一話
六月の夕暮れは、昼と夜の境目をゆっくりと滲ませていた。
大学の正門を出る頃には、空の高いところに残っていた青が少しずつ薄まり、雲の縁だけが淡い金色に焼けていた。講義棟の窓に反射した陽光が、学生たちの影を長く地面に引き伸ばしている。駅へ向かう者、友人と食事へ向かう者、サークル棟へ戻る者、何をするでもなく談笑しながら歩く者。夕方の大学という場所は、いつも少しだけ騒がしく、少しだけ気が抜けている。
その人の流れの中を、神崎修司は気だるげに歩いていた。
肩にかけた鞄は軽い。いや、実際には教科書もノートも入っているので決して軽くはないはずなのだが、修司の持ち方には荷物を荷物と思っていないような雑さがあった。片手で鞄の紐を押さえ、もう片方の手をポケットに突っ込み、欠伸を噛み殺しながら空を見上げている。
隣を歩く来女木杏奈は、そんな修司とは正反対だった。
背筋をまっすぐ伸ばし、片腕にノートと教科書を抱え、歩調は乱れない。人混みの流れをよく見て、ぶつかりそうな相手がいれば自然に半歩ずれる。信号の変わるタイミング、横から来る自転車、歩道の端に置かれた看板。彼女の視線は一つのものに囚われず、静かに周囲を拾っていた。
修司が、何かに気づいてから動く人間だとすれば、杏奈は、何かが起こる前に気づこうとする人間だった。
「修司」
杏奈が静かに名前を呼んだ。
「ん?」
「今日の最後の講義、途中から聞いていなかったでしょう」
修司は一瞬だけ目を逸らした。
「聞いてたって」
「では、来週までの課題は?」
「……人生について深く考える」
「違います」
「都市についてだった気もする」
「かなり大雑把になったわね」
杏奈の声は穏やかだったが、甘くはなかった。
彼女は怒鳴らない。責め立てることもしない。ただ、事実を事実として置く。その静けさが、修司にはかえって逃げ場をなくさせる。
「近代以降の都市形成と生活圏の変化。四千字以上。来週の講義前に提出」
「四千字か。なかなか攻めてくるな」
「聞いていれば驚かない量よ」
「杏奈がいると安心感がすごい」
「私を課題管理用に使わないで」
「違う違う。人生の支えとして頼ってる」
「それを言えば許されると思っているでしょう」
「少し」
「許しません」
修司は声を出して笑った。
杏奈は呆れたように息を吐いたが、その横顔にはほんの少しだけ柔らかさがあった。本気で怒っているわけではない。修司もそれを分かっている。長い付き合いだった。どこまでが軽口で、どこからが本当に踏み込んではいけない領域なのか、二人の間には言葉にしない距離感があった。
大学から駅へ向かう道は混み合っていた。車道ではバスがゆっくりと停留所へ近づき、コンビニの自動ドアが開くたびに冷気が歩道へ漏れ出す。どこかの店から揚げ物の匂いが漂い、信号機の電子音が規則正しく響いていた。
当たり前の日常だった。
あまりにも平凡で、だからこそ疑う余地のない時間だった。
「夕飯どうする?」
修司が尋ねる。
「家に帰って作るつもり」
「外で食べない?」
「昨日も外食だったでしょう」
「昨日は昨日。今日は今日」
「財布は昨日と今日で繋がっているの」
「名言っぽいな」
「普通のことを言っているだけ」
杏奈はそう言いながらも、少しだけ考える素振りを見せた。
「……でも、今日は帰りが遅くなりそうだし、簡単に済ませてもいいかもしれない」
「つまり?」
「安いところなら」
「杏奈様」
「調子に乗らない」
修司はまた笑った。
大通りから少し外れ、二人は川沿いの道へ入った。駅へ向かうには少し遠回りになるが、人通りが少なく、歩きながら話すにはちょうどいい。欄干の向こうを流れる川には夕陽が細く伸び、ところどころで水鳥が波紋を作っている。風が木々の葉を揺らし、その音が街の喧騒を薄く隠した。
修司は何気なく杏奈の横顔を見た。
夕陽に照らされた横顔は、いつもより少し大人びて見えた。髪が風に揺れ、杏奈は指先でそれを耳にかける。目線は前に向いている。修司のように、思いつきで空を見たり、意味もなく川を覗き込んだりはしない。
冷静で、慎重で、几帳面。
修司とは正反対だった。
修司は、まず動く。面白そうだと思えば踏み出す。危なそうだと思っても、それでも必要なら前へ出る。失敗したら、その時にどうにかする。そういう性格だった。
