表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

一話

六月の夕暮れは、昼と夜の境目をゆっくりと滲ませていた。


大学の正門を出る頃には、空の高いところに残っていた青が少しずつ薄まり、雲の縁だけが淡い金色に焼けていた。講義棟の窓に反射した陽光が、学生たちの影を長く地面に引き伸ばしている。駅へ向かう者、友人と食事へ向かう者、サークル棟へ戻る者、何をするでもなく談笑しながら歩く者。夕方の大学という場所は、いつも少しだけ騒がしく、少しだけ気が抜けている。


その人の流れの中を、神崎修司(かんざきしゅうじ)は気だるげに歩いていた。


肩にかけた鞄は軽い。いや、実際には教科書もノートも入っているので決して軽くはないはずなのだが、修司の持ち方には荷物を荷物と思っていないような雑さがあった。片手で鞄の紐を押さえ、もう片方の手をポケットに突っ込み、欠伸を噛み殺しながら空を見上げている。


隣を歩く来女木杏奈(くるめぎあんな)は、そんな修司とは正反対だった。


背筋をまっすぐ伸ばし、片腕にノートと教科書を抱え、歩調は乱れない。人混みの流れをよく見て、ぶつかりそうな相手がいれば自然に半歩ずれる。信号の変わるタイミング、横から来る自転車、歩道の端に置かれた看板。彼女の視線は一つのものに囚われず、静かに周囲を拾っていた。


修司が、何かに気づいてから動く人間だとすれば、杏奈は、何かが起こる前に気づこうとする人間だった。


「修司」


杏奈が静かに名前を呼んだ。


「ん?」


「今日の最後の講義、途中から聞いていなかったでしょう」


修司は一瞬だけ目を逸らした。


「聞いてたって」


「では、来週までの課題は?」


「……人生について深く考える」


「違います」


「都市についてだった気もする」


「かなり大雑把になったわね」


杏奈の声は穏やかだったが、甘くはなかった。


彼女は怒鳴らない。責め立てることもしない。ただ、事実を事実として置く。その静けさが、修司にはかえって逃げ場をなくさせる。


「近代以降の都市形成と生活圏の変化。四千字以上。来週の講義前に提出」


「四千字か。なかなか攻めてくるな」


「聞いていれば驚かない量よ」


「杏奈がいると安心感がすごい」


「私を課題管理用に使わないで」


「違う違う。人生の支えとして頼ってる」


「それを言えば許されると思っているでしょう」


「少し」


「許しません」


修司は声を出して笑った。


杏奈は呆れたように息を吐いたが、その横顔にはほんの少しだけ柔らかさがあった。本気で怒っているわけではない。修司もそれを分かっている。長い付き合いだった。どこまでが軽口で、どこからが本当に踏み込んではいけない領域なのか、二人の間には言葉にしない距離感があった。


大学から駅へ向かう道は混み合っていた。車道ではバスがゆっくりと停留所へ近づき、コンビニの自動ドアが開くたびに冷気が歩道へ漏れ出す。どこかの店から揚げ物の匂いが漂い、信号機の電子音が規則正しく響いていた。


当たり前の日常だった。


あまりにも平凡で、だからこそ疑う余地のない時間だった。


「夕飯どうする?」


修司が尋ねる。


「家に帰って作るつもり」


「外で食べない?」


「昨日も外食だったでしょう」


「昨日は昨日。今日は今日」


「財布は昨日と今日で繋がっているの」


「名言っぽいな」


「普通のことを言っているだけ」


杏奈はそう言いながらも、少しだけ考える素振りを見せた。


「……でも、今日は帰りが遅くなりそうだし、簡単に済ませてもいいかもしれない」


「つまり?」


「安いところなら」


「杏奈様」


「調子に乗らない」


修司はまた笑った。


大通りから少し外れ、二人は川沿いの道へ入った。駅へ向かうには少し遠回りになるが、人通りが少なく、歩きながら話すにはちょうどいい。欄干の向こうを流れる川には夕陽が細く伸び、ところどころで水鳥が波紋を作っている。風が木々の葉を揺らし、その音が街の喧騒を薄く隠した。


修司は何気なく杏奈の横顔を見た。


夕陽に照らされた横顔は、いつもより少し大人びて見えた。髪が風に揺れ、杏奈は指先でそれを耳にかける。目線は前に向いている。修司のように、思いつきで空を見たり、意味もなく川を覗き込んだりはしない。


