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乙女ゲームなんてクソくらえ!  作者: 柳澤伍
舞台に上る以前の話
9/9

9歳―自領の自宅にて

 クラウゼリア王国の南の盾、ノイエンドルフ公爵領はこの世の幸せと絶望が同時に訪れたような空気が流れていた。領民たちは口を開けば溜息を繰り返し、何かを振り払うかのように頭を振っている。


 彼らがそのような行動を起こすのは、ノイエンドルフの傑物と名高い領主の次男坊―ジークハルト・エクヴィルツ・ノイエンドルフがこの春から王都にある王都学術院へと旅立ってしまうからだ。彼の傑物ぶりと言えば、国中に知れ渡っていると言っても過言ではない程である。そんなジークを慕い、崇める領民たちは彼との別れを思ってこうして悲しみに暮れているのであった。


「……慕われているとは思っていたが、ここまでとは思わなかったなあ」

「父上を差し置いてわたしがこうも民に愛されていて良いのでしょうか」

「まあいいんじゃないかな。行く行くはジークがこのノイエンドルフ領を治めるのだから、これだけ民に愛されているというのは強みになる」

「それはまぁ、そうですが」


 ジークは自領にあるノイエンドルフ公爵邸のとある一室で父であるヴィルヘルムと対峙していた。冬の初めに王都より戻ってきてからというもの働きづめだったジークであるが、もうすぐ春がやってくるというところでようやく人心地つくことが出来たのだ。そして気付いた時には王都学術院への入学が間近に迫っており、こうして残り少ない家族との時間を過ごしている。


(あと少しで王都学術院へ入ることになるのか…そうしたらセカキミ(乙女ゲーム)の世界が始まっていく)


 ジークやエドゥアルトといったイレギュラーな存在がいる中で、この世界はゲームとどれほど乖離(かいり)していくのだろう。ジークはそれが楽しみで仕方ない。もし、自身にとって不都合な方向に向かったとしても、今の己はそれを跳ね返すだけの手段を持っている。ジークリンデ(ゲームの悪役)のようになることはまずないだろう。ただし、油断は禁物だ。


(どんなシナリオ補正が来てもいいように手は打っておかなければ…)


 そこまで考えて、ジークは手ずから淹れた紅茶で喉を潤す。ジーク気に入りのそれはノイエンドルフ領の新たな特産となったもので、この世界でも最高の級とされていたダージリンだけで作ったアールグレイだ。


 ノイエンドルフ領はクラウゼリア王国の最南部に位置している。南は海、西と東は険しい山脈に囲まれていながらも、その山々からの雪解け水を源流とした大河が南の海へと流れ込み肥沃な大地を作っているという王国の食糧庫だ。そのノイエンドルフ領の東に走るランプレヒト山脈の急こう配を利用して栽培しているのだ。小早川翔(ジークの中の人)紅茶中毒者(ティー・ジャンキー)であったためか、ジークが領地経営を任されるようになって真っ先に手を付けたのが紅茶栽培であった。幸い、紅茶好きが高じて無駄に蓄えた知識だけはあったから、苗木を取り寄せて領民たちと一緒になって育て上げるのは簡単だった。そうして一つ実績を立てたところでさらなる発展のために、と着手したのが塩造りとコメ作りであった。


 それが軌道に乗った今、次にやるのはサケ(日本酒)造りだろう。日本酒のあのトロッとした喉越しと後から来るキレを思い出し、ジークの頬が僅かに緩む。そう、小早川翔(ジークの中の人)は重度の紅茶中毒(ティー・ジャンキー)であり、極度の酒好きでもあったのだ。しかも質の悪いことにザルを超えたワクという大蟒蛇(おおうわばみ)であったから、一晩でとんでもない量の日本酒が彼の人の腹の中に消えていった。翌日、周囲の者が青褪め、また屍を晒す中、件の大蟒蛇だけは平然とした顔で笑っていたというものだから、その肝機能の異常さは推し量るべし。


(ん、つい思考が飛んでしまった。父上とただお茶をしに来ただけじゃないぞ、わたしは)


「そういえば父上、わたしが学術院へ行く間、ヴォルフをこちらに置いていただけないでしょうか」

「おや、ジークがお願い事とは珍しいね。私は彼に何をすればいいのかな」


 ジークの一言で先を読んでしまうヴィルヘルムの頭の回転の速さはさすがと言ったところか。おそらく、ある程度己のおねだりの内容について検討をつけているであろう父に向けて、ジークはニヤリと笑ってそれを口にする。


