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二話

落ちる、という感覚があった。


けれど、それは高い場所から地面へ向かって落下するものとは違っていた。身体が空気を裂く感覚も、胃が浮くような重力の揺らぎもない。ただ、世界の奥底へと引き込まれていくような、あるいは見えない水面を抜けて、別の場所へ押し出されていくような感覚だけがあった。


神崎修司は、来女木杏奈の手を握っていた。


白い光の中で交わした言葉も、最後に聞いた声も、すでに遠くなりつつある。あまりにも現実離れしていて、記憶なのか夢なのかさえ曖昧になりそうだった。


けれど、手の中にある杏奈の感触だけは、確かだった。


隣に杏奈がいる。


その手を、まだ離していない。


それだけで、修司は意識をつなぎ止めていられた。


白い光が急激に収束した。


足元の感覚が戻る。


最初に感じたのは、冷たさだった。


靴底越しに伝わる、硬く冷えた石の感触。次いで、湿った空気。埃と古い紙、乾いた革、金属、そしてわずかに焦げたような匂いが鼻を掠める。耳に届くのは、低く唸るような残響だった。どこか遠くで大きな鐘が鳴った後、その余韻だけが地下の奥で震えているような音。


修司は目を開けた。


そこは、石造りの広い部屋だった。


大学帰りに歩いていた川沿いの道ではない。


白い光に包まれていた、あの不思議な空間でもない。


天井は高く、黒ずんだ石材で組まれている。壁には巨大な棚が並び、古びた書物や、金属の箱、鎖で封じられた巻物、封蝋の施された筒が収められていた。ところどころに淡い青白い灯りが浮かんでいる。燭台ではない。炎でもない。光の球が、壁際に一定の間隔で漂っているのだ。


床には、巨大な紋様が刻まれていた。


幾重にも重なる円。円の内側に走る複雑な線。見たことのない文字。獣の爪痕のような記号。星座にも似た点と線。それらが青白い光を放ち、少しずつ薄れていく。


魔法陣。


修司の頭に、その言葉が自然と浮かんだ。


誰かに教えられたわけではない。だが、それ以外に呼びようがなかった。


隣で、杏奈が小さく息を呑んだ。


「……修司」


「いる。大丈夫だ」


修司は即座に答えた。


自分の声が思ったより低く響いた。石の壁に反射し、部屋の奥でわずかに戻ってくる。


杏奈の手は冷たかった。けれど、しっかり握り返している。顔色は悪い。唇にも血の気がない。それでも彼女は倒れていなかった。恐怖を押し込め、目の前の現実を把握しようとしている。


その姿を見て、修司は胸の奥に生まれかけた焦りを押さえ込んだ。


慌てるな。


杏奈が隣にいる。


まず、杏奈を守る。


それから考える。


修司はゆっくりと周囲を見た。


部屋の中央には、自分たち以外にもう一人いた。


少女だった。


年は十五歳ほど。日本の感覚でいえば高校一年生くらいだろうか。淡い金色の髪が肩のあたりで揺れている。髪には細かな宝石をあしらった飾りが差され、身にまとう衣服は、一目でただの服ではないと分かるほど上質だった。白を基調としたドレスには銀糸の刺繍が入り、胸元には小さな紋章が輝いている。