杏奈は違う。立ち止まり、見て、考える。危険を避けられるなら避ける。避けられないなら、どこを通れば最も傷が少なくて済むかを考える。無茶を嫌い、勢いだけで進むことを許さない。
だからこそ、二人は噛み合っていた。
修司だけなら、きっとどこかで行き過ぎる。杏奈だけなら、きっとどこかで立ち止まりすぎる。互いに足りないものを、互いが持っていた。
「何?」
杏奈がこちらを見る。
「いや」
「また変なことを考えていた?」
「杏奈って、よく俺と付き合ってるよなって」
杏奈は一瞬、足を止めた。
修司も数歩進んでから振り返る。
川沿いの道に、夕方の風が吹いた。葉擦れの音が、少しだけ二人の間を通り抜ける。
「本当に急に何を言い出すの」
「いや、俺が杏奈だったら、俺みたいなの相手にするの大変だと思う」
「大変よ」
「即答か」
「でも」
杏奈はまた歩き出し、修司の隣に並んだ。
「大変じゃない人を選びたいなら、最初から修司とは一緒にいない」
何気ない声だった。
けれど、言葉はまっすぐだった。
修司は一瞬、返す言葉を失った。軽口ならいくらでも出てくる。だが、杏奈は時々、何の前触れもなく核心だけを置いていく。そういう時の彼女には、修司はどうしても勝てない。
「……そういうこと言うから、杏奈には勝てないんだよな」
「勝とうとしていたの?」
「常に」
「勝率は?」
「低め」
「でしょうね」
杏奈が小さく笑った。
その笑みを見て、修司も肩の力を抜いた。
世界は、変わらずそこにあった。
川が流れ、木々が揺れ、車の音が遠くで続き、夕暮れが街を染めている。明日になればまた講義があり、課題があり、退屈な時間があり、どうでもいい雑談がある。そんな日々が続いていくのだと、修司は疑っていなかった。
その時だった。
風が止まった。
最初に気づいたのは杏奈だった。
彼女は足を止め、周囲を見た。木々の葉が揺れていない。川面の波紋が、不自然なほど静かになっている。遠くの車の音が薄くなり、人の声が遠ざかる。まるで世界そのものに透明な膜が張られたようだった。
「修司」
杏奈の声には、明らかな緊張があった。
修司の表情も変わった。
理由は分からない。だが、身体が先に反応していた。足裏に力が入る。肩から余計な力が抜ける。視線が周囲を走り、杏奈の前へ半歩出る。
幼い頃から叩き込まれた実戦の剣術は、武器を持っていない時でさえ身体の奥に残っている。危険を感じた時、どう立つか。誰を守るか。どこへ逃がすか。修司の身体は、考えるより先にそれを選んでいた。
「下がって」
「何が起きて――」
杏奈が言い終える前に、地面が光った。
白い線が、二人の足元を走った。
線は円を描き、内側へさらに複雑な紋様を刻んでいく。文字のようでもあり、図形のようでもあり、しかし人の目で追うにはあまりにも速い。光は舗道の上に広がり、二人を中心に巨大な魔法陣のようなものを作り上げた。
修司は反射的に杏奈の腕を掴んだ。
「走るぞ!」
だが、遅かった。
身体が動かない。
足が地面に縫いつけられたようだった。胸に重い圧力がかかり、呼吸が浅くなる。杏奈が隣で息を呑む気配がする。修司は歯を食いしばり、全身に力を込めた。自分が動けないなら、せめて杏奈だけでも外へ押し出そうとする。
けれど、光は二人を逃がさなかった。
白が視界を埋めていく。
街が消える。川が消える。夕焼けが消える。音も、匂いも、重力さえも薄れていく。
最後に残ったのは、掴んだ杏奈の腕の感触だけだった。
「杏奈!」
「修司!」
二人の声は、白い光の中で重なり、ほどけ、遠ざかっていった。
そして、世界が裂けた。
落ちているのか、浮いているのか、修司には分からなかった。
身体の感覚がひどく曖昧だった。目を開けているのか閉じているのかも判然としない。上下も前後もなく、距離も時間も意味を失っている。ただ、何もない白の中にいることだけは分かった。
だが、手の中にはまだ杏奈の感触があった。
それだけで、修司は意識を繋ぎ止めた。
「杏奈!」
声は出た。
けれど、その声は普通の空間のようには響かなかった。叫んだはずなのに、音は白の奥へ吸い込まれていく。まるで水の底へ落とした石のように、ゆっくりと沈んでいく感覚があった。
「……修司」
すぐ近くで声がした。
修司はそちらへ顔を向けた。
