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第七話

 体にかかる力が軽くなり、やがて浮いた気がした。冷たいと思っていた流れも温かく感じるようになっていた。目蓋の向こう側が明るい。けれど体が浮いているのだからまだ水の中だろう。苦しさもなくなった。むしろ心地良い。このまま水に溶けてたゆたっていたいくらいだ。何の力も要らない。それはとても気持ち良いことに思えた。

 だが、頭の片隅には、いったいどうしてしまったのかと考えるツクヤメもいる。まだ浮かんでいる感じがあるということは、黄泉までつながる川まで流れてきたのだろうか。

 川の果てには、アラナミヒコの生まれ育った村があり、浜という川の岸に似た砂に覆われている場があり、海が広がっているという。ツクヤメはその海を見たかった。川に流されれば辿り着くのではないかと思ったが、このままでは黄泉に辿り着く気がする。それがとても惜しいことのように思えた。

 海は、アラナミヒコを育んだだけでなく、ツクヤメの母も育んだものだった。

 今まで考えないようにと言われてきた母のことを思う。アラナミヒコから聞いた海の村での暮らしを思うと、母にとっての山の村での暮らしは辛いことの連なりだったのかもしれない。泣いて暮らしたのであろうか。海の村に帰りたいと思ったのだろうか。

 娘と夫を捨ててまで帰りたいと思わせた海とは、いったいどんなものだろう。ツクヤメも海を見れば海を愛しく思うようになるのか。

 海に行きたい。海に流れ着きたい。海に還りたい。

 ――真に行きたいと思うか。

 心から思う。

 ――他には何も要らないと言えるか。

 もともとツクヤメには何もない。今のツクヤメにあるのはただアラナミヒコや母を育てた海への思いだけだ。

 ――もし汝が真に海へ行きたいと願わば、汝を海へ運んでやることはできる。

 心から願っている。誰かが海へ運んでくれると言うなら、どうか運んでもらいたい。

 ――よろしい。では、今から我の問うことに答えよ。運んでやる代わりに、汝も我に答えて、我が知らまほしきことについて嘘偽りなく話せ。

 答えられることであればどんなことでも話す。

 ――まず一つ目。汝は海の民を憎むか?

 なぜそのようなことを問うのか。海の村の人々は心からアラナミヒコの先を考えていたに違いない。まして川を質に取られたのであればなおさらだ。海の村の人々にも海の村の人々の暮らしがあるのだ。

 そもそも、ツクヤメは海の村と山の村が分かれた日のことを知らない。嫗が娘であった頃の諍いを、今娘であるツクヤメが繰り返したところで、悲しみが増すだけだ。

 ――次に二つ目。汝は山の民を憎むか?

 悲しく思いはする。だが、憎むことはできない。山の村の人々は閉ざされたあの村の中だけで生きている。昔の諍いに振り回され、今も自ら創り出した掟に囚われて過ごしている。海の村の人々に捨てられ、寂しい思いをしたこともあったのかもしれない。ひょっとしたらツクヤメの母をわずかな間でも受け入れたのはそれゆえかもしれないし、そのツクヤメの母もいなくなってしまった。

 それに、ツクヤメを育てたのはやはり山の村の人々だ。山の村の人々は、ツクヤメを殺してしまおうと思えば、いつでもそうできた。十余り六年も生きてこれたのは、山の村の人々がツクヤメのいる村をよしとして見過ごしてくれたからだ。

 ――それから三つ目。汝は己が父を恨むか?

 とんでもない。おっとうはツクヤメを心から愛しんでくれた。女のする子守りをしていると笑われながらも、どうにかしてツクヤメを育てようとしていた。それなのに何をもって恨むと言うのか。

 おっとうはおっかあの話をしなかった。だからどのようにしてツクヤメが出来たのかは分からない。だが、海の村の人々が言うようなひと時のことであったら、おっとうはあんなにツクヤメを愛しんだだろうか。おっとうはおっとうなりにおっかあに想いを寄せていたのではなかろうか。そうであれば何の障りがあろうか。

 ――そして四つ目。汝は己が母を恨むか?

 幼い頃は恨んだこともあった。どうしてツクヤメを置いていったのかと、おっかあが恨めしくて泣いたこともあった。しかし昔の話だ。子のために川を上って慣れぬ山の村までやって来たおっかあのことを思う。おっかあがいつまで山の村にいたかは知らない。けれど十月十日を待ってツクヤメを産んだことに変わりはないだろう。

 よくよく考えれば、ツクヤメとアラナミヒコのことと変わらないのではないかと思える。山の村で育った若者が、海の村で育った娘と、恋をした。許されぬ恋だと知らずに子を成した。そう思うと、おっかあはツクヤメと何ら変わらない娘だったと思える。そこに恨む由はない。

 ――これで終わりだ。汝は新しい世を見よう。山での暮らしとは何もかもが異なる世へ足を踏み出そう。それも受け入れるか。受け入れて生きるか。

 ツクヤメは笑った。

 新しい世へ行くことは恐ろしいばかりではないのだ。たとえば山の村で育った海の村の人々が海を見つけた時のようにそこには何か素晴らしいものが待っているかもしれないのだ。