整った顔立ちだった。


幼さの残る頬。大きな瞳。陶器のように白い肌。立っているだけなら、絵本に出てくる王女と言われても信じられる。


だが、その目に浮かんでいたものは、恐怖ではなかった。


驚き。


興奮。


そして、歓喜。


少女は震える手を胸の前で握りしめ、修司と杏奈を見ていた。


「……本当に」


唇から、掠れた声が漏れる。


「本当に、成功した……」


修司の中で、何かが静かに冷えた。


成功。


その言葉だけで十分だった。


自分たちは、誰かの意思によって呼び出された。


本人たちの意思とは関係なく、生活も、家族も、友人も、明日の予定さえも置き去りにして、この見知らぬ場所へ連れて来られた。


そして目の前の少女は、それを成功と呼んだ。


修司は杏奈を少しだけ背に庇うように立った。


武器はない。


ここがどこかも分からない。


相手が何者なのかも、まだ知らない。


それでも、今この瞬間だけは、修司の中で恐怖より怒りが勝っていた。


少女は、修司たちへ一歩近づこうとした。


その顔には、まだ自分が何をしたのか理解していない者の無邪気さがあった。珍しいものを見つけた子どものような、長年解けなかった謎が解けた学者のような、そんな興奮。


「あなたたちが、異界の――」


「動くな」


修司の声が、石室に落ちた。


大声ではなかった。


だが、鋭かった。


少女の足が止まる。


杏奈も、修司の横で息を呑んだ。普段の修司とは違う声だった。軽さがない。冗談めいた響きもない。低く、硬く、踏み込めばそのまま刃になるような声。


少女は一瞬、怯んだ。


けれど、すぐにその顔に不快の色が浮かんだ。


高い身分にある者特有の矜持。


それも、まだ幼く、研ぎ澄まされる前の、むき出しの自尊心。


「……無礼です」


少女は小さく顎を上げた。


「わたくしはローディス王国第四王女、アリス・フィン・ローディス。異界の者とはいえ、まずは礼を――」


「礼を払うかどうかは俺が決める。お前が決めることじゃない」


修司は遮った。


石室が静まり返る。


アリスの表情が、わずかに強張った。


王女である自分の言葉が遮られたこと。名乗ったばかりの自分に、異界人がこのような目を向けていること。そして、礼を受ける立場だと当然のように思っていた自分を、正面から否定されたこと。その全てが、彼女には理解しがたいのだろう。