冷静で、慎重で、几帳面。


修司とは正反対だった。


修司は、まず動く。面白そうだと思えば踏み出す。危なそうだと思っても、それでも必要なら前へ出る。失敗したら、その時にどうにかする。そういう性格だった。


杏奈は違う。立ち止まり、見て、考える。危険を避けられるなら避ける。避けられないなら、どこを通れば最も傷が少なくて済むかを考える。無茶を嫌い、勢いだけで進むことを許さない。


だからこそ、二人は噛み合っていた。


修司だけなら、きっとどこかで行き過ぎる。杏奈だけなら、きっとどこかで立ち止まりすぎる。互いに足りないものを、互いが持っていた。


「何?」


杏奈がこちらを見る。


「いや」


「また変なことを考えていた?」


「杏奈って、よく俺と付き合ってるよなって」


杏奈は一瞬、足を止めた。


修司も数歩進んでから振り返る。


川沿いの道に、夕方の風が吹いた。葉擦れの音が、少しだけ二人の間を通り抜ける。


「本当に急に何を言い出すの」


「いや、俺が杏奈だったら、俺みたいなの相手にするの大変だと思う」


「大変よ」


「即答か」


「でも」


杏奈はまた歩き出し、修司の隣に並んだ。


「大変じゃない人を選びたいなら、最初から修司とは一緒にいない」


何気ない声だった。


けれど、言葉はまっすぐだった。


修司は一瞬、返す言葉を失った。軽口ならいくらでも出てくる。だが、杏奈は時々、何の前触れもなく核心だけを置いていく。そういう時の彼女には、修司はどうしても勝てない。


「……そういうこと言うから、杏奈には勝てないんだよな」


「勝とうとしていたの?」


「常に」


「勝率は?」


「低め」


「でしょうね」


杏奈が小さく笑った。


その笑みを見て、修司も肩の力を抜いた。


世界は、変わらずそこにあった。


川が流れ、木々が揺れ、車の音が遠くで続き、夕暮れが街を染めている。明日になればまた講義があり、課題があり、退屈な時間があり、どうでもいい雑談がある。そんな日々が続いていくのだと、修司は疑っていなかった。


その時だった。


風が止まった。


最初に気づいたのは杏奈だった。


彼女は足を止め、周囲を見た。木々の葉が揺れていない。川面の波紋が、不自然なほど静かになっている。遠くの車の音が薄くなり、人の声が遠ざかる。まるで世界そのものに透明な膜が張られたようだった。


「修司」


杏奈の声には、明らかな緊張があった。


修司の表情も変わった。


理由は分からない。だが、身体が先に反応していた。足裏に力が入る。肩から余計な力が抜ける。視線が周囲を走り、杏奈の前へ半歩出る。


幼い頃から叩き込まれた実戦の剣術は、武器を持っていない時でさえ身体の奥に残っている。危険を感じた時、どう立つか。誰を守るか。どこへ逃がすか。修司の身体は、考えるより先にそれを選んでいた。


「下がって」


「何が起きて――」


杏奈が言い終える前に、地面が光った。


白い線が、二人の足元を走った。


線は円を描き、内側へさらに複雑な紋様を刻んでいく。文字のようでもあり、図形のようでもあり、しかし人の目で追うにはあまりにも速い。光は舗道の上に広がり、二人を中心に巨大な魔法陣のようなものを作り上げた。


修司は反射的に杏奈の腕を掴んだ。


「走るぞ!」


だが、遅かった。


身体が動かない。


足が地面に縫いつけられたようだった。胸に重い圧力がかかり、呼吸が浅くなる。杏奈が隣で息を呑む気配がする。修司は歯を食いしばり、全身に力を込めた。自分が動けないなら、せめて杏奈だけでも外へ押し出そうとする。


けれど、光は二人を逃がさなかった。


白が視界を埋めていく。


街が消える。川が消える。夕焼けが消える。音も、匂いも、重力さえも薄れていく。


最後に残ったのは、掴んだ杏奈の腕の感触だけだった。


「杏奈!」


「修司!」


二人の声は、白い光の中で重なり、ほどけ、遠ざかっていった。


そして、世界が裂けた。


落ちているのか、浮いているのか、修司には分からなかった。


身体の感覚がひどく曖昧だった。目を開けているのか閉じているのかも判然としない。上下も前後もなく、距離も時間も意味を失っている。ただ、何もない白の中にいることだけは分かった。


