだ。


彼女は強い。


けれど、平気なわけではない。


そのことを忘れてはいけないと思った。


グレンは扉近くに立ったままだった。室内に踏み込みすぎず、かといって外へ出てしまうこともない。その距離の取り方にも気遣いがあった。


「今、医師と魔導官を呼んでおります。到着まで少しだけお待ちください」


杏奈が顔を上げる。


「その前に、一つ確認してもいいですか」


「もちろんです」


「私たちはこの部屋から出られますか」


修司は杏奈を見た。


聞き方が上手いと思った。


閉じ込められているのか、と直接問えば角が立つ。だが、この聞き方なら相手の対応を見られる。


グレンは即答しなかった。


ほんのわずかに考え、それから正直に答えた。


「単独での外出は今はお勧めできません」


「お勧めできない、ですか」


「はい。禁止という形にはしたくありません。ただ、貴殿らはこの国の言葉も、慣習も、王城の構造もまだ知らない。加えて、禁忌召喚の直後です。混乱している者もおります。貴殿らを守るためにも、移動される際は私か、私の信頼する者を同行させてください」


杏奈はしばらくグレンを見ていた。


相手の言葉を、そのまま信じるかどうか見極めようとしているのだろう。


「分かりました」


やがて、杏奈はそう言った。


「ただ、私たちを守るためという言葉が、私たちを自由にしない理由として使われることには警戒します」


グレンの目が、わずかに見開かれた。


それから彼は、深く頷いた。


「その警戒は正しいものです」


意外な答えだった。


修司も思わずグレンを見る。


グレンは言葉を続けた。


「貴殿らはすでに一度、意思に反してこの国へ連れて来られている。王国側の者が何を言おうと、疑うのは当然です。だからこそ、私はできる限り説明を省かないよう努めます」


「……騎士団長って、みんなそんなに話が分かるものなのか?」


修司が思わず言うと、グレンはわずかに眉を動かした。


笑った、というには小さい変化だった。


「少なくとも私は、今ここで貴殿らの信頼を失う方が王国にとって危険だと考えています」


「正直だな」


「取り繕える状況ではありません」


「それはそうだ」


修司の中で、グレンに対する警戒がほんの少しだけ形を変えた。


好感を持った、というには早すぎる。


だが、嫌いにはなれない男だった。


その時、扉の外から控えめな声がした。


「グレン団長、医師と魔導官が到着しました」


「入れ」


扉が開き、数人が入ってきた。


先頭にいたのは、白に近い灰色の衣を着た中年の女性だった。落ち着いた表情をしており、手には革張りの箱を持っている。その後ろには、濃紺の長衣を着た細身の男が続いた。男は細い銀縁の眼鏡のようなものをかけ、片手に短い杖を持っている。さらに侍女が二人、湯気の立つ茶器と清潔な布を載せた盆を持って控えていた。


修司の身体に、自然と力が入る。


杏奈も姿勢を正した。


グレンが一歩横へずれ、入ってきた者たちに視線を向ける。


「こちらが神崎修司殿、来女木杏奈殿だ。異界召喚による被害者として扱え。無断で触れるな。術を用いる場合は、必ず事前に説明し、同意を得ろ」


「承知しました」


中年の女性が深く一礼する。


彼女は修司と杏奈へ向き直り、穏やかな声で言った。


「突然のことで、お疲れのところ失礼いたします。私は王城医局に属する医師です。まずは、お二人に外傷がないか、呼吸や脈に異常がないかを確認させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」