杏奈が、修司の袖をそっと引いた。


「修司」


制止ではない。


たぶん、確認だった。


彼女も怒っている。怖がってもいる。だが、それでも状況を見ようとしている。ここで修司が感情だけで動けば、二人はさらに不利になる。それを杏奈は分かっている。


修司も分かっていた。


だが、胸の奥の火は簡単には消えなかった。


「お前が、俺たちを呼んだのか」


アリスは唇を引き結んだ。


怯えと苛立ちが入り混じった表情をした後、すぐに胸を張る。


「そうです。わたくしが古代の術式を解読し、発動させました。まさか本当に異界の者が現れるとは――」


そこで、彼女は言葉を切った。


修司の目を見たからだ。


その視線の意味を、ようやく少しだけ理解したのかもしれない。


修司は一歩も動いていなかった。


けれど、アリスはそれ以上近づけなかった。


「俺たちがどこから来たか分かってるのか」


「異界、でしょう」


「そこに俺たちの生活があった。家があった。家族がいた。友達がいた。大学があって、明日の予定があって、来週の課題まであった」


修司の声は低かった。


怒鳴れば、たぶん楽だった。


けれど怒鳴った瞬間、自分が何をするか分からなかった。だから、声を押さえた。


「それをお前は試しに奪ったのか」


アリスの喉が小さく動いた。


答えはなかった。


答えられなかったのか、答えたくなかったのかは分からない。


杏奈が一歩、修司の隣に出た。


顔色はまだ悪い。それでも、彼女は王女を正面から見た。


「アリス王女」


静かな声だった。


怒りを抑えた声でもあった。


「あなたは私たちを元の世界へ戻せるのですか」


アリスの目が揺れた。


「それは……」


「戻せるのですか」


杏奈は重ねて問うた。


声を荒げてはいない。だが、言葉には逃げ道がなかった。


「わ、わたくしは、まだ術式の全てを解明したわけではありません。けれど、これほどの術を発動できたのです。研究を重ねれば――」


「今は戻せないのですね」


杏奈の言葉が、石のように置かれた。


アリスは黙った。


その沈黙が、答えだった。


修司は奥歯を噛み締めた。


戻せない。


分かっていた。


もう、薄々分かっていた。


けれど、実際に召喚した本人の口からそれに近い沈黙を突きつけられると、怒りはさらに重くなる。


「……ふざけるなよ」


それは、怒鳴り声ではなかった。押し殺した息のような、低い声だった。


アリスは、その言葉に反応した。


怒りを向けられたことへの恐怖よりも先に、王女としての自尊心が刺激されたのだろう。彼女は顔を上げる。


「わたくしにそのような口を利くことは許されません。あなたたちは確かに異界より招かれた存在ですが、ここはローディス王国の王城です。わたくしは王女であり――」


「だから?」


修司が言った。


アリスは言葉を詰まらせた。


「王女なら、人の人生を勝手に動かしていいのか」


「そ、そういう意味では――」


「じゃあ、どういう意味だ」


アリスの唇が震えた。


その時だった。


低い音が、石室の外から響いた。


最初は遠雷のようだった。


次いで、金属が擦れる音。複数の足音。規則正しく、重い。鎧をまとった者たちが、こちらへ近づいてくる音だった。


アリスの顔色が変わった。


「なぜ……」


彼女は振り返る。


「ここは、封印区画のはず……誰にも……」


焦りが混じった声だった。


修司はその様子を見て、わずかに目を細めた。


つまり、この部屋にいることは本来知られてはいけない。少なくとも、アリスにとって誰かが来るのは都合が悪い。


杏奈も同じことを読み取ったのだろう。小さく修司にだけ聞こえる声で言った。


「王城の人間が来るなら、まずは様子を見た方がいい」


「信用できるか?」


「分からない。でも、今この場でアリス王女とだけ話しているよりは、状況が動く」


「分かった」


修司は短く答えた。


足音は近づいてくる。


石の扉の向こうで、鋭い声が飛んだ。


「封印区画内部で術式反応! 扉を開ける!」


「魔力残滓が強い、警戒しろ!」


「王女殿下の反応あり!」


言葉が分かる。


聞いたことのない言語のはずだった。


だが、意味が自然に頭へ入ってくる。自分が発した言葉も、相手には通じているらしい。


異世界なのだ。


ここはもう、日本ではない。


当たり前のことが、遅れて胸に落ちてくる。


重い音を立てて、巨大な扉が開いた。


冷たい空気が流れ込む。


通路から差し込む青白い魔導灯の明かりを背に、鎧をまとった騎士たちが石室へ踏み込んできた。銀灰色の鎧。胸元には王家の紋章らしきものが刻まれている。兜をかぶった者もいれば、顔を出した者もいる。全員が剣を帯び、数名は細い杖のようなものを手にしていた。


その中で、先頭に立つ男だけは明らかに違っていた。


壮年の騎士だった。


灰色の髪を短く整え、片目の下に古い傷がある。鎧は華美ではないが、手入れが行き届いている。無駄のない立ち姿。こちらを見た瞬間、部屋全体の状況を一息で把握しようとする目。


ただ強いだけではない。


命令を下すことに慣れた者の気配があった。


男の視線は、まず床の魔法陣へ落ちた。


次に、修司と杏奈。


そして最後に、アリス。


その表情が、凍るように硬くなった。


「……アリス殿下」


低い声だった。


怒りよりも、深い失望がにじんでいた。


「これは、何をなされた」


アリスは何かを言おうとした。


「わ、わたくしは……」


しかし、言葉が続かなかった。


騎士の男は、足元の魔法陣に刻まれた文字を見た。壁際の棚から引き出された古い本。床に落ちた銀の短杖。まだ青白い光を放つ術式の中心。そして、見知らぬ服を着た二人の若者。


必要な判断には、それで十分だったのだろう。


男は片手を上げた。


「封印区画を閉鎖。術式残滓の記録を取れ。魔導官を呼べ」


「はっ!」


「第四王女アリス殿下を保護。抵抗があれば拘束せよ」


その命令に、アリスの顔が歪んだ。


「待ちなさい! わたくしは王女です! 何の権限があって――」


「王女殿下であられるからです」


男の声が鋭くなった。


アリスが言葉を止める。


「この場所が何であるか、殿下はご存じのはずです。ここは禁書庫最奥の封印区画。王族であろうと、女王陛下の許可なく立ち入ることは禁じられております」


「わたくしは、ただ古代の術を――」


「床の術式は異界干渉系統。禁忌召喚の残滓に酷似しています」


石室の空気が、さらに冷えた。


騎士たちの間に、目に見えない緊張が走る。


禁忌召喚。


その言葉の重みは、この世界の者たちにとっても明らかに特別だった。


アリスの唇の色が失われていく。


「ち、違います。わたくしは、ただ……本に記された術式を確認しようと……まさか、本当に……」


「殿下」


男は静かに言った。


「まさかで済むものではありません」


アリスは息を詰まらせた。


その瞬間、彼女の中に初めて恐怖が生まれたように見えた。


修司は黙ってその様子を見ていた。


あれが本当の反省なのか、それとも自分が罰せられることへの恐怖なのか、今は分からない。ただ一つだけ分かる。アリスは、自分のしたことの重さをまだ完全には理解していない。だが、周囲の大人たちの反応によって、それが取り返しのつかないものだと気づき始めている。