 ただ、次に新しい世へ生まれ出でることができるなら、その時こそ、アラナミヒコと結ばれて、海の近くの家で幸せに暮らしたい。たくさんの子を産み育て、縫い物や編み物をして働き、日々を愛しんで生ききたい。

 ――よろしい。真によろしい。汝の願いを叶えて進ぜよう。

 にわかに流れが強くなり、体が滑るように動いた。今まで漂うように浮いていたのが、また押し流されるのに変わってしまった。ツクヤメはそれを怖いと思った。だが、仕方のないことだ。きっと生まれ変わるのに要ることなのであろう。気にすることはない。少し苦しいのを耐えれば、そこには海があるはずだ。

 そう思った時腕に熱いものを感じた。誰かが腕に触れている。否、つかんでいる。強く握り締められ痛みさえ覚えた。

 ――これもつけておこう。木の実と耳飾りの価だ。受け取るがいい。






 気がついたら、空は明るく晴れていた。

 体を起こして、頭の上に輝く日を見つめた。雲一つない青空だ。美しい、深い青が広がっている。突き抜ける、どこまでもどこまでも吸い込まれて落ちていってしまいそうな空がそこにある。

「……あれ……?」

 呟いてからはっとした。それは聞き慣れたツクヤメの声だった。

 驚いて自らの体を見下ろした。着慣れた衣はツクヤメのものだった。すらりと伸びた足には、膝の擦り剥いた痕、脛の草で切った痕、親指の爪の剥がれた痕、何もかも気を失う前に山の村から神の依り代のある岸辺まで走った時のままだ。

「死んでいない……?」

 右手で自らの胸に触れた。その中に動くものがある。生きているのだ。

 左手を動かしてみようとして、左手だけがやたらと重いのに気付いた。まさか左腕だけどこかでどうにかなってしまったのではなかろうかと思い、恐々目を向けたら、左手首に手が巻きついていた。大声を上げてしまいそうになったが、よくよく見てみると、ツクヤメの手首をつかむ手はきちんと腕に続いている。

 腕の先を見て、ツクヤメは目を丸くした。

 右手でしっかりとツクヤメの手首を握ったまま、ツクヤメのすぐ傍らに仰向けで倒れている者の姿があった。

「う……ん……?」

 その目蓋が、ゆっくり、持ち上がった。そして口を開いた。

「ツク……ヤメ……?」

「アラナミヒコ……!」

 思わず縋りついた。アラナミヒコはまだどこかぼんやりとした目をしていたものの、そんなツクヤメを抱き留め、小さく「へへ」、と笑った。

「どうして……っ」

「だから、離さないと言っただろう? すぐに追い掛けた」

 アラナミヒコの手に頭を撫でられた。ずっとこうしていたいと思っていた日の心地良さが蘇ってきた。胸がいっぱいになって言葉が詰まった。言葉の代わりに目から違うものが溢れてきて流れた。アラナミヒコが「泣くなよ」と言ってそれを舐め取った。

「そんなことより、ほら」

 言いながらツクヤメを強く抱き締め直して、ツクヤメを抱えたまま身を起こした。ツクヤメもアラナミヒコにつられて体を起こしたため、アラナミヒコの膝の上に座り込む形になった。

「見ろよ。俺たち、どこまで流されたんだろうな」

 アラナミヒコが顎で背中の向こう側を指し示したので、後ろを振り向いた。

 そこには見たこともない景色が広がっていた。

 幅の広い水――恐らく川の水――が白く細かい砂が敷き詰められているところを流れていく。そしてその辿り着く先に水が湛えられている。その水は、青とも、蒼とも、藍とも、紺とも似つかないような気もするし、そのすべてでもあるような気がする。不思議だ。見ていると吸い込まれそうになる。空よりも強く惹き込まれる。真に水だろうか。こんなに多くの水は見たことがない。だが川のように波を起こしている。波は砂の上を流れては引いていく。こんな波の動きを見るのも初めてだ。同じように水を溜めておくものと言っても池とはまるで異なる。

 優しい音がする。心地良い音がする。懐かしい音がする。

「アラナミヒコ……、これ……なに……?」

 どうしてだろう。見ているだけなのに涙が溢れてくる。

「海だ」

 とうとう還ってきた。

「うみ」

 還るべきところへ、辿り着いたのだ。

 頭の中から消えてしまったはずの母がそこで微笑んでいるような気がした。

「ここで二人で暮らそう」

 アラナミヒコが言う。

「家を建てよう。畑も作って、それから子供を作ろう。俺は魚を獲りに海へ出る。お前は畑と子供の世話をしてくれ。帰ってきたらみんなで魚を焼いて食べよう。そしてどちらかが死ぬまで、静かに暮らそう」

 ツクヤメは、頷いた。

「ずっと、ここで、二人で」

 波は穏やかにうねり続けその上を風が優しく撫でていく。そしてツクヤメのところまで海の香りを運ぶ。ずっと感じていたアラナミヒコの香りは海の香りだったのだ。

 これより他に望むものなどない。この川の終わりで、生きることの恵みを二人永久に分かち合うのだ。

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