杏奈が修司を見た。


修司は頷く。


「分かりました」


杏奈が答える。


「ただ、先に私からお願いします」


「杏奈?」


「修司は、たぶん私が先に見てもらった方が安心するでしょう」


見透かされていた。


修司は何も言えず、少しだけ目を逸らした。


医師の女性はそのやり取りを見て、柔らかく頷いた。


「では、来女木様から。腕に触れます。よろしいですか」


「はい」


確認は丁寧だった。


医師は杏奈の手首に指を添え、脈を取り、瞳の色を見て、呼吸を確認した。どの動きも慎重で、無理に距離を詰めない。杏奈の表情が強張るたびに、手を止めて説明を挟む。


次に修司の番になった。


修司は黙って腕を出した。


医師の指が手首に触れる。冷たくはない。だが、触れられるだけで身体が反応しそうになる。知らない世界。知らない相手。知らない技術。警戒するなという方が無理だった。


「脈は少し速いですが、大きな乱れはありません。外傷も見たところ確認できません。めまいや吐き気はありますか」


「今のところはない」


「頭痛は」


「ない」


「身体の一部が動かしづらい、感覚が鈍い、などは」


「ないと思う」


「分かりました」


医師は頷いた。


「お二人とも、身体的な傷は見当たりません。ただし、強い緊張状態にあります。温かいものを少し口にして、可能であれば横になった方がよろしいでしょう」


その言葉を聞いた瞬間、修司の腹が小さく鳴った。


場が一瞬だけ止まる。


杏奈がこちらを見た。


修司は真顔で言った。


「……緊張状態でも腹は減るらしい」


杏奈はほんの少しだけ口元を緩めた。


それは笑みと呼ぶには小さすぎるものだったが、修司にとっては十分だった。


グレンも、表情を崩さないまま侍女に視線を送る。


「軽食を用意しろ。香辛料の強いものは避けるように」


「かしこまりました」


侍女が静かに一礼し、部屋を出ていく。


次に、濃紺の長衣を着た魔導官が一歩前へ出た。


彼はどこか緊張した様子で、短い杖を胸元に抱えている。


「私は王城魔導院に属する魔導官です。召喚術式の影響が、お二人の身体や魔力に残っていないかを確認する必要があります」


修司は目を細める。


「魔力ってのは、俺たちにもあるのか」


魔導官は一瞬、言葉を選ぶように黙った。


「この世界では、生命あるものには基本的に内なる魔力があります。ただ、お二人は異界から来られたため、通常と同じかどうかは分かりません。確認と言っても、直接術をかけるのではなく、こちらの測定具で周囲の魔力の揺らぎを見るだけです」


「危険は?」


杏奈が問う。


「ありません。少なくとも、私からお二人へ魔力を流すことはしません。測定具をこの卓の上に置き、反応を見るだけです」


魔導官は手に持っていた小さな水晶板を示した。


透明な板の中に、細い銀糸のような線が幾つも走っている。理屈はまるで分からないが、精密な道具だということだけは見て取れた。


杏奈は修司を見た。


「見るだけなら、受けてもいいと思う」


「杏奈がそう言うなら」


「修司も自分で判断して」


「判断した。杏奈の判断を信じる」


「それは判断を私に投げているのでは?」


「信頼と言ってくれ」


「都合がいいわね」


ほんの少しだけ、いつもの調子に近い会話だった。


魔導官は戸惑ったように二人を見ていたが、グレンが小さく咳払いをすると、慌てて測定具を卓の上へ置いた。


水晶板が淡く光る。


最初は何も起きなかった。


だが、魔導官が短い杖をかざし、低く短い言葉を唱えると、板の内部を走る銀糸がゆっくりと揺れ始めた。


杏奈の近くでは、淡い水色の光が薄く広がった。


それは静かな波紋のようだった。水面に落ちた雨粒が、幾重にも輪を作るような、柔らかく整った光。さらにその端に、かすかな白い輝きが混じる。


魔導官の目がわずかに見開かれた。


「これは……水の反応。それに、光も少し……かなり安定している」


杏奈は水晶板を見つめたまま、静かに聞いた。


「悪いものですか」


「いえ。むしろ、非常に整っています。少なくとも、乱れや損傷の反応ではありません」


杏奈の表情に、ほんのわずかな安堵が浮かんだ。


次に、魔導官は修司の方へ水晶板を向けた。


その瞬間だった。


水晶板の内側で、銀糸が大きく震えた。


赤い光が走る。


最初は小さな火花のようだった。だが、次の瞬間には板の中いっぱいに燃え広がるように明滅し、魔導官が息を呑んだ。


修司は反射的に身を引いた。


「おい、大丈夫なのか、それ」


「ま、待ってください。測定具に異常は……いや、反応が強すぎる」


魔導官の声が上擦る。


グレンの目が鋭くなった。


「危険か」


「危険ではありません。ただ、魔力量の反応が……通常の範囲を超えています。火の性質が強い。ですが、制御の流れがほとんど見えない。まるで、巨大な炉に蓋だけが乗っているような……」