「ヴォルフの教育をお願いしたいのです。わたしの右腕となれるような教育を」


 そう言い切ったジークを見て、ヴィルヘルムの瞳の奥に楽し気な色が浮かぶ。ある意味では意地の悪い顔を浮かべたままの父を見遣り、ジークはさらに言葉を重ねる。


「父上、わたしは学術院を出た後、すぐに領主としてこの地を盛り立てていかねばなりません。ですので、5年でいいのです。5年でヴォルフをわたしの右腕として使えるようにしていただきたいのです」

「ほう、5年と来たか。割と無茶を言うね」


 ヴィルヘルムの目が僅かにすがめられる。他がその瞳の奥には相変わらず楽し気な色と、それに加えてジークを試すような色が宿っている。そうだ、今、己は彼の息子としてではなく、一人の人間として試されているのだ。それがわかるとジークの心の奥底から沸々と何かが湧き上がってくるのが感じられた。


「ええ、正直5年では難しいでしょう。ですがわたしは既にヴォルフへ5年後に学術院へ呼び寄せると伝えました。わたしが5年で来いと言ったのであれば、必ずそれに従うのがあの男です。ですので心配はいらないかと」

「いやあ、そちらもだけどね、私達教える側の人間のことも考えておくれ。特に私やコンラートはそんなに暇ではないよ」

「だからです。父上とコンラートの傍に置き、目で見て耳で聞いて体を動かして学ばせてください。講義を行う必要なぞありません。ヴォルフに学んでほしいのは領主の仕事がどういったものであるか、そしてどういう補佐が必要であるのかです」

「ふぅん、言い切るね。でも私達は彼に一から教えてあげることはしないよ」

「そのあたりに関しては心配いりません。王都に居る間、向こうでローレンツとわたしである程度叩き込みましたから。紅茶の淹れ方に関してはわたしが保証しましょう。その他のことに関してもローレンツが及第点を出していましたのでそんなに酷くはないでしょう」

「ローレンツが及第点を出した人材なら喜んで受け入れよう」


 ローレンツというのは王都のノイエンドルフ公爵邸に居る使用人であり、ノイエンドルフ公爵邸に勤める使用人のトップでもある家令を務めている。現在は息子であるコンラートが執事としてヴィルヘルムの傍に控えているが、数年前までは彼がヴィルヘルムの傍に控えていたのだ。ローレンツ曰く「もう歳だから気軽にホイホイ出歩けない」ということであったが、彼はヴィルヘルムと10ばかりしか離れておらず家令として王都の公爵邸を切り盛りする姿はまだ一線級の迫力があった。


 ジークがヴォルフを己の従者にすると決めて一番最初に向かったのがローレンツのところである。そこで使用人としての基礎をみっちり叩き込んだ上でノイエンドルフ公爵家・執事育成プログラムを課したのだ。最初こそ文句を言っていたヴォルフであったが、ローレンツの鉄拳教育のお陰で今や立派な執事見習いだ。従者としてジークの傍に控えていてもさして問題はないが、どうせならばとハードルを上げた結果がこのおねだりだった。


 ジーク一人の及第点だけではその心を動かすことはなかったようだが、家令であり、かつて自身の傍に控え領主の仕事を補佐していたローレンツのお墨付きとあってはさすがのヴィルヘルムも認めざるを得なかったらしい。むしろ今この瞬間からヴォルフをどう鍛えていくか算段していることだろう。


「ありがとうございます、父上。ローレンツも喜んでいることでしょう。まるで遅くにできた子供か孫のように可愛がっていましたからね」

「ああそうか、なるほど。だからコンラートが嬉しいような何とも言えないような顔をしていたのか」

「ヴォルフもローレンツとナディアを両親のように慕っていましたからね。少しばかり早いですがイグナーツも共に学ばせて良いのでは?ヴォルフも己より幼い子供がいた方がやる気が出るでしょう」


 ナディアはローレンツの妻で彼とともに王都の公爵邸でハウスキーパーをしている。優しそうな風貌のわりにきびきび働くしっかり者だ。イグナーツはコンラートの息子で、ローレンツとナディアの孫にあたる。今年5歳になったばかりだが、コンラートの後について回りたがり、彼や彼の妻であるアルマを困らせているらしい。