遅すぎる。


修司はそう思った。


遅すぎるが、それでも、気づかないよりはましなのかもしれない。


騎士の男が、修司と杏奈へ向き直った。


その瞬間、周囲の騎士たちもわずかに身構えた。


警戒されている。


当然だろう。


正体不明の異界人が、禁忌召喚の魔法陣の中心に立っているのだ。騎士たちからすれば、被害者であると同時に、未知の存在でもある。


だが、男は剣に手をかけなかった。


それだけで、修司は彼を少しだけ評価した。


警戒している。だが、即座に敵として扱ってはいない。


男は自分の部下たちへ視線を走らせ、短く命じた。


「剣を抜くな」


その一言で、騎士たちの空気がわずかに変わった。


緊張は消えない。警戒も残る。だが、少なくとも修司と杏奈を即座に取り押さえるつもりはないらしい。


男は一歩前へ出た。


近づきすぎない距離で立ち止まり、右手を胸に当てて、深く頭を下げる。


「突然の事態、恐れ入る。まずは名乗らせていただきます。私はローディス王国近衛騎士団長、グレン・フォン・ライゼルと申します」


低く、よく通る声だった。


その名乗りは形式的ではあったが、同時に、こちらを安心させようとする意図があった。少なくとも修司にはそう見えた。


グレンは顔を上げ、修司と杏奈をまっすぐに見る。


「貴殿らに危害を加える意図はありません。今この場において、私は貴殿らを王国の客人ではなく、まず被害者として扱います。どうか、剣と鎧に囲まれた状況を恐れられるなとは申しません。ただ、こちらから刃を向けるつもりはないと、近衛騎士団長の名において申し上げます」


修司は黙ってグレンを見た。


言葉だけなら、いくらでも取り繕える。


だが、グレンの態度には余計な虚飾がなかった。こちらを懐柔しようとする甘さも、王国の責任を曖昧にしようとする濁りもない。少なくとも今この瞬間、彼は状況の重さを理解し、二人の不安を下げようとしている。


杏奈が、修司より先に口を開いた。


「来女木杏奈です」


その声はまだ固かった。


けれど、名乗るだけの落ち着きは戻っていた。


「こちらは神崎修司。私たちは、先ほどまで別の世界にいました。自分たちが召喚されたことは、理解しています」


グレンの表情が、かすかに痛みを帯びた。


驚きではなかった。


禁忌召喚の残滓を見た時点で、おそらく彼もそう推測していたのだろう。


グレンはさらに深く頭を下げた。


「貴殿らが受けた理不尽について、王国の者として、また近衛騎士団長として、まずお詫び申し上げる」


その言葉には、逃げのない重さがあった。


王国の者として。


近衛騎士団長として。


グレンはそう言った。


個人の感情ではなく、国家に仕える者としての謝罪だった。


杏奈は静かに目を伏せた。


「謝罪を受けるかどうかは、まだ判断できません」


「当然です」


グレンは即座に答えた。


「この件は、近衛騎士団のみで扱えるものではありません。女王陛下へ直ちに報告し、貴殿らには王城内にて保護を受けていただく必要があります」


「保護、ですか」


杏奈の声には慎重さがあった。


修司も同じことを考えていた。


保護という言葉は便利だ。


守る意味にも、閉じ込める意味にも使える。


グレンはそれを察したのか、わずかに表情を引き締めた。


「貴殿らを拘束する意図はありません。ただし、ここは王城地下の封印区画です。このまま外へ出ていただくわけにも参りません。まずは安全な客室へご案内し、医師と魔導官による確認を受けていただく。そのうえで、女王陛下より正式な説明と謝罪がなされるはずです」


「はず?」


修司が問い返す。


グレンは一瞬だけ沈黙した。


それから、正面から修司を見た。


「女王陛下が、この件を軽く扱われることは決してありません」


その言い方には、確信があった。


少なくとも、この騎士は女王を信じている。


修司はそれを感じ取った。


「……杏奈」


「うん」


二人は短く視線を交わす。


信じられるかどうかは分からない。


だが、ここで拒絶しても状況は良くならない。ここが王城なら、相手の数も地の利も圧倒的だ。自分たちには武器も金も情報もない。頼れるものは、互いの存在と、最低限の判断力だけ。


杏奈は小さく息を吐いた。


「分かりました。同行します。ただし、私たちは被害者です。その扱いだけは間違えないでください」


その声は、震えていなかった。


グレンは深く頷いた。


「承知しました。来女木杏奈殿、神崎修司殿。貴殿らの身柄は、私グレン・フォン・ライゼルが責任をもって女王陛下の御前までお守りします」


修司は杏奈を見て、わずかに口元を緩めた。


こんな状況でも、杏奈は杏奈だった。


怖いはずだ。


泣きたいはずだ。


それでも、必要なことは言う。


そういう強さが、彼女にはある。


「修司」


「分かってる」


修司は前を向いた。


騎士たちはアリスの周囲を固めていた。アリスはまだ何かを言いたげだったが、先ほどまでの傲慢な勢いは失われている。自分が何をしたのか。自分がこれからどこへ連れて行かれるのか。その答えを恐れ始めている顔だった。