白の中で輪郭が結ばれ、杏奈の姿が現れる。彼女もまた、何もない空間に立っていた。顔色は悪い。だが倒れてはいない。恐怖を押し殺し、必死に状況を把握しようとしている。
修司は大きく息を吐いた。
安堵のあまり、膝から力が抜けそうになる。
「無事か」
「たぶん。怪我はないと思う。修司は?」
「俺も平気。……ここ、どこだ」
「分からない」
杏奈は周囲を見回した。
何もなかった。
床も壁も天井もない。けれど二人は確かに立っている。足元に感触はあるのに、そこには地面が見えない。白い霧のような光がどこまでも広がり、その中を淡い金色の粒がゆっくり漂っている。
現実ではない。
少なくとも、二人が知っている現実ではなかった。
「夢……ではないよな」
修司が呟く。
「夢なら、もう少し分かりやすいと思う」
「それもそうか」
「落ち着いて」
「俺は落ち着いてる」
「さっきから私の手、かなり強く握っている」
言われて、修司は自分の手を見た。
杏奈の手を、痛いほど強く握っていた。慌てて力を緩める。
「悪い」
「大丈夫」
杏奈は少しだけ間を置いてから、静かに続けた。
「離さないで」
その声は、ほんのわずかに震えていた。
修司は何も言わず、もう一度だけしっかり握った。ただし今度は、痛くない程度に。
その時、白の奥から光が差した。
二人は同時にそちらを見る。
光は、人の形を取っていた。
遠くにいるようにも、すぐ目の前にいるようにも見える。距離の感覚が定まらない。輪郭は淡く、けれど存在感は圧倒的だった。銀にも白にも見える長い髪が、風もないのに静かに揺れている。瞳は空のように澄み、深い湖のように底が見えない。
美しい、という言葉では足りなかった。
人間の美醜の尺度から外れた存在だった。
そこにいるだけで、世界の仕組みそのものが形を持ったような錯覚を覚える。修司は無意識に息を止めた。隣の杏奈も、言葉を失っている。
その存在が、静かに口を開いた。
「神崎修司。来女木杏奈」
二人の名を呼ぶ声は、耳ではなく、心の奥に直接届いた。
修司は杏奈の前へ半歩出た。意味があるかは分からない。それでも身体が勝手に動いた。
「誰だ、あんた」
「修司」
杏奈が小さく制した。
だが、白い存在は怒らなかった。咎めることもない。ただ、静かに目を伏せる。
「私はアルテイシス。運命と境界を司る神の一柱です」
神。
その言葉はあまりにも唐突だった。
普通なら笑い飛ばすところだ。悪い冗談だと、夢だと、そう言うこともできたはずだった。だが、この場所に立っている時点で、二人の日常はもう崩れている。
修司は唇を引き結んだ。
杏奈が一歩前へ出る。
「私たちは、何に巻き込まれたんですか」
声は震えていなかった。
少なくとも、表面上は。
アルテイシスは杏奈を見た。その眼差しは慈悲に似ていたが、安易な慰めではなかった。何もかも救える者の目ではない。救えないことを知っている者の目だった。
「あなた方は、異なる世界から召喚されました。本来ならば、この神域を通ることなく、別世界の地上へ直接引き寄せられるはずでした」
「召喚……?」
杏奈が呟く。
「誰が」
修司の声が低くなる。
「ローディス王国、第四王女アリス・フィン・ローディス。彼女が禁書庫に封じられていた異界召喚の術を発動させました」
知らない国。
知らない王女。
知らない術。
どれも修司たちの人生には、一片も関わりのないはずのものだった。
それなのに、それが今、二人をここへ引きずり込んでいる。
修司の胸の奥で、熱いものが動いた。
怒りだった。
「ふざけんなよ」
修司は吐き捨てるように言った。
「勝手に呼び出したってことか。俺たちの意思も聞かずに」
「はい」
アルテイシスは否定しなかった。
その率直さが、かえって事態の重さを際立たせた。
「戻れるんですか」
杏奈が尋ねた。
その一言だけは、わずかに震えていた。
修司は息を止める。
アルテイシスの沈黙は短かった。けれど、二人にはひどく長く感じられた。
「現時点で、あなた方を元の世界へ戻す方法はありません」
白い空間が、さらに静かになった。
杏奈の指先が冷たくなるのを、修司は手の中で感じた。
戻れない。
その意味が、すぐには頭に入らなかった。
大学。家。家族。友人。来週の課題。昨日までの予定。夕飯をどこで食べるかという、つい先ほどまでの会話。そうしたものすべてが、突然遠い場所へ押し流されていく。