 ジークの提案はコンラートの心配の種を解消するのと、イグナーツの好奇心を満たすだけでなく、ヴォルフの教育にも役に立つというまさに一石三鳥の提案であった。それはヴィルヘルムのお眼鏡にかなう回答であったらしく、彼は満足げにうなずくと、ジークの頭を撫でて椅子から立ち上がる。ジークもティー・カップに入っていたアールグレイを全て飲み干すと彼に続く。


 男の盛りにある背の高いヴィルヘルムを見上げる。ゲームで見た、あの冷徹な宰相としての面は今はどこにもうかがえない。けれど、あれもまたヴィルヘルムというひとりの人間を形作る要素の1つ。今のヴィルヘルムにはそれを見せる必要がないから出てこないだけで、彼が穏やかなだけの人間だとは思ってはいけない。


「うん?ジーク、どうかしたかい」

「…いいえ、何でもありません」

「そうか、困ったことがあったら何でも言うんだよ。勿論、学術院に行ってもね」

「ありがとうございます、父上」


 そうしてジークとヴィルヘルムは連れ立って部屋を後にする。父に連れられて向かうのは、きっと母の待つ部屋だろう。ジークを甘やかしたくて仕方ないらしい母、リーゼロッテはきっと菓子や果物を用意して待っているに違いなかった。


(あと3週間で入学式か……)


 ノイエンドルフ領から王都まで馬車で行くだけでほぼ10日かかる。それから入学への準備を執り行うことも考えて、明日にはここを出なければならない。兄レオンの時も母はこうしてちょっとしたお茶会を開いてくれたが、己の時はより力が入っていそうだ。


(紅茶は今飲んできたばっかりなんだがな……)


 だがリーゼロッテに面と向かってそう告げる訳にもいかず、己はきっと笑顔で用意された紅茶を飲むのだろう。それを考えるとなんだか少し陽気な気分になって、ジークは口の端をやわらげる。


「おや、やはり私じゃなくて母様の方が嬉しいのかい」

「いいえ、そういう訳ではありませんが何だか愉快な気分になったのです」

「なぁんだ残念、こういう時くらいジークの年相応のところが見られるかと思ったんだけどなあ」

「何ですかそれ…。レオン兄上も立派に旅立たれていたじゃありませんか」


 7つ上の兄が学術院へ入学した際のことを思い出しながらそう言うと、ヴィルヘルムは驚いたように目を丸くした後、したり顔で微笑んだ。


「レオンめ、弟の前では格好つけたな。……ジークは知らないようだけどね、出立前の夜にレオンは私とリズの寝室に来て大泣きしたんだよ。『ジークと離れたくない~っ』ってね。そこは父様達と離れたくない、じゃないのかーって少し残念だったなあ。これ、私が話したことはレオンには内緒にしておいてくれよ。まぁ兄弟喧嘩する時くらいには使ってもいいと思うけど」

「レオン兄上にも可愛いところがあったんですね」

「うん、だからジークもそういう可愛いところを見せてくれたっていいんだよ?」


 茶目っ気たっぷりに笑うヴィルヘルムはただの子煩悩な父親でしかない。今のジークは彼から警戒されるような部分などなく、最大限愛してもらっているのにどこかでまだゲームの世界の彼と混同してしまう己がいることにジークは衝撃を受ける。ともすれば表情に出てきそうになるそれを押し殺して、ジークはヴィルヘルムを見上げる。


「それじゃあ我儘を言いますね。……父様、わたしを母様の部屋まで抱っこして運んでください」


 ジークのその言葉にヴィルヘルムが目を瞠ったのは一瞬で、すぐにジークの華奢な体は強い力で上へと引き上げられ、そのまま父のがっしりとした腕に抱えあげられる。間近で見たヴィルヘルムの顔はとろけそうなくらい綻んでいて、なんだかとてもくすぐったい。


「ジーク、私だけじゃなくてリズにもそうやって甘えてやってくれ。じゃないと私が彼女から恨まれそうだ」

「そうですか、なら、母様にはケーキを食べさせていただくことにしましょう。わたしが子供と言えど、母様の膝の上に座るには育ちすぎましたからね」

「ううん、なんかリズのことだから頑張ってやってしまいそうだけどね」

「母様の脚が心配なので全力で遠慮します」


 ジークはそう言ったけれど、結局母には勝てず、リーゼロッテの膝の上でケーキを食べたことはノイエンドルフ公爵夫妻とその次男のみの秘密である。

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