だが、手の中にはまだ杏奈の感触があった。


それだけで、修司は意識を繋ぎ止めた。


「杏奈!」


声は出た。


けれど、その声は普通の空間のようには響かなかった。叫んだはずなのに、音は白の奥へ吸い込まれていく。まるで水の底へ落とした石のように、ゆっくりと沈んでいく感覚があった。


「……修司」


すぐ近くで声がした。


修司はそちらへ顔を向けた。


白の中で輪郭が結ばれ、杏奈の姿が現れる。彼女もまた、何もない空間に立っていた。顔色は悪い。だが倒れてはいない。恐怖を押し殺し、必死に状況を把握しようとしている。


修司は大きく息を吐いた。


安堵のあまり、膝から力が抜けそうになる。


「無事か」


「たぶん。怪我はないと思う。修司は?」


「俺も平気。……ここ、どこだ」


「分からない」


杏奈は周囲を見回した。


何もなかった。


床も壁も天井もない。けれど二人は確かに立っている。足元に感触はあるのに、そこには地面が見えない。白い霧のような光がどこまでも広がり、その中を淡い金色の粒がゆっくり漂っている。


現実ではない。


少なくとも、二人が知っている現実ではなかった。


「夢……ではないよな」


修司が呟く。


「夢なら、もう少し分かりやすいと思う」


「それもそうか」


「落ち着いて」


「俺は落ち着いてる」


「さっきから私の手、かなり強く握っている」


言われて、修司は自分の手を見た。


杏奈の手を、痛いほど強く握っていた。慌てて力を緩める。


「悪い」


「大丈夫」


杏奈は少しだけ間を置いてから、静かに続けた。


「離さないで」


その声は、ほんのわずかに震えていた。


修司は何も言わず、もう一度だけしっかり握った。ただし今度は、痛くない程度に。


その時、白の奥から光が差した。


二人は同時にそちらを見る。


光は、人の形を取っていた。


遠くにいるようにも、すぐ目の前にいるようにも見える。距離の感覚が定まらない。輪郭は淡く、けれど存在感は圧倒的だった。銀にも白にも見える長い髪が、風もないのに静かに揺れている。瞳は空のように澄み、深い湖のように底が見えない。