修司は歯を食いしばった。
叫びたかった。怒鳴りたかった。目の前の神に、どうにかしろと言いたかった。だが、隣に杏奈がいる。彼女の手が震えている。その震えを感じた瞬間、修司は自分が崩れるわけにはいかないと思った。
「……現時点で、ってことは、可能性はあるのか」
「断言はできません。世界と世界を越える術は、神々にとっても容易なものではありません。まして今回の召喚は、禁忌に属する歪な術です。あなた方を無理に戻そうとすれば、魂そのものに損傷が及ぶ危険があります」
「じゃあ、俺たちはどうすればいいんですか」
杏奈の問いは静かだった。
しかし、その静けさの奥には必死さがあった。取り乱さないように、言葉を選んでいる。恐怖を押し殺し、今できることを探している。
アルテイシスは二人を見つめた。
「生きてください」
その言葉は、あまりにも簡潔だった。
「これよりあなた方は、シャングリラ大陸にあるローディス王国へ至ります。そこは、あなた方の世界とは理も常識も異なる場所です。剣があり、魔法があり、神々への信仰があり、人族だけでなく多くの種族が生きています。国があり、街があり、争いがあり、旅があり、日々の営みがあります」
白い空間に、遠い景色が一瞬だけ浮かんだ。
巨大な大陸。
地平を裂く山脈。
果ての見えない大森林。
石造りの都市。
翼を持つ獣。
剣を帯びた人々。
杖の先に灯る炎。
大河を下る船。
城壁に囲まれた王都。
見たこともない耳や角、尾を持つ人々の姿。
それらは瞬きほどの間に現れ、すぐ白の中へ溶けて消えた。
「シャングリラ大陸は広大です。あなた方の知る大陸とは比べものにならないほどに。そこには、ローディス王国、セビリア帝国、エルリューン王国、ポトフ・ユナイテッド王国をはじめ、多くの国々があります。ですが、あなた方が最初に至るのはローディス王国です」
「その国が、私たちを呼んだ国なんですね」
「正確には、その国の第四王女が禁忌を犯しました」
アルテイシスの声は、静かだった。
「ローディス王国そのものは、多種族を受け入れる寛容な国です。王家は人族ですが、臣下には多くの種族がいます。けれど、どれほど国が寛容であろうと、王女個人の罪が消えるわけではありません」
杏奈は唇を引き結んだ。
「その王女は、私たちを何かに利用するつもりだったんですか」
「彼女に、そこまで明確な計画はありません」
「では、なぜ」
「好奇心。そして傲慢です」
アルテイシスの声には、わずかな痛みがあった。
「彼女は天才です。けれど、己の才を過信し、禁忌の重さを理解しませんでした。異界の魂を呼ぶということが、あなた方の人生を奪う行為であることを、正しく想像しなかった」
修司は低く息を吐いた。
悪意ではない。
だから何だというのか。
誰かを傷つける意思がなければ、傷つけたことにならないわけではない。知らなかったから、想像できなかったから、王女だから、天才だから。それで二人の人生が元に戻るわけではない。
「会えるんだな。その王女に」
「はい。あなた方はまもなく、彼女が術を発動した場所へ到達します」
「なら、文句の一つくらい言わせてもらう」
「修司」
「分かってる。殴らない。たぶん」
「たぶんじゃ困る」
こんな状況なのに、杏奈はそう言った。
修司は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。笑える状況ではない。それでも、杏奈のその一言が、崩れかけていた足場を少しだけ固めてくれた。
「……努力する」
「してください」
アルテイシスは、二人のやり取りを静かに見ていた。
その表情は、神というには少しだけ人間に近かった。憐れみではない。哀しみでもない。けれど、何も感じていないわけではない。
「あなた方には、この世界の言葉を理解し、話すための調整を施します。文字についても、学べば身につくよう下地を整えます」
「それ以外は?」
修司が聞いた。
「元の世界に帰す力はない。でも、その世界で生きろって言う。なら、俺たちはそこで生きられるだけのものを持ってるのか」
アルテイシスは修司を見た。
その瞳の奥で、金色の光が静かに揺れた。
「あなた方は異界の魂です。この世界の住人とは異なる性質を持っています。特にあなた、神崎修司。あなたの魂は、この世界の魔力の理に対して極めて大きな器を持つでしょう」