修司はその前へ一歩進んだ。


騎士たちがわずかに身構える。


グレンも修司を見たが、止めはしなかった。


修司はアリスを殴らなかった。


怒鳴りもしなかった。


ただ、真っ直ぐに見た。


「アリス・フィン・ローディス」


アリスの肩が震えた。


名前を呼ばれただけで、彼女は怯えたように目を上げる。


「俺は、お前を許すなんて言えない」


アリスの唇がわずかに開いた。


「お前が何を考えてたのか、今どれくらい分かってるのか、それも知らない。でも、一つだけ覚えておけ」


修司の声は静かだった。


「俺たちは、お前の成功例じゃない。お前が壊した、二人分の人生だ」


アリスの瞳が揺れた。


その言葉がどこまで届いたのかは分からない。


けれど、彼女はもう言い返さなかった。


グレンが、修司を静かに見ていた。


その目にあったのは咎めではない。むしろ、わずかな敬意に近いものだった。


修司は踵を返し、杏奈の隣へ戻った。


「行こう」


「うん」


杏奈が頷く。


騎士たちに案内され、二人は魔法陣の中心から歩き出した。


足元の青白い光は、もうほとんど消えていた。床に刻まれた紋様だけが残り、まるで先ほどの出来事が幻だったかのように沈黙している。だが、修司の手にはまだ杏奈の温度があり、胸の中には戻れないという事実が重く沈んでいた。


石室の扉をくぐる。


その先には、長い地下通路が続いていた。


壁は重厚な石で組まれ、一定の間隔で青白い灯りが浮いている。空気は冷たく、遠くから水の滴る音がした。騎士たちの鎧の音が通路に響き、修司と杏奈の足音はそれに混ざっていく。


グレンは二人の少し前を歩いた。


背を向けているが、完全に無防備ではない。歩幅は一定で、周囲への注意を怠っていない。騎士として、指揮官として、身体に染みついた警戒なのだろう。


それでも、彼は何度か振り返り、修司と杏奈の歩調を確認した。


急がせすぎない。


囲みすぎない。


逃げ道を塞いでいるように感じさせない。


そういう配慮が、わずかな距離の取り方に表れていた。


修司はそれに気づいていた。


杏奈も、おそらく気づいている。


だからといって信用したわけではない。けれど、少なくともグレンという男が、二人をただの厄介事として扱っていないことは分かった。


後ろでは、アリスも連れて来られていた。


だが、彼女はもう王女らしく胸を張ってはいなかった。


俯き、両側を騎士に固められ、ただ歩いている。


修司は振り返らなかった。


今は、目の前を見るだけで精一杯だった。


通路の先には階段があった。


石造りの螺旋階段。上へ続いている。そこから、かすかに暖かな空気が流れてきた。地下の湿った匂いの向こうに、微かに花の香りと、磨かれた木の匂いが混じる。


王城の上層。


この世界の中心の一つ。


ローディス王国。


王都ローディア。


それらの言葉が、まだ現実味を持たないまま、修司の中で積み重なっていく。


階段を上り始める直前、杏奈が小さく言った。


「修司」


「ん?」


「私、怖い」


その言葉は、あまりにも正直だった。


修司は足を止めそうになった。


けれど、杏奈は歩き続けていた。怖いと言いながら、止まってはいない。泣き出してもいない。自分の恐怖を認めたうえで、それでも前へ進もうとしている。


修司は少しだけ手に力を込めた。


「俺も怖い」


杏奈がこちらを見る。


「嘘」


「いや、ほんと。めちゃくちゃ怖い。意味分からんし、知らない場所だし、王女はやらかしてるし、戻れる方法も分からないし」


「……そういうふうには見えない」


「見えないようにしてるだけ」


修司は小さく笑った。


その笑みは、いつもの軽さを完全には取り戻していない。だが、杏奈に向けるには十分だった。


「でも、杏奈がいるから大丈夫だ」


「それ、私が言うなら分かるけど」


「じゃあ、お互い様ってことで」


杏奈は少しだけ目を伏せた。


そして、ほんのわずかに頷いた。


「うん。お互い様」


二人は階段を上った。


一段ずつ、地下の冷たさから離れていく。


戻る道はない。


少なくとも今は。


だが、進む道は目の前にある。


それがどれほど理不尽な始まりであっても、二人はもうこの世界に立っている。


階段の上から、明るい光が差し込んだ。


それは、地上の光だった。


修司は杏奈の手を離さず、その光の中へ足を踏み出した。


知らない世界の空気が、二人を迎えた。

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