美しい、という言葉では足りなかった。


人間の美醜の尺度から外れた存在だった。


そこにいるだけで、世界の仕組みそのものが形を持ったような錯覚を覚える。修司は無意識に息を止めた。隣の杏奈も、言葉を失っている。


その存在が、静かに口を開いた。


「神崎修司。来女木杏奈」


二人の名を呼ぶ声は、耳ではなく、心の奥に直接届いた。


修司は杏奈の前へ半歩出た。意味があるかは分からない。それでも身体が勝手に動いた。


「誰だ、あんた」


「修司」


杏奈が小さく制した。


だが、白い存在は怒らなかった。咎めることもない。ただ、静かに目を伏せる。


「私はアルテイシス。運命と境界を司る神の一柱です」


神。


その言葉はあまりにも唐突だった。


普通なら笑い飛ばすところだ。悪い冗談だと、夢だと、そう言うこともできたはずだった。だが、この場所に立っている時点で、二人の日常はもう崩れている。


修司は唇を引き結んだ。


杏奈が一歩前へ出る。


「私たちは、何に巻き込まれたんですか」


声は震えていなかった。


少なくとも、表面上は。


アルテイシスは杏奈を見た。その眼差しは慈悲に似ていたが、安易な慰めではなかった。何もかも救える者の目ではない。救えないことを知っている者の目だった。


「あなた方は、異なる世界から召喚されました。本来ならば、この神域を通ることなく、別世界の地上へ直接引き寄せられるはずでした」


「召喚……?」


杏奈が呟く。


「誰が」


修司の声が低くなる。


「ローディス王国、第四王女アリス・フィン・ローディス。彼女が禁書庫に封じられていた異界召喚の術を発動させました」


知らない国。


知らない王女。


知らない術。


どれも修司たちの人生には、一片も関わりのないはずのものだった。


それなのに、それが今、二人をここへ引きずり込んでいる。


修司の胸の奥で、熱いものが動いた。


怒りだった。


「ふざけんなよ」


修司は吐き捨てるように言った。


「勝手に呼び出したってことか。俺たちの意思も聞かずに」


「はい」


アルテイシスは否定しなかった。


その率直さが、かえって事態の重さを際立たせた。


「戻れるんですか」


杏奈が尋ねた。


その一言だけは、わずかに震えていた。


修司は息を止める。


アルテイシスの沈黙は短かった。けれど、二人にはひどく長く感じられた。


「現時点で、あなた方を元の世界へ戻す方法はありません」


白い空間が、さらに静かになった。


杏奈の指先が冷たくなるのを、修司は手の中で感じた。


戻れない。


その意味が、すぐには頭に入らなかった。


大学。家。家族。友人。来週の課題。昨日までの予定。夕飯をどこで食べるかという、つい先ほどまでの会話。そうしたものすべてが、突然遠い場所へ押し流されていく。


修司は歯を食いしばった。


叫びたかった。怒鳴りたかった。目の前の神に、どうにかしろと言いたかった。だが、隣に杏奈がいる。彼女の手が震えている。その震えを感じた瞬間、修司は自分が崩れるわけにはいかないと思った。


「……現時点で、ってことは、可能性はあるのか」


「断言はできません。世界と世界を越える術は、神々にとっても容易なものではありません。まして今回の召喚は、禁忌に属する歪な術です。あなた方を無理に戻そうとすれば、魂そのものに損傷が及ぶ危険があります」


「じゃあ、俺たちはどうすればいいんですか」


杏奈の問いは静かだった。


しかし、その静けさの奥には必死さがあった。取り乱さないように、言葉を選んでいる。恐怖を押し殺し、今できることを探している。


アルテイシスは二人を見つめた。


「生きてください」


その言葉は、あまりにも簡潔だった。


「これよりあなた方は、シャングリラ大陸にあるローディス王国へ至ります。そこは、あなた方の世界とは理も常識も異なる場所です。剣があり、魔法があり、神々への信仰があり、人族だけでなく多くの種族が生きています。国があり、街があり、争いがあり、旅があり、日々の営みがあります」


白い空間に、遠い景色が一瞬だけ浮かんだ。


巨大な大陸。


地平を裂く山脈。


果ての見えない大森林。


石造りの都市。


翼を持つ獣。


剣を帯びた人々。


杖の先に灯る炎。


大河を下る船。


城壁に囲まれた王都。


見たこともない耳や角、尾を持つ人々の姿。


それらは瞬きほどの間に現れ、すぐ白の中へ溶けて消えた。


「シャングリラ大陸は広大です。あなた方の知る大陸とは比べものにならないほどに。そこには、ローディス王国、セビリア帝国、エルリューン王国、ポトフ・ユナイテッド王国をはじめ、多くの国々があります。ですが、あなた方が最初に至るのはローディス王国です」


「その国が、私たちを呼んだ国なんですね」


「正確には、その国の第四王女が禁忌を犯しました」


アルテイシスの声は、静かだった。


「ローディス王国そのものは、多種族を受け入れる寛容な国です。王家は人族ですが、臣下には多くの種族がいます。けれど、どれほど国が寛容であろうと、王女個人の罪が消えるわけではありません」


杏奈は唇を引き結んだ。


「その王女は、私たちを何かに利用するつもりだったんですか」


「彼女に、そこまで明確な計画はありません」


「では、なぜ」


「好奇心。そして傲慢です」


アルテイシスの声には、わずかな痛みがあった。


「彼女は天才です。けれど、己の才を過信し、禁忌の重さを理解しませんでした。異界の魂を呼ぶということが、あなた方の人生を奪う行為であることを、正しく想像しなかった」


修司は低く息を吐いた。


悪意ではない。


だから何だというのか。


誰かを傷つける意思がなければ、傷つけたことにならないわけではない。知らなかったから、想像できなかったから、王女だから、天才だから。それで二人の人生が元に戻るわけではない。


「会えるんだな。その王女に」


「はい。あなた方はまもなく、彼女が術を発動した場所へ到達します」


「なら、文句の一つくらい言わせてもらう」


「修司」


「分かってる。殴らない。たぶん」


「たぶんじゃ困る」


こんな状況なのに、杏奈はそう言った。


修司は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。笑える状況ではない。それでも、杏奈のその一言が、崩れかけていた足場を少しだけ固めてくれた。


「……努力する」


「してください」


アルテイシスは、二人のやり取りを静かに見ていた。


その表情は、神というには少しだけ人間に近かった。憐れみではない。哀しみでもない。けれど、何も感じていないわけではない。


「あなた方には、この世界の言葉を理解し、話すための調整を施します。文字についても、学べば身につくよう下地を整えます」


「それ以外は?」


修司が聞いた。


「元の世界に帰す力はない。でも、その世界で生きろって言う。なら、俺たちはそこで生きられるだけのものを持ってるのか」


アルテイシスは修司を見た。


その瞳の奥で、金色の光が静かに揺れた。


「あなた方は異界の魂です。この世界の住人とは異なる性質を持っています。特にあなた、神崎修司。あなたの魂は、この世界の魔力の理に対して極めて大きな器を持つでしょう」