修司は顔をしかめた。


「例えが怖い」


杏奈も不安そうに修司を見る。


魔導官は慌てて首を振った。


「失礼しました。今すぐ暴発するという意味ではありません。ただ、魔力を扱う訓練を受けていない状態で、これほどの反応があるのは珍しいのです」


「つまり、俺は危ないのか」


「扱いを知らなければ、危うい可能性はあります」


その答えは、修司にとって意外ではなかった。


白い光の中で聞いた言葉を彼は思い出す。


力があることと、扱えることは違う。


怒りだけで振るえば傷つける。


その言葉を修司は誰にも話すつもりはなかった。だが、胸の中には確かに残っていた。


「分かった」


修司は短く答えた。


「じゃあ、扱い方を覚えればいいんだな」


魔導官が瞬きをする。


「……恐れずにお聞きになるのですね」


「怖いに決まってるだろ。でも、怖いからって何もしなかったら、もっと危ないんだろ?」


魔導官は返答に詰まった。


代わりに、グレンが静かに言った。


「その通りです」


修司はグレンを見る。


グレンの表情は硬かったが、そこには先ほどとは違う感情があった。警戒だけではない。評価、と呼ぶにはまだ早い。だが、修司の言葉を軽くは扱っていなかった。


魔導官は水晶板の光が落ち着くのを確認し、慎重に道具を箱へ戻した。


「詳しい検査は、後ほど女王陛下の許可を得たうえで、必要があれば改めて行います。今は、お二人に害となる反応は見当たりません」


「ありがとうございます」


杏奈が礼を言う。


修司も少し遅れて頭を下げた。


「助かった」


医師と魔導官は、グレンに簡単な報告をしてから部屋を出ていった。


入れ替わるように、侍女たちが軽食を運んできた。


丸卓の上に、温かなスープ、薄く切った白いパン、柔らかそうな蒸し鶏、果実を煮たものが並べられる。見たことのない料理も混じっていたが、匂いは悪くなかった。むしろ、空腹を自覚した身体には残酷なほど魅力的だった。