「魔力……」
「ですが、器の大きさは力そのものではありません。扱いを知らぬ力は、時に己を傷つけ、守りたい者さえ傷つけます。学びなさい。制御しなさい。怒りだけで振るえば、その力はあなた自身を焼くでしょう」
修司は黙った。
魔力。魔法。異世界。
どれも現実離れした言葉だった。だが、今の修司には笑えなかった。
アルテイシスの視線が、次に杏奈へ移る。
「来女木杏奈。あなたは彼とは異なります。大きさではなく、整える力に優れるでしょう。見ること、考えること、組み立てること。乱れたものをほどき、形を与えること。それらがあなたの支えとなります」
杏奈は目を伏せた。
「私は、修司の足手まといになりますか」
修司は思わず振り向いた。
「杏奈」
そんなことを考えていたのか。
こんな状況で。自分も怖いはずなのに、不安で仕方ないはずなのに、彼女はもう修司のことを考えている。
アルテイシスは静かに首を横へ振った。
「いいえ。あなた方は異なる。だからこそ、互いを補えます」
杏奈の指が、修司の手を少しだけ握り返した。
修司はそれを受け止める。
「魔法は、あなた方の世界の理とは異なるものです。シャングリラ大陸では、術者が魔力を精霊へ渡し、精霊がそれを術として形にします。火には火の精霊が、水には水の精霊が、風には風の精霊が、土には土の精霊が、光には光の精霊が、闇には闇の精霊が宿ります」
アルテイシスの指先に、淡い炎のような光が灯った。
それは熱を持たない炎だった。揺らめきながらも、どこか生き物のように見える。
「神崎修司。あなたには火の性質が強く現れるでしょう。火の上位精霊、『炎』に連なる適性です」
炎の光が消え、今度は透き通った水の雫が浮かぶ。
「来女木杏奈。あなたには水と光の性質が現れるでしょう。特に水は、あなたの在り方に近い。流れ、受け止め、形を変え、時に守る力です」
杏奈は浮かぶ水の雫を見つめていた。
そこに何を感じたのか、修司には分からない。だが、彼女の目にわずかな迷いと、それを押し殺す意志があるのは分かった。
「ただし、あなた方はまだ何も知らない。詠唱も、制御も、精霊との関わり方も、魔力の流し方も。力は可能性でしかありません。生きるためには、学ばなければなりません」
「……その世界は、危険なんですね」
杏奈が言った。
「はい」
アルテイシスは曖昧に慰めなかった。
「魔物がいます。争いがあります。人の善意もあれば、悪意もあります。あなた方を召喚したローディス王国が、必ずしもあなた方の敵になるとは限りません。けれど、知らぬ世界である以上、無防備でいてよい場所ではありません」
「信用しすぎるな、ってことか」
「疑いすぎれば孤立します。信じすぎれば利用されます。見極めなさい」
修司は苦い顔をした。
「杏奈向きだな、それ」
「修司にも必要なことよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力する」
杏奈は小さく息を吐いた。
そのやり取りが、ほんの少しだけ二人を日常へ引き戻す。だが、白い神域は確かにそこにあり、目の前には神がいる。日常はもう遠い。帰り道は見えない。
それでも、修司は杏奈の手を離さなかった。
アルテイシスが二人へ向き直る。
「本来、私はこれ以上あなた方に関わるべきではありません。神の直接干渉は、世界の理を歪めます。あなた方をここへ招いたことさえ、許される境界のぎりぎりです」
「じゃあ、どうして」
修司が問う。
「見過ごせなかったからです」
その答えは、神の言葉にしてはあまりにも人間的だった。
「異界より引き寄せられた魂が、何も知らぬまま地上へ落とされる。それをただ見ていることが、私にはできませんでした」
杏奈は黙って頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は静かだった。
それでも、その言葉は軽くなかった。元の世界へ戻せない相手に礼を言うのは、簡単なことではない。だが杏奈は、助けられた部分と、救われなかった部分を分けて受け止めようとしていた。
修司も遅れて息を吐く。
「あんたが悪いわけじゃないのは分かった。助けてくれたことには、俺も礼を言う」
アルテイシスはわずかに目を細めた。
「あなた方の行く先に、光がありますように」