「魔力……」


「ですが、器の大きさは力そのものではありません。扱いを知らぬ力は、時に己を傷つけ、守りたい者さえ傷つけます。学びなさい。制御しなさい。怒りだけで振るえば、その力はあなた自身を焼くでしょう」


修司は黙った。


魔力。魔法。異世界。


どれも現実離れした言葉だった。だが、今の修司には笑えなかった。


アルテイシスの視線が、次に杏奈へ移る。


「来女木杏奈。あなたは彼とは異なります。大きさではなく、整える力に優れるでしょう。見ること、考えること、組み立てること。乱れたものをほどき、形を与えること。それらがあなたの支えとなります」


杏奈は目を伏せた。


「私は、修司の足手まといになりますか」


修司は思わず振り向いた。


「杏奈」


そんなことを考えていたのか。


こんな状況で。自分も怖いはずなのに、不安で仕方ないはずなのに、彼女はもう修司のことを考えている。


アルテイシスは静かに首を横へ振った。


「いいえ。あなた方は異なる。だからこそ、互いを補えます」


杏奈の指が、修司の手を少しだけ握り返した。


修司はそれを受け止める。


「魔法は、あなた方の世界の理とは異なるものです。シャングリラ大陸では、術者が魔力を精霊へ渡し、精霊がそれを術として形にします。火には火の精霊が、水には水の精霊が、風には風の精霊が、土には土の精霊が、光には光の精霊が、闇には闇の精霊が宿ります」


アルテイシスの指先に、淡い炎のような光が灯った。


それは熱を持たない炎だった。揺らめきながらも、どこか生き物のように見える。


「神崎修司。あなたには火の性質が強く現れるでしょう。火の上位精霊、『炎』に連なる適性です」


炎の光が消え、今度は透き通った水の雫が浮かぶ。


「来女木杏奈。あなたには水と光の性質が現れるでしょう。特に水は、あなたの在り方に近い。流れ、受け止め、形を変え、時に守る力です」


杏奈は浮かぶ水の雫を見つめていた。


そこに何を感じたのか、修司には分からない。だが、彼女の目にわずかな迷いと、それを押し殺す意志があるのは分かった。


「ただし、あなた方はまだ何も知らない。詠唱も、制御も、精霊との関わり方も、魔力の流し方も。力は可能性でしかありません。生きるためには、学ばなければなりません」


「……その世界は、危険なんですね」


杏奈が言った。


「はい」


アルテイシスは曖昧に慰めなかった。


「魔物がいます。争いがあります。人の善意もあれば、悪意もあります。あなた方を召喚したローディス王国が、必ずしもあなた方の敵になるとは限りません。けれど、知らぬ世界である以上、無防備でいてよい場所ではありません」


「信用しすぎるな、ってことか」


「疑いすぎれば孤立します。信じすぎれば利用されます。見極めなさい」


修司は苦い顔をした。


「杏奈向きだな、それ」


「修司にも必要なことよ」


「分かってる」


「本当に?」


「……努力する」


杏奈は小さく息を吐いた。


そのやり取りが、ほんの少しだけ二人を日常へ引き戻す。だが、白い神域は確かにそこにあり、目の前には神がいる。日常はもう遠い。帰り道は見えない。


それでも、修司は杏奈の手を離さなかった。


アルテイシスが二人へ向き直る。


「本来、私はこれ以上あなた方に関わるべきではありません。神の直接干渉は、世界の理を歪めます。あなた方をここへ招いたことさえ、許される境界のぎりぎりです」


「じゃあ、どうして」


修司が問う。


「見過ごせなかったからです」


その答えは、神の言葉にしてはあまりにも人間的だった。


「異界より引き寄せられた魂が、何も知らぬまま地上へ落とされる。それをただ見ていることが、私にはできませんでした」


杏奈は黙って頭を下げた。


「ありがとうございます」


声は静かだった。


それでも、その言葉は軽くなかった。元の世界へ戻せない相手に礼を言うのは、簡単なことではない。だが杏奈は、助けられた部分と、救われなかった部分を分けて受け止めようとしていた。