「毒とか、考えた方がいいのかな」


修司が小声で言う。


杏奈は真面目な顔で答えた。


「考えないよりは考えた方がいい。でも、今ここで疑いすぎても何も食べられなくなる」


「だよな」


「先に少しだけ食べる。問題なければ修司も食べて」


「いや、それは逆だろ」


「修司が倒れたら誰が前に立つの」


「杏奈が倒れたら俺が終わる」


二人はしばらく睨み合った。


先に折れたのは、杏奈だった。


「……同時に少しだけ」


「それなら納得」


グレンは二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて静かに口を開いた。


「毒の心配については、こちらが否定しても信じきれないでしょう。ですが、この部屋に運ぶ食事は全て、王城の試毒役を通しています」


「試毒役……」


修司は顔をしかめた。


「そういう役目があるのか」


「王城ですので」


短い答えだった。


その一言だけで、ここが普通の場所ではないことが伝わってくる。


修司と杏奈は同時にスープを一口飲んだ。


温かかった。


それだけで、胸の奥に固まっていたものが少しほどけた気がした。


美味いかどうかを判断する前に、身体が温度を受け入れた。地下の冷たさ。白い光。少女の言葉。騎士たちの鎧。そうしたものに張り詰めていた神経が、ほんのわずかに緩む。


杏奈も同じだったのだろう。


彼女は器を両手で包み、しばらく黙っていた。


グレンは、その沈黙を邪魔しなかった。


やがて、扉の外で足音が止まった。


先ほどまでとは違う、少し急いだ足取りだった。


扉が叩かれる。


「グレン団長」


外の騎士が言った。


「女王陛下より伝令です」


部屋の空気が変わった。


修司は器を卓へ戻す。


杏奈も背筋を伸ばした。


グレンが扉へ向かう。


「入れ」


入ってきたのは、若い文官だった。額に汗を浮かべている。走ってきたのかもしれない。彼はグレンに一礼し、それから修司と杏奈へも深く頭を下げた。


「女王陛下より、神崎修司殿、来女木杏奈殿へお言葉です」


修司の喉が小さく鳴った。


女王。


この国の実質的な頂点。


第四王女を裁く者。


そしておそらく、修司と杏奈の今後を大きく左右する人物。


文官は慎重に言葉を選びながら告げた。


「女王陛下は、お二方に対し、王国として正式に事情を説明し、謝罪を行う御意向です。ただし、お二方の心身の状態を鑑み、今すぐ謁見の間へ呼び出すことはなさいません」


杏奈が静かに聞く。


「では、どうするのですか」


「女王陛下自ら、こちらの客室へお越しになります」


その場に、短い沈黙が落ちた。


修司は思わずグレンを見た。


グレンの表情にも、わずかな驚きがあった。だがすぐに姿勢を正し、深く頷く。


「承知した」


文官が退出する。


扉が閉じられる。


室内には、修司と杏奈、グレン、そして控える近衛騎士たちだけが残った。


修司は、喉の奥に残っていた緊張を飲み込んだ。


「普通、王様とか女王様って、呼びつける側じゃないのか」


「通常であれば、そうです」


グレンは答えた。


「ですが、今回の件で通常を語ることはできません」


「……なるほどな」


杏奈は器を卓へ置き、両手を膝の上に揃えた。


緊張している。


それは分かった。


だが、彼女の目は逃げていなかった。


「修司」


「ん?」


「話すことを、整理しておこう」


「さすが杏奈」


「茶化さない」


「悪い」


杏奈は小さく息を吸った。


「私たちは、別世界から来た。本人の意思ではない。元の世界へ戻れるか確認したい。今後の扱いを明確にしてほしい。拘束されるのか、保護されるのか。生活はどうなるのか。アリス王女の責任はどうなるのか」


「あと、俺たちを利用するつもりがあるのか」


「そうね。それも聞くべき」


「正面から聞いていいのか」


「遠回しに聞いても、今の私たちには判断材料が少ない。なら、相手の反応を見る方がいい」


修司は小さく笑った。


「やっぱ杏奈がいてよかった」


「今さら?」


「最初から思ってる」


杏奈は一瞬だけ修司を見た。


少しだけ困ったような顔をして、それから目を伏せる。


「……そういうことは、今言わなくてもいいのに」


「今だから言うんだろ」


それ以上、杏奈は何も言わなかった。


だが、彼女の目元に、ほんのわずかな柔らかさが戻ったように見えた。


グレンは二人のやり取りを見ていたが、口を挟まなかった。


やがて、廊下の向こうから新たな気配が近づいてきた。


先ほどの文官や医師とは違う。


足音は多くない。むしろ少ない。だが、廊下の空気そのものが整えられていくような、不思議な緊張があった。扉の外に立つ騎士たちの気配が、一斉に変わる。


グレンが姿勢を正した。


その顔から、わずかな緩みも消える。


修司と杏奈も立ち上がった。


立つべきか座ったままでいるべきか、一瞬迷ったが、杏奈が立ったので修司もそれに合わせた。


扉の前で、足音が止まる。


次いで、静かな声が響いた。


「女王陛下のお成りです」


修司は息を止めた。


杏奈の手が、ほんの少しだけ震えた。


修司はその手を探すように指を伸ばし、そっと握った。


扉が開く。


柔らかな光が、廊下から室内へ差し込んだ。


その向こうに、一人の女性が立っていた。


王冠よりも先に、その目が見えた。


冷静で、深く、揺るがない目だった。


その瞬間、修司は理解した。


この人が、この国の女王なのだと。

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