「できれば帰り道も欲しいんだけどな」
「修司」
「分かってる」
修司は杏奈を見る。
杏奈もこちらを見ていた。
彼女は怖がっている。修司には分かる。指先はまだ冷たい。顔色もよくない。それでも、彼女の目は逃げていなかった。泣き崩れることも、叫ぶこともせず、必死に前を見ようとしている。
修司は、その強さに救われた。
同時に、守らなければならないと思った。
だが、守るというのは、彼女を後ろに隠すことだけではない。杏奈は、ただ守られるだけの人間ではない。隣に立ち、考え、止め、時に修司を前へ押し出す人間だ。
ならば、修司がするべきことは一つだった。
離さないこと。
そして、折れないこと。
「杏奈」
「うん」
「行くぞ」
「どこに?」
「分からん」
「そういうところ、本当に修司らしい」
杏奈は不安そうにしながらも、少しだけ笑った。
修司はその笑みを見て、腹を決めた。
戻れない。
知らない世界へ行く。
理不尽に巻き込まれた。怒りもある。恐怖もある。何が待っているのか、何一つ分からない。
それでも、杏奈が隣にいる。
なら、まずは生きる。
考えるのは、その後でもいい。
いや、考えるのは杏奈に任せる部分も多いだろう。そう思った瞬間、修司は少しだけ自分らしさを取り戻した。
白い空間が揺らぎ始めた。
遠くで、鐘のような音が鳴った。音というより、世界の奥で何かが開く気配だった。金色の粒が流れを持ち、二人の足元へ集まっていく。そこに、見覚えのない紋様が浮かび上がった。
さきほど二人を呑み込んだ光に似ている。
しかし、今度の光は荒々しくなかった。冷たくもなかった。まるで、落下する者を少しでも傷つけまいとする手のように、静かに二人を包んでいく。
「これより、あなた方は境界を越えます」
アルテイシスの声が響く。
「到達する先は、ローディス王国。王城地下、禁書庫最奥の封印区画。召喚の術が開いた場所です」
修司の手に力が入った。
そこに、アリスがいる。
二人の人生を勝手に変えた王女がいる。
怒りが再び胸の奥で燃えた。だが、同時に杏奈の手の感触がある。その感触が、修司をただの怒りに沈ませなかった。
「神崎修司」
アルテイシスが言う。
「その火を、憎しみだけに使ってはなりません」
修司は答えなかった。
けれど、その言葉は確かに胸に残った。
「来女木杏奈」
アルテイシスの視線が杏奈へ移る。
「恐れを恥じてはなりません。恐れながらも考え、選ぶことが、あなたの強さになります」
杏奈は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……覚えておきます」
光が強まる。
白が、金色を帯びていく。
アルテイシスの姿が、少しずつ遠ざかっていく。いや、遠ざかっているのは二人の方かもしれない。距離も方向も分からない。ただ、神域という場所から、別の場所へ押し出されていく感覚だけがあった。
修司は最後に、女神を見た。
「アルテイシス」
「はい」
「俺たちは、生きる」
それは感謝でも、誓いでも、宣言でもあった。
「勝手に呼ばれたからって、勝手に終わってやるつもりはない」
アルテイシスは、静かに頷いた。
「それこそが、あなた方の意志です」
杏奈が修司の手を握り返す。
「修司」
「ん?」
「無茶はしないで」
「できるだけ」
「約束して」
修司は少しだけ黙った。
約束という言葉の重みを、こんな時だけは茶化せなかった。
「分かった。約束する。できるだけ無茶はしない」
「そこはまだ残すのね」
「絶対しないって言うと、嘘になりそうだから」
杏奈は困ったように笑った。
「本当に、修司らしい」
光が視界を満たす。
足元の感覚が薄れていく。身体がふわりと浮き、次の瞬間には、深い場所へ落ちていくような感覚が来た。だが、不思議と恐怖だけではなかった。
修司は杏奈の手を握っていた。
杏奈も修司の手を握っていた。
世界が変わる。
日常が遠ざかる。
帰る道は見えない。
それでも二人は、まだここにいる。
アルテイシスの声が、最後に白い光の向こうから届いた。
「生きなさい。あなた方自身の意志で」
その言葉を最後に、神域の白がすべてを包み込んだ。
修司は目を閉じなかった。
杏奈もまた、目を逸らさなかった。
二人は手を繋いだまま、まだ見ぬ異世界へと続く境界の光の中へ、静かに呑み込まれていった。