修司も遅れて息を吐く。


「あんたが悪いわけじゃないのは分かった。助けてくれたことには、俺も礼を言う」


アルテイシスはわずかに目を細めた。


「あなた方の行く先に、光がありますように」


「できれば帰り道も欲しいんだけどな」


「修司」


「分かってる」


修司は杏奈を見る。


杏奈もこちらを見ていた。


彼女は怖がっている。修司には分かる。指先はまだ冷たい。顔色もよくない。それでも、彼女の目は逃げていなかった。泣き崩れることも、叫ぶこともせず、必死に前を見ようとしている。


修司は、その強さに救われた。


同時に、守らなければならないと思った。


だが、守るというのは、彼女を後ろに隠すことだけではない。杏奈は、ただ守られるだけの人間ではない。隣に立ち、考え、止め、時に修司を前へ押し出す人間だ。


ならば、修司がするべきことは一つだった。


離さないこと。


そして、折れないこと。


「杏奈」


「うん」


「行くぞ」


「どこに?」


「分からん」


「そういうところ、本当に修司らしい」


杏奈は不安そうにしながらも、少しだけ笑った。


修司はその笑みを見て、腹を決めた。


戻れない。


知らない世界へ行く。


理不尽に巻き込まれた。怒りもある。恐怖もある。何が待っているのか、何一つ分からない。


それでも、杏奈が隣にいる。


なら、まずは生きる。


考えるのは、その後でもいい。


いや、考えるのは杏奈に任せる部分も多いだろう。そう思った瞬間、修司は少しだけ自分らしさを取り戻した。


白い空間が揺らぎ始めた。


遠くで、鐘のような音が鳴った。音というより、世界の奥で何かが開く気配だった。金色の粒が流れを持ち、二人の足元へ集まっていく。そこに、見覚えのない紋様が浮かび上がった。


さきほど二人を呑み込んだ光に似ている。


しかし、今度の光は荒々しくなかった。冷たくもなかった。まるで、落下する者を少しでも傷つけまいとする手のように、静かに二人を包んでいく。


「これより、あなた方は境界を越えます」


アルテイシスの声が響く。


「到達する先は、ローディス王国。王城地下、禁書庫最奥の封印区画。召喚の術が開いた場所です」


修司の手に力が入った。


そこに、アリスがいる。


二人の人生を勝手に変えた王女がいる。


怒りが再び胸の奥で燃えた。だが、同時に杏奈の手の感触がある。その感触が、修司をただの怒りに沈ませなかった。


「神崎修司」


アルテイシスが言う。


「その火を、憎しみだけに使ってはなりません」


修司は答えなかった。


けれど、その言葉は確かに胸に残った。


「来女木杏奈」


アルテイシスの視線が杏奈へ移る。


「恐れを恥じてはなりません。恐れながらも考え、選ぶことが、あなたの強さになります」


杏奈は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


「……覚えておきます」


光が強まる。


白が、金色を帯びていく。


アルテイシスの姿が、少しずつ遠ざかっていく。いや、遠ざかっているのは二人の方かもしれない。距離も方向も分からない。ただ、神域という場所から、別の場所へ押し出されていく感覚だけがあった。


修司は最後に、女神を見た。


「アルテイシス」


「はい」


「俺たちは、生きる」


それは感謝でも、誓いでも、宣言でもあった。


「勝手に呼ばれたからって、勝手に終わってやるつもりはない」


アルテイシスは、静かに頷いた。


「それこそが、あなた方の意志です」


杏奈が修司の手を握り返す。


「修司」


「ん?」


「無茶はしないで」


「できるだけ」


「約束して」


修司は少しだけ黙った。


約束という言葉の重みを、こんな時だけは茶化せなかった。


「分かった。約束する。できるだけ無茶はしない」


「そこはまだ残すのね」


「絶対しないって言うと、嘘になりそうだから」


杏奈は困ったように笑った。


「本当に、修司らしい」


光が視界を満たす。


足元の感覚が薄れていく。身体がふわりと浮き、次の瞬間には、深い場所へ落ちていくような感覚が来た。だが、不思議と恐怖だけではなかった。


修司は杏奈の手を握っていた。


杏奈も修司の手を握っていた。


世界が変わる。


日常が遠ざかる。


帰る道は見えない。


それでも二人は、まだここにいる。


アルテイシスの声が、最後に白い光の向こうから届いた。


「生きなさい。あなた方自身の意志で」


その言葉を最後に、神域の白がすべてを包み込んだ。


修司は目を閉じなかった。


杏奈もまた、目を逸らさなかった。


二人は手を繋いだまま、まだ見ぬ異世界へと続く境界の光の中へ、静かに呑み込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